高城跡 (桜祭り、城山公園) (城山花まつり、水分神社、永山古墳、木城温泉、新納観音 (にいろかんのん)、木城温泉 (湯らら)、菜っ葉屋 (農産物の直販店))  (宮崎県 児湯郡 木城町 大字高城)







<標高、位置>  高城跡 (城山公園)は
標高 約60 m
 北緯32度10分04秒  東経131度28分29秒

<標高、位置>  水分神社は
標高 約50 m
 北緯32度10分04秒  東経131度28分19秒

<標高、位置>  永山古墳は
標高 約60 m
 北緯32度10分04秒  東経131度28分09秒

<標高、位置>  木城温泉は
標高 約10 m
 北緯32度10分05秒  東経131度28分42秒


 高城跡(高城址、城山公園)は宮崎県 児湯郡 木城町 大字高城 3760-1にあります。
木城町の高城跡 (城山公園)では春に約100本の桜が咲き誇 (ほこ)ります。
 「高城城跡 (町指定文化財)」の説明板から、
 高城城跡は、小丸川とその支流である切原川に挟(はさ)まれ、標高60 mを数えます。 地形は、舌状に細長く伸びる台地であり、見晴らしには大変優れたところに営まれた山城であります。
 この城では、天正6年(1578年)、天正15年(1587年)の二度にわたり大合戦がありました。 その当時、日向で勢力を誇っていた伊東 氏が島津 氏に負けて大分に逃げ、親類の大友 氏を頼ります。 大友 氏はこの際、新興勢力の島津 氏をつぶそうと、約5万の大軍でこの城を攻撃しました。 しかし高城城主 山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)はわずかな兵力でよく防ぎ、とうとう大友 軍は大敗しました。 これを高城川合戦と呼んでいます。 この合戦が原因で、今度は豊臣秀吉の弟 秀長 率(ひき)いる15万の大軍と合戦することになりますが、この時も山田新介はよく防ぎ、この城は落城しませんでした。
 これらの戦いは、戦国時代の九州において最大規模の合戦であります。 またこの高城は、その2度の戦いとも落城しなかった難攻不落の名城として、名将、山田新介有信の名と共に語り継がれています。
 城としての特徴は、現在、城山公園として利用されている箇所が、東側の主郭(しゅかく)と考えられる曲輪(くるわ、平らなところ)と考えられています。 ここでは島津 氏の家臣であった城主、山田新介有信らが、戦いに備えるための本部として利用していたと考えられます。 またこの城に敵が侵入することを防ぐために、7箇所の竪堀(たてぼり)がみられるのが特徴です。 当時の山城ではこういった自然地形を利用して、幾多の戦いを繰(く)り広げております。
 平成4年度には、木城町の城山公園整備事業によるメロディ時計台建設に伴い発掘調査が実施されました。 その結果、竪穴状遺構、柱穴、石列、などの遺構、土師器(はじき)、と言われる杯、皿、小皿、青磁器、白磁器、陶器などの遺物が確認されました。 これらの遺物の時期は、戦いが繰り広げられた時期に該当(がいとう)し、当時の戦いの状況をよく理解することができます。

 この高城は、南北朝時代初期 1335年 (建武2年)に島津時久が足利尊氏から新納院を与えられて、城を築き、姓を新納と改めました。 しかし、時久が京都に行っている時に富山国長に城を奪 (うば)われました。 その後、高城は新納土持氏の城となりましたが、長禄元年に土持景綱が都於郡城主 伊東祐堯に敗れて、高城は伊東氏の城となりました。 この高城(木城町高城)は、宮崎市(宮崎市 高岡町 穆佐(むかさ)、高木兼寛誕生地のところ)にある穆佐城(むかさじょう)、月山日和城(都城市高城町大井手字横馬場)とならんで日向三高城の一つです。

