臼杵の石仏、宇佐神宮、岡城 (桜の花)、富貴寺、昭和の町 (岡城跡 (国の史跡、日本100名城、日本さくら名所100選)、滝廉太郎の像、土井晩翠の詩碑、国宝 特別史跡の臼杵磨崖仏 (まがいぶつ、国の特別史跡、国宝、古園石仏)、臼杵市の郷土料理 黄飯 (おうはん)、臼杵せんべい、富貴寺の大堂は現存する九州最古の木造建築物として国宝、大分県豊後高田 昭和の町 昭和ロマン蔵 駄菓子屋の夢博物館、国宝の宇佐神宮の本殿、宇佐神宮は神輿 (みこし)の発祥 (はっしょう)の地、国東半島の宇佐神宮は神仏習合 (しんぶつしゅうごう) 発祥 (はっしょう)の地、宇佐神宮 (全国の八幡宮の総本社、国の史跡、重要文化財、二拝四拍手一拝、平安時代には宇佐神宮は九州最大の荘園領主)、宇佐参宮線26号 蒸気機関車 (大分県指定有形文化財)、別府市の鉄輪温泉 (別府の湯けむり・温泉地景観として国の重要文化的景観、日本で最初の地熱発電に使われた泉源跡))  (大分県 竹田市、臼杵市、宇佐市、豊後高田市、別府市)







<標高、位置>  「岡城跡」は
標高 約310 m
 北緯32度58分08秒  東経131度24分26秒

<標高、位置>  「臼杵の磨崖仏 (うすきのまがいぶつ)」は
標高 約20 m
 北緯33度05分24秒  東経131度45分45秒

<標高、位置>  「宇佐神宮」は
標高 約20 m
 北緯33度31分23秒  東経131度22分33秒

<標高、位置>  「富貴寺 (ふきじ)」は
標高 約140 m
 北緯33度32分17秒  東経131度31分43秒

<標高、位置>  「昭和の町」は
標高 数 m
 北緯33度33分30秒  東経131度26分17秒

<標高、位置>  「別府市の鉄輪温泉 (かんなわおんせん)」は
標高 約170 m
 北緯33度18分58秒  東経131度28分15秒


 「岡城跡」は大分県 竹田市 大字竹田 にあります。
岡城は東西2500 m、南北 360 m、総面積 23万4000平方メートルの山城です。 まわりより約95 m 高いところにあります。 明治時代の廃城令で廃城となりました。 岡城は明治4年 (1871年)から翌年にかけてすべての建物が壊 (こわ)されました。 昭和11年 (1936年)12月16日に岡城址が国の史跡に指定されました。 平成18年 (2006年)4月6日に日本100名城に選定されました。 平成2年 (1990年)に岡城公園が日本さくら名所100選に選定されました。 「荒城の月」の作曲家の滝廉太郎 (たきれんたろう)は幼少のときに竹田で暮らしました。 この岡城で曲想を得たと言われています。 滝廉太郎の銅像が岡城跡にあります。 岡城からは祖母山、傾山、阿蘇山、九重連山が見えます。

「国指定史跡 岡城跡」の説明板から、
指定年月日 昭和11年12月16日
指定の理由
 岡城跡は、明治維新後荒廃し、樹木が鬱蒼 (うっそう)としていたが、昭和6年より1部を公園として公開し、藩制当時の盛観を偲 (しの)ばせ、公衆行楽の諸施設を施 (ほどこ)している。
 さらに、展望は飽きることなく、北は九州アルプスの連峰、西は東洋第一の阿蘇の噴煙を眺 (なが)め、南は祖母の高峯一帯の大森林を一望の裡 (うち)に収 (おさ)め、実に天下絶景の地である。
説明事項
城の外観が牛の臥せたる如 (ごと)きにより、別名「臥牛城」という。
築城伝説 文治元年 (1185年)豊後 武士団棟梁 (とうりょう)であった、緒方三郎惟栄が築城。 建武年中 (1333年~1338年)志賀貞朝から17代、260年間 志賀 氏 (大友の一族です。)の居城。
戦歴 天正14年 (1586年)城主 志賀親次 (大友の一族です。)は、島津義弘 率 (ひき)いる薩軍と激しく交戦して最後まで死守し、岡城が堅城としての名声を天下に示した。
現存城郭 (じょうかく) 文録3年 (1594年)中川秀成が入部 (国守・守護・大名などが初めて自分の領国に入ることです。)してから13代、277年間 中川 氏の居城。

 岡城の「空井戸 (からいど)」の説明板から、
井戸の深さ 48尋 (73 m)、穴の直径 (入口) 9尺 (3 m)、下部 6尺 (2 m)、入口より4間半 (8 m)まで石で巻下し、底は水なく平たき石を詰 (つ)めあり、北方の石垣の隙より風が通っている。 底より高さ4尺の処 (ところ)に東向きに穴あり、その深さ手の届く程度の処に観音像らしきものが安置されている。

 「臼杵磨崖仏 (うすきまがいぶつ)」は大分県 臼杵市 深田 にあります。
臼杵の磨崖仏には4群60余体の磨崖仏があります。 臼杵の石仏とも呼ばれます。 1952年 (昭和27年)に国の特別史跡になり、1995年 (平成7年)には、磨崖仏として日本で最初で、彫刻としては九州初の国宝になりました。 山岳仏教の衰退とともに忘れられていました。 今とは異なり、昔はV字谷の壁にありました。 現在は整備されてV字谷ではなくなって、見晴らしが良くなっています。

 「国宝 臼杵石仏」の説明板から、
臼杵石仏は、九州の東海岸、大分県 臼杵市 大字中尾 字深田 に所在しています。 この地には、切り立った丘陵の崖面に彫 (ほ)りだされた磨崖仏 (まがいぶつ)と1つの岩の塊 (かた)まりを削 (けず)って石像とした持ち運び可能な石仏との2種類あります。
 臼杵の石仏は、阿蘇溶結凝灰岩という軟質の石に彫 (ほ)られているため、風化しやすく、永い年月の間に亀裂 (きれつ)を生じたり、剥落 (はくらく)するなど傷 (いた)みがひどくなっていました。 このため1980年から1994年までの14年間、磨崖仏を中心に保存修理工事が行われました。 さらに、保存修理の効果をより高めるために修理の終わった各 磨崖仏群に保存施設としての覆屋も設置されました。
いずれも造顕年代は、はっきりとしていませんが、美術史的見地から平安時代後期~鎌倉時代にかけて彫 (ほ)られたと考えられています。 (保存修理が終わった後に)59体の磨崖仏が1995年6月15日に、石仏としては我が国ではじめて「国宝」の指定を受けました。

 「臼杵市の郷土料理 黄飯 (おうはん)」の説明ポスターから、
「黄飯」は「かやく」とペアになっています。 「黄飯」とは、くちなしの実を一晩水に浸 (ひた)し、その汁で炊いたご飯です。 「かやく」とは、おかずの事で、魚のダシで大根、人参 (にんじん)、ごぼう、しいたけ、豆腐 (とうふ)その他を煮込 (にこ)んだものです。 この「かやく」を「黄飯」の上にのせ、混ぜて食べるのが伝統的な食べ方で、全 (すべ)て天然の自然食品を使用しているため「薬用膳」ともよばれています。

 「宇佐神宮」は大分県 宇佐市 南宇佐 2859 にあります。
宇佐神宮 (うさじんぐう)は式内社 (名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社、旧社格は官幣大社 (かんぺいたいしゃ)、現在は別表神社です。 全国に約44000ある八幡宮の総本社です。 通称として宇佐八幡、宇佐八幡宮とも呼ばれます。 境内 (けいだい)は国の史跡に指定され、国宝の本殿や重要文化財の工芸品があります。 参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝を作法としています。 平安時代には宇佐神宮は神宮寺の弥勒寺 (みろくじ)とともに九州最大の荘園領主でした。 他の社寺と同じように神人 (じにん)による武装もしていました。 このために豊後国などの有力武士と敵対しました。 大友宗麟 (おおともそうりん)によって焼かれました。 そのときに大宮司は北九州市の到津八幡まで逃亡しました。 江戸時代には幕府から寄進された宇佐神宮の神領も存続することになりました。

 宇佐神宮の説明板から、
 宇佐神宮は全国4万余の八幡社の総本社である宇佐神宮の本殿は、檜 (ひのき)皮葺 (ふき)白壁、朱漆 (うるし)塗柱で華麗。 八幡造という様式の代表建造物で、国宝に指定されています。

