外所大地震追悼供養碑 (梅の花) (とんところ地震供養碑、江戸時代初期の日向灘を震源とする地震 、震災から50年ごとの供養碑)  (宮崎県 宮崎市 大字熊野 字島山)







<標高、位置>  外所 (とんところ)地震供養碑 (くようひ)は
標高 数 m
 北緯31度49分31秒  東経131度26分34秒

<標高、位置>  宮崎県総合運動公園は
標高 数 m
 北緯31度49分38秒  東経131度26分46秒


 「外所 (とんところ)地震供養碑」は宮崎県 宮崎市 大字熊野 字島山 にあります。
 外所地震 (とんところじしん、とんどころじしん)は1662年10月31日 (寛文2年9月20日)未明に発生しました。 震源地は日向灘沖でマグニチュードは7.6、最大震度は推定6でした。 有史以来最大の日向灘地震でした。 1662年日向灘地震とも呼 (よ)ばれます。 津波の高さは最大4~5 m でした。 死者は約200人、約3800世帯の家が壊 (こわ)れました。 宮崎市 木花地区を中心にして宮崎県沿岸のほぼ全部に被害がありました。 7つの村が水没しました。 外所地震供養碑は右から1基目と2基目は壊 (こわ)されていて文字が読めません。 3基目は1805年、4基目は1862年、5基目は1925年、6基目は1957年、7基目は2007年に建立 (こんりゅう)されました。
「外所 (とんところ)大地震追悼供養碑 (ついとうくようひ)」の説明板から、
 寛文2年 (1662年、江戸時代の初期です。)9月19日夜半、日向灘沖を震源とした地震が津波を伴 (ともな)い日向灘一帯を襲った。 当時の外所地区は、青島と並 (なら)んで東に突き出した所に存在したが、寺と共に1夜のうちに海に没した (津波のことと思われます。 外所村などは地震による地盤沈下で入江 (いりえ)になりました。 その後、川の堆積物や干拓 (かんたく)で陸になっています。)。
 ここに自然のいとなみに対する畏敬 (いけい)の念を持つと共に、この地震で犠牲 (ぎせい)となったもろもろを供養するため、その日から(約)50年ごとに碑 (ひ)を建て法要 (ほうよう)が営 (いとな)まれてきた。
尚 (なお) 西教寺開基住職 (初代住職) 道源法師の墓もここに存する。
浄土真宗本願寺派 西教寺


写真A: 奥のワシントン椰子 (やし)のところは左右に国道220号 (宮崎南バイパス)が通っています。 右手前の1角が外所(とんところ)地震供養碑のあるところです。 南西を見たものです。



写真B: 「外所大地震追悼供養碑」の説明板があります。



写真C: 左の敷地 (しきち)に外所地震供養碑があります。



写真D: 北を見たものです。 「県道367 宮崎」、「中村木崎線」、「宮崎市熊野」、「道路標高 3.4 m 」と書いてある道路標識があります。 この県道367号は旧国道220号です。 この少し先を右 (東)に進むと宮崎県総合運動公園があります。 先に進むと清武川の木崎橋、県消防学校などがあります。



写真E: 「外所 (とんところ)大地震追悼供養碑 (ついとうくようひ)」の説明板です。
 寛文2年 (1662年、江戸時代の初期です。)9月19日夜半、日向灘沖を震源とした地震が津波を伴 (ともな)い日向灘一帯を襲った。 当時の外所地区は、青島と並 (なら)んで東に突き出した所に存在したが、寺と共に1夜のうちに海に没した (津波のことと思われます。 外所村などは地震による地盤沈下で入江 (いりえ)になりました。 その後、川の堆積物や干拓 (かんたく)で陸になっています。)。
 ここに自然のいとなみに対する畏敬 (いけい)の念を持つと共に、この地震で犠牲 (ぎせい)となったもろもろを供養するため、その日から(約)50年ごとに碑 (ひ)を建て法要 (ほうよう)が営 (いとな)まれてきた。
尚 (なお) 西教寺開基住職 (初代住職) 道源法師の墓もここに存する。
浄土真宗本願寺派 西教寺
と書かれています。



写真F: この角地 (かどち)に外所地震供養碑があります。 右は県道367号です。 北を見たものです。



写真G: 県道367号と国道220号 (宮崎南バイパス)を結ぶ道があります。 右が外所地震供養碑のあるところです。 北西を見たもの。



写真H: 国道220号 (宮崎南バイパス)の高いワシントン椰子 (やし)と自動車が見えます。



写真I: 南を見たものです。 県道367号と国道220号の合流点が見えます。 先に進むと加江田川の鵜来橋、青島バイパスなどがあります。



写真J: 右にいくつかの石碑が見えます。 ここに約50年ごとの外所地震供養碑、西教寺開基住職 (初代住職) 道源法師の墓があります。
外所地震 (とんところじしん、とんどころじしん)は1662年10月31日 (寛文2年9月20日)未明に発生しました。 震源地は日向灘沖でマグニチュードは7.6、最大震度は推定6でした。 有史以来最大の日向灘地震でした。 1662年日向灘地震とも呼 (よ)ばれます。 津波の高さは最大4~5 m でした。 死者は約200人、約3800世帯の家が壊 (こわ)れました。 宮崎市 木花地区を中心にして宮崎県沿岸のほぼ全部に被害がありました。 7つの村が水没しました。 外所地震供養碑は右から1基目と2基目は壊 (こわ)されていて文字が読めません。 3基目は1805年、4基目は1862年、5基目は1925年、6基目は1957年、7基目は2007年に建立 (こんりゅう)されました。