 「高城跡」にある新納観音(にいろかんのん)説明石碑から、
 天正6年(1578年)、先に島津義久に破れ、大友宗麟(そうりん)を頼った伊東義祐(よしすけ)を助け、さらに九州を征せんと、大友宗麟の5万の大軍が山田新介有信 守るこの高城を包囲した。 堅く守り落城せず、大友軍は川南台地(北距離約700 mの台地)に5つの陣を、島津軍は茶臼原台地(南距離約3 kmの台地)に3つの陣を構え対峙(たいじ)していた。
 11月12日黎明(れいめい)、大友の先鋒 田北鎮周、佐伯宗天、吉弘鑑理、斉藤鎮実、角隅石宗、佐伯惟定など谷瀬戸川(切原川)を渡り偲月の備えで島津軍を襲う。 魚鱗の備えの島津軍は本田親治、北郷蔵人を前軍とし高城川(小丸川)を背に高城河原に構え撃つ。 両軍の先鋒激突、打ちつ討たれつ鐘(かね)、太鼓(たいこ)天に震い、鬨(とき)の声地を動かす。 島津 先鋒崩(くず)れ本田親治 戦死、続いて北郷蔵人 討死す。 緒戦 大友軍は大利を得て島津軍を追い込む、川しも柳の瀬の兵庫頭義弘、上流 右馬頭征久の伏兵一斉に立ち大友軍を挟撃し混乱の極に陥(おとしい)れ、さらに山田新介 城門(高城の)を開き追撃す。 義久、忠棟も馳(は)せ参じ、島津軍は地の利を用い大友軍をだけくが淵(ふち、小丸川の深いところ)に追い詰める。 大友軍は淵に脚を取られ溺(おぼ)れる者多数、佐伯宗天 父子、田北鎮周、角隅石宗など討死す。 大友軍破れ北に走る。 島津軍の追撃きびしく、名貫原、百町原から耳川(美々津川)にいたる7里の間大友軍の倒れるもの1000数余りという。 また耳川の淵(ふち)に溺れしもの数多く夕闇(やみ)せまり島津軍の追撃も止まった。 始め島津軍 高城にひくときこの耳川にて一戦があり、これらを含み耳川合戦ともいう。 
 天正15年(1587年)、先の戦いで大友軍を破った島津軍は北上し豊後(大分)にせまり九州の大半を征する勢いとなる。 大友宗麟 豊臣秀吉に援を求む。 秀吉は島津義久に使者を送り領地の返還をもとむ。 義久聞き入れず、秀吉軍を起こし九州を征せんと自ら肥後口に、豊臣秀長(秀吉の弟) 日向口より島津を攻める。 島津義久は豊後(大分)より都於郡城(とのこうりじょう、西都市)にひき、山田新介 高城に籠(こも)る。 秀長は先の合戦の大友の本陣 松山を本陣とし、51ヶ所に陣地をつくり高城を包囲す。 山田新介しきりに援軍を求む。 豊臣秀長は根白坂(茶臼原台地の椎木坂)に宮部継潤、蜂須賀家政を配し、堀を構築し防御させる。 西台地に尾藤知定、東台地に黒田孝高を配し、島津の援軍に備(そな)える。 旧4月17日(5月24日)義久は根白坂を一気に征し、秀長の本陣を突かんと左翼 北郷一雲、右翼 伊集院忠棟を先鋒とし、宮部軍に夜襲をかける。 宮部軍すでに夜襲を察知し堀を深くし、柵(さく)を堅くし待つ。 島津軍死傷を顧(かえり)みず肉薄す多くの数100余の将卒を失う。 島津軍左翼を一部突破するも連携なく、藤堂高虎、黒田、小早川の軍も来て助け、島津軍破れ夜明けとともに民家に火を放ち都於郡(とのこおり、西都市)にひく。 山田新介の高城は落ちず、義久は秀吉と和して、ようやく山田新介 高城を開き降りる。 ここに九州は秀吉によって平定された。 この高城の城は天正6年、15年の天下を分ける2大激戦にも死守され落城しなかった堅固な記念すべき城である。

 「町指定文化財 永山古墳(こふん)」の説明板から、
 この永山古墳は、6世紀後半に造られた円墳であります。 この城山公園駐車場整備工事の際、塚状の高まりが確認されたので、木城町教育委員会が主体となり、昭和56年に宮崎県教育委員会により試掘調査が実施されました。 調査の結果、内部が横穴式石室の古墳であることが分かりました。
 横穴式石室とは、朝鮮半島より伝わってきた埋葬施設であり、追葬、合葬が可能な入口部を持ち、石を丁寧(ていねい)に積み上げて造られた墓室であります。 県内では西都原古墳群にある鬼の窟古墳(西都市)、狐塚古墳(日南市)、野首第一遺跡(高鍋町)で確認された円墳などでこの石室が使われています。 また全国的に規模が大きいと考えられるのは、蘇我馬子の墓とよばれ石舞台古墳(奈良県明日香村)が有名です。 これらの石室から当時の我が国と朝鮮半島との技術の交流が理解できます。
 さて、この永山古墳の発掘調査から見つかったものは、朝鮮半島から製造方法が伝わったと言われる、須恵器(すえき)と呼ばれるものが主で、薄手で焼かれた土師器(はじき)と呼ばれるものもあります。 他には玉類や鉄器など見られています。 これらの鉄器については、馬に乗る道具である馬具や軍事的要素をもつ鉄鏃(てつぞく)、直刀などがあります。 これらの副葬品から被葬者は軍事的な力を持つ豪族の可能性が考えられます。
 また、これらの古墳は規模や形状によっては、その埋葬されている被葬者の地位、実力が分かることがあります。 当時の政治の中心であった天皇や豪族の古墳は大規模な前方後円墳が主であります。 永山古墳の被葬者も当時の木城町周辺に影響を与える何らかの実力者であった可能性が考えられます。