 「宇佐神宮」の説明板から、
御祭神
一の御殿 八幡大神 (応神天皇)、二の御殿 比売大神 (ひめのおおかみ)、三の御殿 神功皇后
 宇佐神宮は全国八幡宮の総本宮 勅祭の大社であり 歴代天皇は伊勢の神宮につぐ宗廟 (そうびょう) 我朝の太祖 として御崇敬になられています また私たちの祖先は各地に宇佐の八幡宮をお迎えして 氏神や鎮守のお社としました
 神代に三神の比売大神 (ひめのおおかみ)がご降臨になったこの宇佐の地に 約1400年前の欽明天皇32年 応神天皇のご神霊がはじめて八幡大神としてあらわれになり 各地をご巡幸後この亀山にお鎮 (しず)まりになりました のち弘仁14年 応神天皇の御母君であられる神功皇后 (こうごう)をお祀 (まつ)りし三殿のご鎮座となりました

 「1250年の時空を超えて」の説明板から、
 天平勝宝4年 (752年)、聖武天皇の進めた東大寺 大仏造立事業が完成しました。 八幡神はこの事業を支援したため輿 (こし)に乗って入京し、完成間近の大仏を拝しました。 これが神輿 (みこし)の起源とされています。 宇佐八幡神輿フェスタは、1250年の時空を超えて八幡神輿の大仏参拝を再現し、「神仏習合と神輿 (みこし)発祥の地・宇佐」を全国にアピールすることを目的に計画されました。 2002年10月5日、児童・生徒を含む宇佐市民など約500人の行列が、宇佐八幡神輿 (みこし)を奉じて東大寺を参拝しました。 [神仏習合 (しんぶつしゅうごう)とは日本固有の神の信仰と仏教信仰とを折衷 (せっちゅう)して融合調和することです。 奈良時代に始まりました。]

 「宇佐参宮線26号 蒸気機関車 (大分県指定有形文化財)」の説明板から、
 この機関車は明治24年 (1891年)にドイツ・ミュンヘン市のクラウス社が製造、明治27年に九州鉄道 (株)(国鉄の前身)が購入し活躍していましたが、昭和23年機関車の大型化に圧され大分交通 (株)に譲渡の後、宇佐参宮線の主役となりました。
 宇佐参宮線は、大正5年 (1916年)3月開業し、昭和40年8月に廃止されました。
 26号機関車は形式10、製造番号 2550号、最大長 7.509 m 、高さ 3.616 m 、幅 2.546 m 、運転装備時重量 23.36 t で、実に71年間にわたり活躍しました。

 「富貴寺 (ふきじ)」は大分県 豊後高田市 田染蕗 にあります。
 富貴寺の説明板から、
富貴寺: 静かな山の中にどっしりと佇 (たたず)む富貴寺。 現存する九州最古の木造建築物として国宝に指定されています。 春の梅や秋のイチョウ・モミジなど四季の彩 (あや)どりも印象的です。
富貴寺は天台宗の寺です。 本尊は阿弥陀如来で、718年に開いたのは仁聞 (にんもん)です。 国宝の富貴寺大堂 (おおどう)は平安時代の建物です。 天正年間 (1573年~1592年)、キリシタン大名の大友宗麟 (そうりん)の時に、多くの寺が壊 (こわ)されましたが、富貴寺大堂は破壊をまぬがれ、平安時代阿弥陀堂が今に残っています。

 「昭和の町」は大分県 豊後高田市 新町 989-1 にあります。
昭和の町は昭和30年代の町並み (まちなみ)を再現したものです。 2001年に始められました。 懐 (なつ)かしいボンネット バスも走っています。 展示施設の昭和ロマン蔵が中心になっています。 昭和ロマン蔵は昭和10年頃に米蔵として建設されました。

 「鉄輪温泉 (かんなわおんせん)」は大分県 別府市 鉄輪 にあります。
伝説では鎌倉時代に一遍が最初に整備したと言われています。 鉄輪温泉は別府の湯けむり・温泉地景観として国の重要文化的景観に選定されています。 泉質は単純泉、食塩泉、炭酸鉄泉などいろいろです。 別府地獄めぐりの中心に位置しています。 近くには海地獄、鬼石坊主地獄、山地獄、かまど地獄、鬼山地獄、白池地獄などがあります。 近くに日本で最初の地熱発電に使われた泉源跡があります。


写真A: ツアーバスに「湯布院・別府飲み食べ歩き2日間 阪急交通社」と書いてあります。



写真B: ツアーバスです。



写真C: 「岡城展望レストラン」と建物に書いてあります。 左の山の上に岡城があります。



写真D: 岡城展望レストランです。



写真E: 大分県 竹田市 大字竹田 にある「岡城跡」です。 岡城の標高は約310 m です。 桜の花が咲いています。 手前は駐車場です。
「岡城跡」は大分県 竹田市 大字竹田 にあります。



写真F: 山の上に岡城跡があります。



写真G: 岡城跡の石垣が見えます。
「国指定史跡 岡城跡」の説明板から、
指定年月日 昭和11年12月16日
指定の理由
 岡城跡は、明治維新後荒廃し、樹木が鬱蒼 (うっそう)としていたが、昭和6年より1部を公園として公開し、藩制当時の盛観を偲 (しの)ばせ、公衆行楽の諸施設を施 (ほどこ)している。
 さらに、展望は飽きることなく、北は九州アルプスの連峰、西は東洋第一の阿蘇の噴煙を眺 (なが)め、南は祖母の高峯一帯の大森林を一望の裡 (うち)に収 (おさ)め、実に天下絶景の地である。
説明事項
城の外観が牛の臥せたる如 (ごと)きにより、別名「臥牛城」という。
築城伝説 文治元年 (1185年)豊後 武士団棟梁 (とうりょう)であった、緒方三郎惟栄が築城。 建武年中 (1333年~1338年)志賀貞朝から17代、260年間 志賀 氏 (大友の一族です。)の居城。
戦歴 天正14年 (1586年)城主 志賀親次 (大友の一族です。)は、島津義弘 率 (ひき)いる薩軍と激しく交戦して最後まで死守し、岡城が堅城としての名声を天下に示した。
現存城郭 (じょうかく) 文録3年 (1594年)中川秀成が入部 (国守・守護・大名などが初めて自分の領国に入ることです。)してから13代、277年間 中川 氏の居城。



写真H: 「史跡 岡城阯 (おかじょうし)」と書いてある石碑 (せきひ)があります。



写真I: 石碑 (せきひ)があります。



写真J: 岡城にある石碑 (せきひ)です。



写真K: 岡城の下です。 桜の花が咲いています。



写真L: 駐車場から遠くの山も見えます。



写真M: 「国指定史跡 岡城跡 案内図 OKA JO ATO GUIDE MAP」があります。
岡城の造営と修築、岡城宝暦の絵図、地図、滝廉太郎 (たきれんたろう)の像などが載 (の)っています。



写真N: 岡城の造営と修築が書いてあります。



写真O: 「竹田市 周辺 案内板」があります。



写真P: 「竹田市 周辺 案内板」です。



写真Q: 岡城跡に登る車道と歩道です。 桜の花が満開でした。



写真R: 「おみやげ・民芸・工芸・竹製品・名産品」、「しいたけ、かぼす、姫だるま」と書いてあります。 「鉄砲方詰所 跡」と書いてある石碑 (せきひ)も見えます。



写真S: 「鉄砲方詰所 跡」と書いてある石碑 (せきひ)です。 笠 (かさ)、下駄 (げた)などを販売しています。



写真T: ソフトクリームの大きな模型 (もけい)、石碑 (せきひ)、説明板、桜の花などがあります。



写真U: 岡城跡に登る道に石碑 (せきひ)と説明板があります。



写真V: 岡城跡の石垣 (いしがき)があります。 右に孟宗竹 (もうそうだけ)があります。 左の道を登ります。
「岡城跡」は大分県 竹田市 大字竹田 にあります。
岡城は東西2500 m、南北 360 m、総面積 23万4000平方メートルの山城です。 まわりより約95 m 高いところにあります。 明治時代の廃城令で廃城となりました。 岡城は明治4年 (1871年)から翌年にかけてすべての建物が壊 (こわ)されました。 昭和11年 (1936年)12月16日に岡城址が国の史跡に指定されました。 平成18年 (2006年)4月6日に日本100名城に選定されました。 平成2年 (1990年)に岡城公園が日本さくら名所100選に選定されました。 「荒城の月」の作曲家の滝廉太郎 (たきれんたろう)は幼少のときに竹田で暮らしました。 この岡城で曲想を得たと言われています。 滝廉太郎の銅像が岡城跡にあります。 岡城からは祖母山、傾山、阿蘇山、九重連山が見えます。