写真K: 外所大地震追悼供養碑がある敷地 (しきち)です。 右は県道367号です。



写真L: 敷地の角 (かど)です。



写真M: 奥は県道367号です。



写真N: 外所地震供養碑などが見えます。 北を見たものです。
「外所 (とんところ)地震供養碑」は宮崎県 宮崎市 大字熊野 字島山 にあります。



写真O: 外所 (とんところ)地震供養碑のそばに大きな木があります。
外所地震 (とんところじしん、とんどころじしん)は1662年10月31日 (寛文2年9月20日)未明に発生しました。 震源地は日向灘沖でマグニチュードは7.6、最大震度は推定6でした。 有史以来最大の日向灘地震でした。 1662年日向灘地震とも呼 (よ)ばれます。 津波の高さは最大4~5 m でした。 死者は約200人、約3800世帯の家が壊 (こわ)れました。 宮崎市 木花地区を中心にして宮崎県沿岸のほぼ全部に被害がありました。 7つの村が水没しました。 外所地震供養碑は右から1基目と2基目は壊 (こわ)されていて文字が読めません。 3基目は1805年、4基目は1862年、5基目は1925年、6基目は1957年、7基目は2007年に建立 (こんりゅう)されました。



写真P: 前部に石碑 (せきひ)があります。 花や松の枝を供 (そな)えてあります。
西教寺開基住職 (初代住職) 道源法師の墓です。



写真Q: 左には「三百五十回忌 (き) 外所地震供養碑」、右のものには「三百年忌 (き) 外所地震供養碑」と彫 (ほ)ってあります。



写真R: 三百五十回忌 (き) 外所地震供養碑です。



写真S: 三百年忌 (き) 外所地震供養碑です。



写真T: さらに古い時代の約50年ごとの外所地震供養碑です。



写真U: 右の方のものは壊 (こわ)れているようです。 約50年ごとの外所地震供養碑です。
外所地震 (とんところじしん、とんどころじしん)は1662年10月31日 (寛文2年9月20日)未明に発生しました。 震源地は日向灘沖でマグニチュードは7.6、最大震度は推定6でした。 有史以来最大の日向灘地震でした。 1662年日向灘地震とも呼 (よ)ばれます。 津波の高さは最大4~5 m でした。 死者は約200人、約3800世帯の家が壊 (こわ)れました。 宮崎市 木花地区を中心にして宮崎県沿岸のほぼ全部に被害がありました。 7つの村が水没しました。 外所地震供養碑は右から1基目と2基目は壊 (こわ)されていて文字が読めません。 3基目は1805年、4基目は1862年、5基目は1925年、6基目は1957年、7基目は2007年に建立 (こんりゅう)されました。



写真V: 壊 (こわ)れた石碑 (せきひ)です。
右から1基目、2基目の供養碑は壊 (こわ)れていて文字が読めません。 その左 (3基目)は1805年の外所地震供養碑です。



写真W: 前部にある石碑 (せきひ)の裏です。 西教寺開基住職 (初代住職) 道源法師の墓です。



写真X: ミカンの実が敷地内に見えます。 左は梅の木です。



写真Y: 敷地内に梅の木があります。



写真Z: 奥に国道220号が見えます。 高いワシントン椰子が国道220号に植えてあります。



写真AA: 外所地震供養碑の敷地への入り口が見えます。



写真AB: 東を見たものです。 石碑 (せきひ)も見えます。



写真AC: 外所地震供養碑が多く並 (なら)んでいます。 
外所地震 (とんところじしん、とんどころじしん)は1662年10月31日 (寛文2年9月20日)未明に発生しました。 震源地は日向灘沖でマグニチュードは7.6、最大震度は推定6でした。 有史以来最大の日向灘地震でした。 1662年日向灘地震とも呼 (よ)ばれます。 津波の高さは最大4~5 m でした。 死者は約200人、約3800世帯の家が壊 (こわ)れました。 宮崎市 木花地区を中心にして宮崎県沿岸のほぼ全部に被害がありました。 7つの村が水没しました。 外所地震供養碑は右から1基目と2基目は壊 (こわ)されていて文字が読めません。 3基目は1805年、4基目は1862年、5基目は1925年、6基目は1957年、7基目は2007年に建立 (こんりゅう)されました。



写真AD: 350回忌 外所地震供養碑のそばです。



写真AE: 梅の花が咲いていました。



写真AF: 「梅の花」です。



写真AG: 「白梅」です。



写真AH: 入り口の近くです。



写真AI: そばの道です。 左は外所 (とんところ)地震供養碑がある所です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)