 「木城温泉」は宮崎県 児湯郡 木城町 大字高城 1403-1 にあります。
泉質は単純温泉、低張性弱アルカリ性泉です。 内風呂、露天風呂、打たせ湯、スチームサウナ、洞窟風呂(どうくつふろ)、寝湯、冷水浴、流水滑り台などがあります。


写真A: 木城温泉「湯らら」です。
「木城温泉」は宮崎県 児湯郡 木城町 大字高城 1403-1 にあります。
泉質は単純温泉、低張性弱アルカリ性泉です。 内風呂、露天風呂、打たせ湯、スチームサウナ、洞窟風呂(どうくつふろ)、寝湯、冷水浴、流水滑り台などがあります。



写真B: 木城温泉の駐車場から見た「高城跡 (城山公園)」のある山です。 そこで桜祭りが開かれています。 手前の橋は切原川にかかっている県道40号の谷瀬戸橋です。 切原川は小丸川の支流です。 南西を見たものです。
この高城は、南北朝時代初期 1335年 (建武2年)に島津時久が足利尊氏から新納院を与えられて、城を築き、姓を新納と改めました。 しかし、時久が京都に行っている時に富山国長に城を奪 (うば)われました。 その後、高城は新納土持氏の城となりましたが、長禄元年に土持景綱が都於郡城主 伊東祐堯に敗れて、高城は伊東氏の城となりました。 この高城(木城町高城)は、宮崎市(宮崎市 高岡町 穆佐(むかさ)、高木兼寛誕生地のところ)にある穆佐城(むかさじょう)、月山日和城(都城市高城町大井手字横馬場)とならんで日向三高城の一つです。



写真C: 「城山公園 花まつり」のポスターがあります。 おたのしみ抽選会、もちまき、ぜんざいふるまい、ストラックアウト、牛肉3種食べくらべ、紙ひこうき滞空大会、ステージ演芸、ステージ演芸は開会式、もちまき、木城っ子ダンスクラブ、琴伝流 花水木会、ひとつぎ会、にこにこヘルスアップ教室、木城魂龍太鼓 (たいこ)、抽選券配布、ローズフラサークル、ルービンレディ、紙ひこうき滞空大会、福智王四十八隊、おたのしみ抽選会、もちまき。 お問合せは木城町商工会
と書いてあります。



写真D: 「菜っ葉屋 (木城温泉の敷地内にある農産物直販店です。)」のツバメのポスターです。
お願い トイレを利用される場合は、ツバメが迷い込んで出られなくなる場合もありますので、扉 (とびら)を開けたままにしないで下さい。
と書いてあります。



写真E: ツバメ除 (よ)けの模型などが上から吊 (つ)ってあります。 菜っ葉屋のトイレです。



写真F: ツバメ除 (よ)けの模型、カラスの絵、上からCDの光る円盤 (えんばん)があります。



写真G: 高城跡の東にある県道40号です。 南を見たものです。 右は高城跡 (城山公園)の山です。 左に「うどん」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真H: 美しい苔 (こけ)がありました。



写真I: 「お食事処 雷亭」です。 高城跡のそばにあります。 奥の山は高城跡 (城山公園)です。



写真J: 「お食事処 雷亭 P」、「メニュー 高城合戦定食、チキン南蛮 (なんばん)定食、寿司定食、天婦羅 (てんぷら)定食、海鮮丼 (かいせんどん)、黒バッテラ、鍋焼きうどん 雷亭」と書いてあります。



写真K: 右に高城跡 (城山公園)に登る道の入り口にある門が見えます。 西を見たものです。



写真L: 「城山公園 案内板」があります。
ゲート、登り口、メロディ時計台、忠魂碑、新納観音、芝生公園、水飲み、トイレ、遊歩道、休憩所、駐車場、第一空堀跡、第二空堀跡、第三空堀跡、第四空堀跡、第五空堀跡、第六空堀跡、第七空堀跡、水分神社、観音堂、永山古墳、城山公園入り口、川南へ、田神へ、高鍋へ、西都へ、川原へ、石河内へ、などが載っています。