写真W: 「国指定史跡 岡城跡」の説明板があります。
指定年月日 昭和11年12月16日
指定の理由
 岡城跡は、明治維新後荒廃し、樹木が鬱蒼 (うっそう)としていたが、昭和6年より1部を公園として公開し、藩制当時の盛観を偲 (しの)ばせ、公衆行楽の諸施設を施 (ほどこ)している。
 さらに、展望は飽きることなく、北は九州アルプスの連峰、西は東洋第一の阿蘇の噴煙を眺 (なが)め、南は祖母の高峯一帯の大森林を一望の裡 (うち)に収 (おさ)め、実に天下絶景の地である。
説明事項
城の外観が牛の臥せたる如 (ごと)きにより、別名「臥牛城」という。
築城伝説 文治元年 (1185年)豊後 武士団棟梁 (とうりょう)であった、緒方三郎惟栄が築城。 建武年中 (1333年~1338年)志賀貞朝から17代、260年間 志賀 氏 (大友の一族です。)の居城。
戦歴 天正14年 (1586年)城主 志賀親次 (大友の一族です。)は、島津義弘 率 (ひき)いる薩軍と激しく交戦して最後まで死守し、岡城が堅城としての名声を天下に示した。
現存城郭 (じょうかく) 文録3年 (1594年)中川秀成が入部 (国守・守護・大名などが初めて自分の領国に入ることです。)してから13代、277年間 中川 氏の居城。
と書かれています。



写真X: 「国指定史跡 岡城跡」の説明板。
指定年月日 昭和11年12月16日
指定の理由
 岡城跡は、明治維新後荒廃し、樹木が鬱蒼 (うっそう)としていたが、昭和6年より1部を公園として公開し、藩制当時の盛観を偲 (しの)ばせ、公衆行楽の諸施設を施 (ほどこ)している。
 さらに、展望は飽きることなく、北は九州アルプスの連峰、西は東洋第一の阿蘇の噴煙を眺 (なが)め、南は祖母の高峯一帯の大森林を一望の裡 (うち)に収 (おさ)め、実に天下絶景の地である。
説明事項
城の外観が牛の臥せたる如 (ごと)きにより、別名「臥牛城」という。
築城伝説 文治元年 (1185年)豊後 武士団棟梁 (とうりょう)であった、緒方三郎惟栄が築城。 建武年中 (1333年~1338年)志賀貞朝から17代、260年間 志賀 (大友の一族です。) 氏の居城。
戦歴 天正14年 (1586年)城主 志賀親次 (大友の一族です。)は、島津義弘 率 (ひき)いる薩軍と激しく交戦して最後まで死守し、岡城が堅城としての名声を天下に示した。
現存城郭 (じょうかく) 文録3年 (1594年)中川秀成が入部 (国守・守護・大名などが初めて自分の領国に入ることです。)してから13代、277年間 中川 氏の居城。
と書かれています。



写真Y: 「史蹟 岡城址」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)があります。



写真Z: 「史蹟 岡城址」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)の下に「昭和11年12月16日 文部大臣指定」と書いてあります。



写真AA: 岡城は桜の花が満開でした。 下に「史跡 岡城跡」の石碑 (せきひ)が見えます。



写真AB: 岡城跡の石垣 (いしがき)です。



写真AC: 岡城跡の石垣 (いしがき)と桜の花です。



写真AD: このあたりは上 (のぼ)り坂になっています。



写真AE: 岡城跡の石段、石垣 (いしがき)があります。



写真AF: 岡城跡の石垣 (いしがき)です。 ここが大手門跡です。



写真AG: 「大手門跡」の説明板です。
 大手門は、城の正面に位置する門で、追手門と本来いう。 追手とは、敵を追いつめる方向にあるという意味で、籠城 (ろうじょう、城に籠 (こ)もることです。)のとき敵を正面に追いつめて戦闘を集中させるのが目的であった。
 岡城の大手門は、文録3年 (1594年)中川 氏 入部 (国守・守護・大名などが初めて自分の領国に入ることです。)後、大手・近戸・下原の3口を切り開かれ、慶長18年 (1613年)に朝日がまぶしいため古大手門から現在の位置に移された。 さらに、宝永3年 (1706年)に立て直しを行っている。
 大手門には、侍番が置かれ城中への出入りにはかなりの注意が払 (はら)われていた。
と書かれています。



写真AH: 「是 (これ)より本丸まで350 米 (メートル)」と書いてある石の標柱があります。 奥にベンチ、説明板、石垣 (いしがき)があります。



写真AI: 「岡城」の説明板があります。
昭和16年11月13日 文化財保護委員会。



写真AJ: 大分県 竹田市 大字竹田 にある岡城跡です。 大きな石段、石垣 (いしがき)、ベンチ、桜の花が見えます。



写真AK: 岡城の石垣の上と下に桜が満開でした。



写真AL: 「国指定史跡 岡城跡」の地図があります。



写真AM: 岡城の石垣 (いしがき)の上に多くの桜の花が咲いています。



写真AN: 石垣の上に「朱印倉跡」と書いてある石碑 (せきひ)があります。



写真AO: 岡城跡の桜です。



写真AP: 「中休所跡」と書いてあります。



写真AQ: 岡城跡の中の道です。



写真AR: 岡城から見た景色です。 手前は岡城跡です。



写真AS: 岡城跡にテントもあります。 外灯も見えます。 岡城跡は桜の名所です。
「岡城跡」は大分県 竹田市 大字竹田 にあります。
岡城は東西2500 m、南北 360 m、総面積 23万4000平方メートルの山城です。 まわりより約95 m 高いところにあります。 明治時代の廃城令で廃城となりました。 岡城は明治4年 (1871年)から翌年にかけてすべての建物が壊 (こわ)されました。 昭和11年 (1936年)12月16日に岡城址が国の史跡に指定されました。 平成18年 (2006年)4月6日に日本100名城に選定されました。 平成2年 (1990年)に岡城公園が日本さくら名所100選に選定されました。 「荒城の月」の作曲家の滝廉太郎 (たきれんたろう)は幼少のときに竹田で暮らしました。 この岡城で曲想を得たと言われています。 滝廉太郎の銅像が岡城跡にあります。 岡城からは祖母山、傾山、阿蘇山、九重連山が見えます。



写真AT: 桜の奥に石垣 (いしがき)があります。



写真AU: 岡城跡からの眺望 (ちょうぼう)です。 遠くの山並み (やまなみ)が見えます。 右は石垣 (いしがき)です。



写真AV: 岡城のこの石垣は「打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)」の方法で作られた石垣です。
<参考>   「石垣」は
(1)野面積み(のづらづみ): 自然石をそのまま加工せずに積み上げる方法です。
(2)打ち込み接ぎ(うちこみはぎ): 表面に出る石の角や面をたたき、平にし石同士の接合面に隙間(すきま)を減らして積み上げる方法です。 関ヶ原の戦い以後、多く造られました。 野面積みより高く、急な勾配(こうばい)が可能です。
(3)切込み接ぎ(きりこみはぎ): 方形に整形した石を密着させて、積み上げる方法です。 慶長5年(1600年)以後に、隅石(すみいし)の加工から徐々に平石にまで広がりました。 江戸時代初期(元和年間)以後に多く造られました。 石同士が密着しているので排水できないため、排水口が設置されます。

などがあります。



写真AW: 岡城跡の見事な石垣 (いしがき)です。



写真AX: 「太鼓櫓 (たいこやぐら)」と書いてあります。 奥にも石段、石垣 (いしがき)、外灯があります。



写真AY: 桜の花の下に石碑 (せきひ)があります。 遠くの山も見えます。 岡城跡です。



写真AZ: 岡城の桜の花、石碑 (せきひ)、ベンチ、遠くの山並み (やまなみ)です。



写真BA: 石垣 (いしがき)のそばの石段です。 外灯があります。



写真BB: 岡城の空井戸 (からいど)です。



写真BC: 「空井戸 (からいど)」の説明板があります。
井戸の深さ 48尋 (73 m)、穴の直径 (入口) 9尺 (3 m)、下部 6尺 (2 m)、入口より4間半 (8 m)まで石で巻下し、底は水なく平たき石を詰 (つ)めあり、北方の石垣の隙より風が通っている。 底より高さ4尺の処 (ところ)に東向きに穴あり、その深さ手の届く程度の処に観音像らしきものが安置されている。
平成元年11月 竹田市
と書いてあります。



写真BD: 神社などの建物があります。 岡城跡。



写真BE: 「国指定史跡 岡城跡」の説明板があります。



写真BF: 「国指定史跡 岡城跡」の説明板。



写真BG: 石碑 (せきひ)があります。



写真BH: 神社と石碑 (せきひ)があります。



写真BI: 石段があります。



写真BJ: 建物があります。



写真BK: 右は神社です。 石碑 (せきひ)も見えます。



写真BL: 岡城跡にある神社です。



写真BM: 左は神社の拝殿、右は本殿です。



写真BN: 中央に本殿、左に拝殿があります。 岡城跡です。



写真BO: 「この詩碑は、晩翠 (ばんすい)の直筆 (じきひつ)を刻 (きざ)んだもので2節目が晩翠詩集や小学校唱歌 (しょうか)の「霜の色」とは異なり「夜半 (よわ)の霜」となっていますが、時と場所によって発露される詩人の詩情によって書かれたものと思われます。
竹田市
と書いてあります。



写真BP: 土井晩翠 (つちいばんすい)の「荒城の月」の詩碑です。
「この詩碑は、晩翠 (ばんすい)の直筆 (じきひつ)を刻 (きざ)んだもので2節目が晩翠詩集や小学校唱歌 (しょうか)の「霜の色」とは異なり「夜半 (よわ)の霜」となっていますが、時と場所によって発露される詩人の詩情によって書かれたものと思われます。



写真BQ: 外灯と建物があります。



写真BR: これが有名な岡城の滝廉太郎 (たきれんたろう)の像です。 まわりは桜の花です。 遠くに山々が美しく見えます。
滝廉太郎の像の後方の山は九重連山です。 



写真BS: 「二ノ丸跡」と書いてあります。



写真BT: 観光客たちが滝廉太郎 (たきれんたろう)の像のところにいます。 後ろは桜の花です。
「岡城跡」は大分県 竹田市 大字竹田 にあります。
岡城は東西2500 m、南北 360 m、総面積 23万4000平方メートルの山城です。 まわりより約95 m 高いところにあります。 明治時代の廃城令で廃城となりました。 岡城は明治4年 (1871年)から翌年にかけてすべての建物が壊 (こわ)されました。 昭和11年 (1936年)12月16日に岡城址が国の史跡に指定されました。 平成18年 (2006年)4月6日に日本100名城に選定されました。 平成2年 (1990年)に岡城公園が日本さくら名所100選に選定されました。 「荒城の月」の作曲家の滝廉太郎 (たきれんたろう)は幼少のときに竹田で暮らしました。 この岡城で曲想を得たと言われています。 滝廉太郎の銅像が岡城跡にあります。 岡城からは祖母山、傾山、阿蘇山、九重連山が見えます。



写真BU: 岡城跡にある作曲家「滝廉太郎 (たきれんたろう)の像」です。 岡城の見晴 (みは)らしの良い所にあります。



写真BV: 滝廉太郎はメガネをかけています。
「荒城の月」の作曲家の滝廉太郎 (たきれんたろう)は幼少のときに竹田で暮らしました。 この岡城で曲想を得たと言われています。 滝廉太郎の銅像が岡城跡にあります。 岡城からは祖母山、傾山、阿蘇山、九重連山が見えます。



写真BW: 「楽聖 滝廉太郎 像」と台座に書いてあります。



写真BX: 岡城の石垣、桜の花です。



写真BY: 岡城からは展望を楽しめます。



写真BZ: 岡城からの風景です。 右端は滝廉太郎 像です。



写真CA: 滝廉太郎の像と近くの様子 (ようす)です。 外灯もあります。 岡城跡。



写真CB: 岡城の桜の花です。



写真CC: ベンチ、建物があります。



写真CD: 岡城跡には多くの木もあります。



写真CE: 遠くに観光客も見えます。



写真CF: 「石仏会館 お食事・喫茶・おみやげ」と書いてあります。



写真CG: バス停「大分バス 臼杵石仏 (うすきせきぶつ)」があります。 その右に「石仏 入場券発売所→」の看板 (かんばん)もあります。
「臼杵磨崖仏 (うすきまがいぶつ)」は大分県 臼杵市 深田 にあります。



写真CH: 「国宝 臼杵石仏、石仏の里、石仏火まつり」と書いてあります。 石仏の写真も載 (の)っています。



写真CI: 臼杵石仏の写真も載 (の)っています。



写真CJ: 「国宝 臼杵石仏」の説明板。
臼杵石仏は、九州の東海岸、大分県 臼杵市 大字中尾 字深田 に所在しています。 この地には、切り立った丘陵の崖面に彫 (ほ)りだされた磨崖仏 (まがいぶつ)と1つの岩の塊 (かた)まりを削 (けず)って石像とした持ち運び可能な石仏との2種類あります。
 臼杵の石仏は、阿蘇溶結凝灰岩という軟質の石に彫 (ほ)られているため、風化しやすく、永い年月の間に亀裂 (きれつ)を生じたり、剥落 (はくらく)するなど傷 (いた)みがひどくなっていました。 このため1980年から1994年までの14年間、磨崖仏を中心に保存修理工事が行われました。 さらに、保存修理の効果をより高めるために修理の終わった各 磨崖仏群に保存施設としての覆屋も設置されました。
いずれも造顕年代は、はっきりとしていませんが、美術史的見地から平安時代後期~鎌倉時代にかけて彫 (ほ)られたと考えられています。 (保存修理が終わった後に)59体の磨崖仏が1995年6月15日に、石仏としては我が国ではじめて「国宝」の指定を受けました。
と書いてあります。



写真CK: 「国宝 臼杵石仏」の説明板があります。
臼杵石仏は、九州の東海岸、大分県 臼杵市 大字中尾 字深田 に所在しています。 この地には、切り立った丘陵の崖面に彫 (ほ)りだされた磨崖仏 (まがいぶつ)と1つの岩の塊 (かた)まりを削 (けず)って石像とした持ち運び可能な石仏との2種類あります。
 臼杵の石仏は、阿蘇溶結凝灰岩という軟質の石に彫 (ほ)られているため、風化しやすく、永い年月の間に亀裂 (きれつ)を生じたり、剥落 (はくらく)するなど傷 (いた)みがひどくなっていました。 このため1980年から1994年までの14年間、磨崖仏を中心に保存修理工事が行われました。 さらに、保存修理の効果をより高めるために修理の終わった各 磨崖仏群に保存施設としての覆屋も設置されました。
いずれも造顕年代は、はっきりとしていませんが、美術史的見地から平安時代後期~鎌倉時代にかけて彫 (ほ)られたと考えられています。 (保存修理が終わった後に)59体の磨崖仏が1995年6月15日に、石仏としては我が国ではじめて「国宝」の指定を受けました。
と書いてあります。



写真CL: 「国宝 臼杵石仏」の説明板。
臼杵石仏は、九州の東海岸、大分県 臼杵市 大字中尾 字深田 に所在しています。 この地には、切り立った丘陵の崖面に彫 (ほ)りだされた磨崖仏 (まがいぶつ)と1つの岩の塊 (かた)まりを削 (けず)って石像とした持ち運び可能な石仏との2種類あります。
 臼杵の石仏は、阿蘇溶結凝灰岩という軟質の石に彫 (ほ)られているため、風化しやすく、永い年月の間に亀裂 (きれつ)を生じたり、剥落 (はくらく)するなど傷 (いた)みがひどくなっていました。 このため1980年から1994年までの14年間、磨崖仏を中心に保存修理工事が行われました。 さらに、保存修理の効果をより高めるために修理の終わった各 磨崖仏群に保存施設としての覆屋も設置されました。
いずれも造顕年代は、はっきりとしていませんが、美術史的見地から平安時代後期~鎌倉時代にかけて彫 (ほ)られたと考えられています。 (保存修理が終わった後に)59体の磨崖仏が1995年6月15日に、石仏としては我が国ではじめて「国宝」の指定を受けました。
と書いてあります。



写真CM: 「国宝 臼杵石仏」の説明板があります。
臼杵石仏は、九州の東海岸、大分県 臼杵市 大字中尾 字深田 に所在しています。 この地には、切り立った丘陵の崖面に彫 (ほ)りだされた磨崖仏 (まがいぶつ)と1つの岩の塊 (かた)まりを削 (けず)って石像とした持ち運び可能な石仏との2種類あります。
 臼杵の石仏は、阿蘇溶結凝灰岩という軟質の石に彫 (ほ)られているため、風化しやすく、永い年月の間に亀裂 (きれつ)を生じたり、剥落 (はくらく)するなど傷 (いた)みがひどくなっていました。 このため1980年から1994年までの14年間、磨崖仏を中心に保存修理工事が行われました。 さらに、保存修理の効果をより高めるために修理の終わった各 磨崖仏群に保存施設としての覆屋も設置されました。
いずれも造顕年代は、はっきりとしていませんが、美術史的見地から平安時代後期~鎌倉時代にかけて彫 (ほ)られたと考えられています。 (保存修理が終わった後に)59体の磨崖仏が1995年6月15日に、石仏としては我が国ではじめて「国宝」の指定を受けました。
と書いてあります。



写真CN: 「臼杵市の郷土料理 黄飯 (おうはん)」の説明ポスターがあります。
「黄飯」は「かやく」とペアになっています。 「黄飯」とは、くちなしの実を一晩水に浸 (ひた)し、その汁で炊いたご飯です。 「かやく」とは、おかずの事で、魚のダシで大根、人参 (にんじん)、ごぼう、しいたけ、豆腐 (とうふ)その他を煮込 (にこ)んだものです。 この「かやく」を「黄飯」の上にのせ、混ぜて食べるのが伝統的な食べ方で、全 (すべ)て天然の自然食品を使用しているため「薬用膳」ともよばれています。 石仏会館
と書いてあります。



写真CO: 石仏会館の中です。 「臼杵せんべい」と書いてあります。



写真CP: 「大分県銘菓 黒糖 臼杵せんべい」と書いてある幟 (のぼり)があります。



写真CQ: 建物の上部です。



写真CR: 石仏会館の建物です。



写真CS: バス停「大分バス 臼杵石仏 (うすきせきぶつ)」の近くの様子 (ようす)です。 郵便ポスト、ベンチもあります。



写真CT: 車道も見えます。 手前はバスなどの駐車場です。



写真CU: バス停「大分バス 臼杵石仏 (うすきせきぶつ)」もあります。



写真CV: 桜の花が咲いていました。



写真CW: 遠くの山も見えます。



写真CX: バスも駐車しています。



写真CY: 左に石仏会館があります。



写真CZ: 「北あまべ (臼杵・津久見・佐賀関)の観光地」の説明板があります。



写真DA: 「北あまべ (臼杵・津久見・佐賀関)の観光地」の説明板。
地図、写真、説明も載 (の)っています。



写真DB: 「北あまべ (臼杵・津久見・佐賀関)の観光地」の説明板があります。
現在地 国宝臼杵石仏も載 (の)っています。



写真DC: 「関の鯛釣り (たいつり)踊り大会 (佐賀関町 小浜~秋の江 9月上旬)、石仏火まつり (臼杵市 国宝臼杵石仏 8月最終土曜日)なども載 (の)っています。



写真DD: 車も止まっています。



写真DE: 「お食事・お土産・ご休息 国宝臼杵石仏 石仏会館」と箸袋 (はしぶくろ)に書いてあります。



写真DF: 「国宝 特別史跡 臼杵石仏」と彫 (ほ)ってあります。
「臼杵磨崖仏 (うすきまがいぶつ)」は大分県 臼杵市 深田 にあります。



写真DG: これが臼杵の石仏です。 臼杵の磨崖仏 (まがいぶつ)とも呼 (よ)ばれます。 「九品の弥陀」と書いてあります。



写真DH: 「九品の弥陀」と書いてあります。



写真DI: 臼杵石仏です。



写真DJ: 多くの石仏が彫 (ほ)られています。



写真DK: 大きな石仏もあります。



写真DL: 臼杵石仏の説明板があります。



写真DM: 「石仏香」と書いてあります。 小さめのロウソクもいくつか見えます。 奥には石仏が並 (なら)んでいます。



写真DN: 石仏群の前にはこのような屋根付きの建物があります。 観光客も見えます。 右奥に杉林があります。



写真DO: 臼杵 (うすき)の石仏 (磨崖仏 (まがいぶつ))です。



写真DP: 臼杵石仏の上部です。 上に明 (あ)かり窓があります。



写真DQ: 後 (うし)ろの岩には植物も生 (は)えています。



写真DR: 上に照明があります。 石仏群には柵 (さく)があります。



写真DS: 竹筒 (たけづつ)に供え物 (そなえもの)の花、シキミの枝のようなものがさしてあります。



写真DT: 石仏の上部 (頭、顔、肩)です。



写真DU: 奥に芝生 (しばふ)もあります。 石仏は右手にあります。



写真DV: 上部はこのようになっています。 照明、ガラス、カメラもあります。



写真DW: 石仏の後ろの岩の様子 (ようす)がよく分かります。



写真DX: 遠くから見た臼杵石仏とそれを覆 (おお)う建物です。 後方は山になっています。
「臼杵磨崖仏 (うすきまがいぶつ)」は大分県 臼杵市 深田 にあります。
臼杵の磨崖仏には4群60余体の磨崖仏があります。 臼杵の石仏とも呼ばれます。 1952年 (昭和27年)に国の特別史跡になり、1995年 (平成7年)には、磨崖仏として日本で最初で、彫刻としては九州初の国宝になりました。 山岳仏教の衰退とともに忘れられていました。 今とは異なり、昔はV字谷の壁にありました。 現在は整備されてV字谷ではなくなって、見晴らしが良くなっています。



写真DY: 臼杵石仏のそばです。 鳥居 (とりい)、外灯もあります。 左に下方の景色が見えます。



写真DZ: 臼杵の石仏の近くから見た風景です。 赤紫の花は芝桜 (しばざくら)でしょうか。 遠くの山の上に民家も見えます。



写真EA: 「臼杵古園石仏」と書いてある標柱があります。



写真EB: 「臼杵磨崖仏 (古園石仏)保存修理工事の概要」の説明板があります。



写真EC: スピーカーを持った説明の人も見えます。 酒樽 (さかだる)も供 (そな)えてあります。



写真ED: 「古園石仏、大日如来坐像」と書いてあります。



写真EE: 大きな石仏の両側に石仏が並 (なら)んでいます。 花も供 (そな)えてあります。



写真EF: 立派な石仏です。 臼杵の国宝の磨崖仏 (まがいぶつ)。



写真EG: 臼杵石仏です。



写真EH: 臼杵石仏の前です。 このようになっています。 テーブルもあります。



写真EI: 国宝の臼杵石仏。
「臼杵磨崖仏 (うすきまがいぶつ)」は大分県 臼杵市 深田 にあります。
臼杵の磨崖仏には4群60余体の磨崖仏があります。 臼杵の石仏とも呼ばれます。 1952年 (昭和27年)に国の特別史跡になり、1995年 (平成7年)には、磨崖仏として日本で最初で、彫刻としては九州初の国宝になりました。 山岳仏教の衰退とともに忘れられていました。 今とは異なり、昔はV字谷の壁にありました。 現在は整備されてV字谷ではなくなって、見晴らしが良くなっています。



写真EJ: 多くの石仏が彫 (ほ)られています。



写真EK: 臼杵の石仏は、阿蘇溶結凝灰岩という軟質の石に彫 (ほ)られています。



写真EL: この大きな石仏の頭部には赤色が残っています。 臼杵石仏です。



写真EM: この大きな石仏の上部です。 頭部に赤色が残っています。 大分県 臼杵市にある国宝の臼杵石仏です。



写真EN: 臼杵石仏のところから下方の展望を楽しめます。 桜の花がたくさん見えます。 赤紫の花は芝桜 (しばざくら)でしょうか。



写真EO: 美しい田園風景を楽しめます。 手前は石仏の建物の柵 (さく)です。
「臼杵磨崖仏 (うすきまがいぶつ)」は大分県 臼杵市 深田 にあります。
臼杵の磨崖仏には4群60余体の磨崖仏があります。 臼杵の石仏とも呼ばれます。 1952年 (昭和27年)に国の特別史跡になり、1995年 (平成7年)には、磨崖仏として日本で最初で、彫刻としては九州初の国宝になりました。 山岳仏教の衰退とともに忘れられていました。 今とは異なり、昔はV字谷の壁にありました。 現在は整備されてV字谷ではなくなって、見晴らしが良くなっています。



写真EP: 遠くの山並み (やまなみ)も見えます。 桜の花も美しい。 手前は孟宗竹 (もうそうだけ)の竹林です。



写真EQ: 手前は臼杵石仏の建物の手すりです。



写真ER: 多くの観光客が来ていました。



写真ES: 線香 (せんこう)なども供 (そな)えてあります。



写真ET: 鐘 (かね)、マッチもあります。



写真EU: 川と橋があります。 臼杵石仏の近くの鳥居 (とりい)も高い所に見えます。



写真EV: 臼杵石仏の建物が見えます。 臼杵石仏は高い所にあります。



写真EW: 大分県 別府市の鉄輪温泉です。 温泉の湯煙り (ゆけむり)が5箇所 (かしょ)から立ち上 (のぼ)っています。 遠くの山も見えます。 温泉ホテルもあります。
「鉄輪温泉 (かんなわおんせん)」は大分県 別府市 鉄輪 にあります。
伝説では鎌倉時代に一遍が最初に整備したと言われています。 鉄輪温泉は別府の湯けむり・温泉地景観として国の重要文化的景観に選定されています。 泉質は単純泉、食塩泉、炭酸鉄泉などいろいろです。 別府地獄めぐりの中心に位置しています。 近くには海地獄、鬼石坊主地獄、山地獄、かまど地獄、鬼山地獄、白池地獄などがあります。 近くに日本で最初の地熱発電に使われた泉源跡があります。



写真EX: 「鉄輪温泉」は大分県 別府市 鉄輪 にあります。



写真EY: 6箇所 (かしょ)から大きな湯煙りが上 (あ)がっています。 ホテル、民家も見えます。



写真EZ: 源泉から湯煙りが上がっているのだと思われます。



写真FA: 「ホテル風月 HAMMOND」と箸袋 (はしぶくろ)に書いてあります。



写真FB: 温泉ホテルでの夕食です。



写真FC: 夕食です。



写真FD: 「天台宗 富貴寺 (ふきじ)」と書いてあります。 石段、石灯籠 (いしどうろう)、奥に富貴寺の建物があります。 桃の花も見えます。
「富貴寺 (ふきじ)」は大分県 豊後高田市 田染蕗 にあります。



写真FE: 富貴寺はこの石段を登って行きます。



写真FF: 「県指定有形文化財 富貴寺板碑 (いたひ)、所在地 豊後高田市 田染蕗 2395番地」と書いてあります。
右は六地蔵塔です。



写真FG: 石段を登るとこの建物があります。 富貴寺の建物です。 左右に仏像があります。



写真FH: 建物の上部です。 山門と思われます。



写真FI: 鐘 (かね)が2つ見えます。 階段が2つあります。 大分県 豊後高田市にある富貴寺 (ふきじ)です。



写真FJ: 富貴寺です。 左上に大きな木があります。



写真FK: 富貴寺のお堂です。



写真FL: 富貴寺の大堂です。 これは国宝です。
「富貴寺 (ふきじ)」は大分県 豊後高田市 田染蕗 にあります。
 富貴寺の説明板から、
富貴寺: 静かな山の中にどっしりと佇 (たたず)む富貴寺。 現存する九州最古の木造建築物として国宝に指定されています。 春の梅や秋のイチョウ・モミジなど四季の彩 (あや)どりも印象的です。
富貴寺は天台宗の寺です。 本尊は阿弥陀如来で、718年に開いたのは仁聞 (にんもん)です。 国宝の富貴寺大堂 (おおどう)は平安時代の建物です。 天正年間 (1573年~1592年)、キリシタン大名の大友宗麟 (そうりん)の時に、多くの寺が壊 (こわ)されましたが、富貴寺大堂は破壊をまぬがれ、平安時代阿弥陀堂が今に残っています。



写真FM: 「県指定有形文化財 富貴寺笠塔婆(5)」と書いてあります。



写真FN: いろいろな石造物があります。



写真FO: 多くの石造物が富貴寺にあります。



写真FP: 富貴寺の大堂の中です。 いろいろな仏具が見えます。
「富貴寺 (ふきじ)」は大分県 豊後高田市 田染蕗 にあります。
 富貴寺の説明板から、
富貴寺: 静かな山の中にどっしりと佇 (たたず)む富貴寺。 現存する九州最古の木造建築物として国宝に指定されています。 春の梅や秋のイチョウ・モミジなど四季の彩 (あや)どりも印象的です。
富貴寺は天台宗の寺です。 本尊は阿弥陀如来で、718年に開いたのは仁聞 (にんもん)です。 国宝の富貴寺大堂 (おおどう)は平安時代の建物です。 天正年間 (1573年~1592年)、キリシタン大名の大友宗麟 (そうりん)の時に、多くの寺が壊 (こわ)されましたが、富貴寺大堂は破壊をまぬがれ、平安時代阿弥陀堂が今に残っています。



写真FQ: 石碑 (せきひ)があります。



写真FR: 古い石段の上に鳥居 (とりい)、建物があります。



写真FS: 富貴寺の境内 (けいだい)です。



写真FT: ベンチがあります。



写真FU: 高い木があります。 富貴寺です。



写真FV: 「富貴寺周辺 散策路」の絵地図があります。



写真FW: 「富貴寺 境内 (けいだい) 石造物 位置図、豊後高田市」があります。
写真も載 (の)っています。



写真FX: 「昭和の町」です。
「昭和の町」は大分県 豊後高田市 新町 989-1 にあります。



写真FY: 「駄菓子屋の夢博物館、昭和の絵本美術館、旬彩 南蔵、昭和の夢三丁目館」と書いてあります。



写真FZ: 豊後高田商工会議所と書いてあります。 「思いを1つに 早期完成へ 東九州道」の垂れ幕 (たれまく)があります。



写真GA: 「昭和 ロマン蔵」です。 赤い円筒形の郵便ポストがあります。
「昭和の町」は大分県 豊後高田市 新町 989-1 にあります。
昭和の町は昭和30年代の町並み (まちなみ)を再現したものです。 2001年に始められました。 懐 (なつ)かしいボンネット バスも走っています。 展示施設の昭和ロマン蔵が中心になっています。 昭和ロマン蔵は昭和10年頃に米蔵として建設されました。



写真GB: 手前に「昭和の町 商店街」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真GC: 大分県 豊後高田市にある「昭和の町」です。



写真GD: 昭和時代のダイハツのミゼット (オート3輪車)です。 古いクルマ (旧車)です。 「グリコ 牛乳」と書いてあるベンチがあります。



写真GE: 昭和時代の赤いダイヤル式公衆電話機です。 右に昭和時代の各種のタバコを置いてあります。



写真GF: 昭和時代のいろいろな煙草 (たばこ)が並 (なら)んでいます。



写真GG: 「タバコは実際には お売りしておりません。」と書いてあります。



写真GH: 昭和時代の電気洗濯機です。 衣服の脱水は、ゴムの2つのローラーの間に衣服を通して行います。



写真GI: 昭和時代のオート3輪車です。 旧車です。



写真GJ: これもオート3輪車です。 旧車。



写真GK: 「昭和の町のせんたく板、せんたく板 ¥850、せんたく板・石けん・せんたく鋏 (はさみ) ¥1000」と書いてあります。 左にせんたく板を売っています。



写真GL: 「昭和の夢町3丁目」と書いてあります。 「入口」と書いてあります。



写真GM: 昭和時代の自転車です。



写真GN: 昭和時代のカメラ、引き伸ばし機、フィルムなどが展示されています。



写真GO: 昭和時代のカメラ、フィルムです。 2眼レフのカメラもあります。 昭和の町です。



写真GP: 昭和時代の小学校の教室です。 黒板、机、椅子 (いす)、教壇 (きょうだん)などがあります。



写真GQ: 木琴 (もっきん)、鉄琴 (てっきん)、給食の容器、地球儀 (ちきゅうぎ)などがあります。



写真GR: 和文タイプライター (左)、謄写版 (とうしゃばん)があります。



写真GS: 昭和時代の小学校の教壇 (きょうだん)です。



写真GT: 「ハウスカレー」の幟 (のぼり)があります。



写真GU: 「大分県豊後高田 昭和の町 昭和ロマン蔵 駄菓子屋の夢博物館」と書いてあります。



写真GV: 昭和時代の白黒テレビ、オープンリールデッキ (テープレコーダー)、SONY ベータマックス ビデオ、ポータブル テレビ、日本ビクターの犬、カセットテープ レコーダーなどがあります。
「昭和の町」は大分県 豊後高田市 新町 989-1 にあります。
昭和の町は昭和30年代の町並み (まちなみ)を再現したものです。 2001年に始められました。 懐 (なつ)かしいボンネット バスも走っています。 展示施設の昭和ロマン蔵が中心になっています。 昭和ロマン蔵は昭和10年頃に米蔵として建設されました。



写真GW: 昭和時代のラジカセ、ビデオ、テレビなどがあります。



写真GX: 「SONY」と書いてあります。



写真GY: 「福助足袋 (たび)、名実共ニ日本一」と書いてあります。



写真GZ: 昭和時代の旧車が4台並 (なら)んでいます。 昭和の町です。



写真HA: 「Sunny」と書いてあります。 日産のサニーです。



写真HB: 昭和時代の旧車です。



写真HC: 「スバル」のマークがあります。



写真HD: 「MINICA」と書いてあります。 三菱のミニカです。



写真HE: 「めだか池」と書いてあります。



写真HF: 昭和時代のスクーターです。 2輪車です。



写真HG: 「観光案内所」です。



写真HH: 「熊野磨崖仏、国宝 富貴寺、真木大堂」が載 (の)っています。 観光案内所です。



写真HI: 昭和時代の百円札 (さつ)、千円札です。



写真HJ: 「駄菓子屋の夢博物館、昭和の絵本美術館、旬彩 南蔵、昭和の夢三丁目館」と書いてあります。



写真HK: 「昭和の町の周辺観光案内」の説明板があります。



写真KL: 「昭和の町の周辺観光案内」の説明板。



写真KM: 宇佐神宮の説明と写真もあります。 宇佐神宮 全国4万余の八幡社の総本社である宇佐神宮の本殿は、檜 (ひのき)皮葺 (ふき)白壁、朱漆 (うるし)塗柱で華麗。 八幡造という様式の代表建造物で、国宝に指定されています。
と書いてあります。



写真KN: 富貴寺の説明と写真もあります。 富貴寺 静かな山の中にどっしりと佇 (たたず)む富貴寺。 現存する九州最古の木造建築物として国宝に指定されています。 春の梅や秋のイチョウ・モミジなど四季の彩 (あや)どりも印象的です。
と書いてあります。



写真KO: 「宇佐八幡 P有料駐車場」と書いてある看板 (かんばん)があります。 バスも止 (と)まっています。 神社の形をした建物があります。



写真KP: 「神仏習合 (しんぶつしゅうごう) 発祥 (はっしょう)の地 (宇佐神宮・国東半島 (くにさきはんとう))」と書いてあります。



写真KQ: 奥に宇佐神宮 (うさじんぐう)の赤い鳥居 (とりい)があります。 右は土産物店 (みやげものてん)が並 (なら)んでいます。



写真KR: 宇佐神宮の赤い鳥居 (とりい)が見えます。



写真KS: 右に「宇佐神宮」と書いてある石碑 (せきひ)があります。 宇佐神宮の赤い大きな鳥居です。
「宇佐神宮」は大分県 宇佐市 南宇佐 2859 にあります。



写真KT: 宇佐神宮の鳥居 (とりい)の近くです。
「宇佐神宮」は大分県 宇佐市 南宇佐 2859 にあります。
宇佐神宮 (うさじんぐう)は式内社 (名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社、旧社格は官幣大社 (かんぺいたいしゃ)、現在は別表神社です。 全国に約44000ある八幡宮の総本社です。 通称として宇佐八幡、宇佐八幡宮とも呼ばれます。 境内 (けいだい)は国の史跡に指定され、国宝の本殿や重要文化財の工芸品があります。 参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝を作法としています。 平安時代には宇佐神宮は神宮寺の弥勒寺 (みろくじ)とともに九州最大の荘園領主でした。 他の社寺と同じように神人 (じにん)による武装もしていました。 このために豊後国などの有力武士と敵対しました。 大友宗麟 (おおともそうりん)によって焼かれました。 そのときに大宮司は北九州市の到津八幡まで逃亡しました。 江戸時代には幕府から寄進された宇佐神宮の神領も存続することになりました。



写真KU: 参拝客が来ています。



写真KV: 石垣 (いしがき)もあります。



写真KW: 「宇佐参宮線26号 蒸気機関車 (大分県指定有形文化財)」が展示されています。



写真KX: 「宇佐参宮線26号 蒸気機関車 (大分県指定有形文化財)」の説明板があります。
 この機関車は明治24年 (1891年)にドイツ・ミュンヘン市のクラウス社が製造、明治27年に九州鉄道 (株)(国鉄の前身)が購入し活躍していましたが、昭和23年機関車の大型化に圧され大分交通 (株)に譲渡の後、宇佐参宮線の主役となりました。
 宇佐参宮線は、大正5年 (1916年)3月開業し、昭和40年8月に廃止されました。
 26号機関車は形式10、製造番号 2550号、最大長 7.509 m 、高さ 3.616 m 、幅 2.546 m 、運転装備時重量 23.36 t で、実に71年間にわたり活躍しました。
と書いてあります。



写真KY: 「宇佐神宮」と書いてある大きな看板 (かんばん)があります。 石碑 (せきひ)も2つ見えます。 左は蒸気機関車です。



写真KZ: 「1250年の時空を超えて」の説明板があります。
 天平勝宝4年 (752年)、聖武天皇の進めた東大寺 大仏造立事業が完成しました。 八幡神はこの事業を支援したため輿 (こし)に乗って入京し、完成間近の大仏を拝しました。 これが神輿 (みこし)の起源とされています。 宇佐八幡神輿フェスタは、1250年の時空を超えて八幡神輿の大仏参拝を再現し、「神仏習合と神輿 (みこし)発祥の地・宇佐」を全国にアピールすることを目的に計画されました。 2002年10月5日、児童・生徒を含む宇佐市民など約500人の行列が、宇佐八幡神輿 (みこし)を奉じて東大寺を参拝しました。 [神仏習合 (しんぶつしゅうごう)とは日本固有の神の信仰と仏教信仰とを折衷 (せっちゅう)して融合調和することです。 奈良時代に始まりました。] 多くの人々の協力によって、歴史に残る大事業が見事に達成されたことをここに記 (しる)します。
2003年8月2日 宇佐八幡神輿フェスタ振興協議会
と書かれています。



写真LA: 「宇佐神宮」の大きな看板 (かんばん)と石碑 (せきひ)があります。



写真LB: 桜の花が咲いています。 赤い神橋と石灯籠 (いしどうろう)があります。



写真LC: 宇佐神宮の赤い神橋です。 右に桜の花が満開です。 奥にも橋があります。



写真LD: 宇佐神宮の神橋です。 中央が盛 (も)り上がっています。



写真LE: 桜の花と赤い鳥居 (とりい)が見えます。



写真LF: 宇佐神宮の大きな狛犬 (こまいぬ)です。



写真LG: 正面から見たコマイヌです。



写真LH: 宇佐神宮の鳥居 (とりい)です。 左右に灯明 (とうみょう)があります。 奥に桜の花が見えます。



写真LI: 末社かもしれません。



写真LJ: 「宇佐神宮宝物館」と書いてあります。



写真LK: 宇佐神宮宝物館です。



写真LL: 左に池もあります。



写真LM: 宇佐神宮の参道です。 赤い灯明 (とうみょう)があります。



写真LN: 来た参道を振り返ったものです。 左は宇佐神宮宝物館です。 奥に赤い鳥居 (とりい)が見えます。



写真LO: 宇佐神宮の建物があります。



写真LP: 宇佐神宮の建物です。



写真LQ: 宇佐神宮の境内 (けいだい)です。



写真LR: こちらにも建物があります。



写真LS: 桜の花の奥に池があります。



写真LT: 宇佐神宮の赤い手水舎 (ちょうずや)です。



写真LU: 宇佐神宮の大きな御手洗 (みたらい)です。



写真LV: 孟宗竹 (もうそうだけ)の青竹で枠 (わく)を作ってあります。 御手洗 (みたらい)です。



写真LW: 「参拝順路のご案内」があります。
手水舎 (現在地)、表参道 約8分、上宮 国宝本殿 国家守護の神、参道 約2分、若宮神社、下宮参道 約5分、下宮 民衆守護の神、参道 約5分、手水舎 (現在地)
と書いてあります。



写真LX: 石段の上に赤い鳥居 (とりい)があります。



写真LY: 灯明 (とうみょう)、石灯籠 (いしどうろう)、鳥居 (とりい)、石段があります。



写真LZ: 宇佐神宮の境内 (けいだい)です。



写真MA: 末社も見えます。



写真MB: 酒樽 (さかだる)を奉納してあります。



写真MC: 宇佐神宮の若宮神社です。 「←帰路 (下宮)」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真MD: 鳥居 (とりい)の奥に神門が見えます。



写真ME: 鳥居と神門、石段があります。



写真MF: 絵馬 (えま)を多く掛 (か)けてあります。 宇佐神宮。



写真MG: 宇佐神宮の神門です。



写真MH: 階段の上に神門があります。



写真MI: 「重要文化財 国宝 宇佐神宮本殿」と書いてあります。



写真MJ: 御神籤 (おみくじ)を大変多く縛 (しば)り付けてあります。 これほど多くのオミクジがある神社はなかなかありません。



写真MK: 宇佐神宮の建物があります。 右はオミクジが縛り付けられている所です。



写真ML: 庭に松の木もあります。



写真MM: 多くの建物があります。



写真MN: 宇佐神宮の建物は朱色 (しゅいろ、赤色)のものが多い。



写真MO: 「神井 (神の井戸のことです。)」と書いてあります。



写真MP: これが宇佐神宮の「神井 (神の井戸のことです。)」です。



写真MQ: 「宇佐神宮」の説明板があります。
御祭神
一の御殿 八幡大神 (応神天皇)、二の御殿 比売大神 (ひめのおおかみ)、三の御殿 神功皇后
 宇佐神宮は全国八幡宮の総本宮 勅祭の大社であり 歴代天皇は伊勢の神宮につぐ宗廟 (そうびょう) 我朝の太祖 として御崇敬になられています また私たちの祖先は各地に宇佐の八幡宮をお迎えして 氏神や鎮守のお社としました
 神代に三神の比売大神 (ひめのおおかみ)がご降臨になったこの宇佐の地に 約1400年前の欽明天皇32年 応神天皇のご神霊がはじめて八幡大神としてあらわれになり 各地をご巡幸後この亀山にお鎮 (しず)まりになりました のち弘仁14年 応神天皇の御母君であられる神功皇后 (こうごう)をお祀 (まつ)りし三殿のご鎮座となりました
と書かれています。



写真MR: 「宇佐神宮」の説明板。
御祭神
一の御殿 八幡大神 (応神天皇)、二の御殿 比売大神 (ひめのおおかみ)、三の御殿 神功皇后
 宇佐神宮は全国八幡宮の総本宮 勅祭の大社であり 歴代天皇は伊勢の神宮につぐ宗廟 (そうびょう) 我朝の太祖 として御崇敬になられています また私たちの祖先は各地に宇佐の八幡宮をお迎えして 氏神や鎮守のお社としました
 神代に三神の比売大神 (ひめのおおかみ)がご降臨になったこの宇佐の地に 約1400年前の欽明天皇32年 応神天皇のご神霊がはじめて八幡大神としてあらわれになり 各地をご巡幸後この亀山にお鎮 (しず)まりになりました のち弘仁14年 応神天皇の御母君であられる神功皇后 (こうごう)をお祀 (まつ)りし三殿のご鎮座となりました
と書かれています。



写真MS: 「宇佐神宮」の説明板があります。
御祭神
一の御殿 八幡大神 (応神天皇)、二の御殿 比売大神 (ひめのおおかみ)、三の御殿 神功皇后
 宇佐神宮は全国八幡宮の総本宮 勅祭の大社であり 歴代天皇は伊勢の神宮につぐ宗廟 (そうびょう) 我朝の太祖 として御崇敬になられています また私たちの祖先は各地に宇佐の八幡宮をお迎えして 氏神や鎮守のお社としました
 神代に三神の比売大神 (ひめのおおかみ)がご降臨になったこの宇佐の地に 約1400年前の欽明天皇32年 応神天皇のご神霊がはじめて八幡大神としてあらわれになり 各地をご巡幸後この亀山にお鎮 (しず)まりになりました のち弘仁14年 応神天皇の御母君であられる神功皇后 (こうごう)をお祀 (まつ)りし三殿のご鎮座となりました
と書かれています。



写真MT: お札 (ふだ)、お守りなどを販売している所です。 宇佐神宮。



写真MU: 右はお札 (ふだ)、お守りなどを販売している所です。



写真MV: 立派な朱塗 (ぬ)りの建物があります。 宇佐神宮。
「宇佐神宮」は大分県 宇佐市 南宇佐 2859 にあります。
宇佐神宮 (うさじんぐう)は式内社 (名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社、旧社格は官幣大社 (かんぺいたいしゃ)、現在は別表神社です。 全国に約44000ある八幡宮の総本社です。 通称として宇佐八幡、宇佐八幡宮とも呼ばれます。 境内 (けいだい)は国の史跡に指定され、国宝の本殿や重要文化財の工芸品があります。 参拝は一般と異なり、二拝四拍手一拝を作法としています。 平安時代には宇佐神宮は神宮寺の弥勒寺 (みろくじ)とともに九州最大の荘園領主でした。 他の社寺と同じように神人 (じにん)による武装もしていました。 このために豊後国などの有力武士と敵対しました。 大友宗麟 (おおともそうりん)によって焼かれました。 そのときに大宮司は北九州市の到津八幡まで逃亡しました。 江戸時代には幕府から寄進された宇佐神宮の神領も存続することになりました。



写真MW: しめ縄 (なわ)をしてある木があります。 ご神木でしょう。



写真MX: 宇佐神宮のすばらしい神社建造物です。



写真MY: このあたりは敷石 (しきいし)があります。



写真MZ: 左は御札 (おふだ)、お守りを売っているところです。



写真NA: 中央はお札、お守りを販売している建物です。



写真NB: こちらにもしめ縄のある大きな木があります。



写真NC: 左に朱色に塗 (ぬ)られてない建物 (祈祷殿 (きとうでん))があります。



写真ND: 宇佐神宮の美しい建物です。



写真NE: 華 (はな)やかな感じがします。



写真NF: 建物の中です。 宇佐神宮。



写真NG: すばらしい宇佐神宮の建物です。



写真NH: 屋根の様子 (ようす)が分かります。



写真NI: 宇佐神宮の祈祷殿 (きとうでん)です。 しめ縄が見えます。 右に「→宇佐神宮絵画館」と書いてあります。



写真NJ: 宇佐神宮の神木です。 しめ縄をしてあります。



写真NK: 神木の中部です。



写真NL: 神木の上部です。



写真NM: 神木の上の枝です。



写真NN: 見上げた神木です。



写真NO: 宇佐神宮から見下 (お)ろした風景です。 田畑、民家、山も見えます。



写真NP: 宇佐神宮の人達が参拝客と接しています。



写真NQ: 「→宇佐神宮絵画館」と書いてあります。



写真NR: 石段の下に建物があります。



写真NS: 参拝客が手を合 (あ)わせています。



写真NT: 「一之御殿」と書いてあります。



写真NU: 石段もあります。



写真NV: 社殿の近くです。



写真NW: 神門が見えます。



写真NX: 宇佐神宮の中心付近です。



写真NY: 「←帰路 (下宮)」と書いてあります。 左の建物は若宮神社です。



写真NZ: 下 (くだ)りの石段があります。



写真OA: ここを下 (くだ)ります。



写真OB: 両側は木が茂 (しげ)っています。



写真OC: 石灯籠 (いしどうろう)もあります。



写真OD: 通路には敷石 (しきいし)があります。



写真OE: 屋根はこのようになっています。



写真OF: 宇佐神宮の境内 (けいだい)です。



写真OG: 門があります。



写真OH: 石灯籠 (いしどうろう)が2つ見えます。



写真OI: 赤色の鳥居 (とりい)があります。



写真OJ: 大きな石造物があります。



写真OK: 奥に国旗、赤い鳥居 (とりい)が見えます。



写真OL: 池、石灯籠 (いしどうろう)が見えます。



写真OM: 「呉橋」と書いてあります。 赤い灯明 (とうみょう)も見えます。



写真ON: 宇佐神宮の境内 (けいだい)。



写真OO: 池があります。 宇佐神宮宝物館です。



写真OP: 大きな狛犬 (コマイヌ)のところに戻 (もど)って来ました。



写真OQ: 「全国八幡宮総本社・国宝宇佐神宮 かくまさ 大分県 宇佐市 宇佐神宮 表参道」と箸袋 (はしぶくろ)に書いてあります。



写真OR: 食事をしました。



写真OS: 「ふく福餅 (もち)」と書いてあります。



写真OT: 「宇佐神宮境内案内図」があります。 地図も載 (の)っています。



写真OU: 「宇佐神宮境内案内図」です。



写真OV: 「宇佐神宮境内案内図」。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)