写真M: 登城路の入り口の門に「城山公園入口」、「城山花まつり」と書いてあります。



写真N: 城山公園 (高城跡)に登る道です。 歯科があります。 桜の花も見えます。 北を見たものです。



写真O: 桜の花が咲いています。



写真P: 「菜の花」が咲いていました。



写真Q: 高城跡 (城山公園)に登る石段があります。 右の手すりに桜の花の造花を飾 (かざ)ってあります。 手前に車止めが見えます。



写真R: 城山公園に上 (あ)がる階段です。



写真S: 狛犬 (こまいぬ)、御手洗 (みたらい)、石像、石灯籠 (いしどうろう)があります。 狛犬 (こまいぬ)に「奉献」と書いてあります。 高城跡に登る道です。



写真T: 登城路に多くの石像が並 (なら)んでいます。



写真U: 階段、柵 (さく)があります。 柵 (さく)に桜の花の造花を飾ってあります。



写真V: 高城跡に登る道です。



写真W: 高城跡 (城山公園)の建物などが見えて来ました。



写真X: 城山公園 (高城跡)です。 奥に新納観音(にいろかんのん)の像が見えます。 提灯 (ちょうちん)がいくつか見えます。 北を見たものです。



写真Y: 桜の花が咲いています。 奥に滑り台 (すべりだい)などの遊具、芝生 (しばふ)、藤棚 (ふじだな)、手前に提灯 (ちょうちん)が見えます。
木城町の高城跡 (城山公園)では春に約100本の桜が咲き誇 (ほこ)ります。



写真Z: 高城跡 (城山公園)にあるメロディ時計台が見えます。 提灯 (ちょうちん)もあります。 桜の花も咲いています。 西を見たものです。
この高城は、南北朝時代初期 1335年 (建武2年)に島津時久が足利尊氏から新納院を与えられて、城を築き、姓を新納と改めました。 しかし、時久が京都に行っている時に富山国長に城を奪 (うば)われました。 その後、高城は新納土持氏の城となりましたが、長禄元年に土持景綱が都於郡城主 伊東祐堯に敗れて、高城は伊東氏の城となりました。 この高城(木城町高城)は、宮崎市(宮崎市 高岡町 穆佐(むかさ)、高木兼寛誕生地のところ)にある穆佐城(むかさじょう)、月山日和城(都城市高城町大井手字横馬場)とならんで日向三高城の一つです。



写真AA: 桜の花が見えます。 南西を見たものです。 木城町の体育館が見えています。



写真AB: 一段と高い所があります。



写真AC: 桜の花 (ソメイヨシノ)です。



写真AD: 高城跡の「忠魂之碑」があります。 西を見たものです。



写真AE: メロディー時計台のそばの桜の花です。 左は高城跡のメロディー時計台です。
木城町の高城跡 (城山公園)には約100本の桜があります。



写真AF: 高城跡の「忠魂之碑」です。 石灯籠 (いしどうろう)、石碑 (せきひ)、桜の花、大きな木、国旗などのポール、石段、提灯 (ちょうちん)もあります。



写真AG: 左にも石碑 (せきひ)があります。 ベンチ、柵 (さく)、桜の花、国旗などのポール、提灯 (ちょうちん)、石灯籠 (いしどうろう)、忠魂之碑、石段、大きな木などが見えます。



写真AH: 木城町の景色を見下 (お)ろすことが出来ます。 南を見たものです。
この高城は、南北朝時代初期 1335年 (建武2年)に島津時久が足利尊氏から新納院を与えられて、城を築き、姓を新納と改めました。 しかし、時久が京都に行っている時に富山国長に城を奪 (うば)われました。 その後、高城は新納土持氏の城となりましたが、長禄元年に土持景綱が都於郡城主 伊東祐堯に敗れて、高城は伊東氏の城となりました。 この高城(木城町高城)は、宮崎市(宮崎市 高岡町 穆佐(むかさ)、高木兼寛誕生地のところ)にある穆佐城(むかさじょう)、月山日和城(都城市高城町大井手字横馬場)とならんで日向三高城の一つです。



写真AI: 高城跡 (城山公園)の桜の花と遊具などが見えます。 北西を見たものです。



写真AJ: 忠魂之碑の近くの桜の花です。



写真AK: 奥は駐車場です。 自動車は西の尾根 (おね)沿 (ぞ)いの道を通ってこの駐車場に来ます。 駐車場にも桜の花が咲いています。 北西を見たものです。



写真AL: 北を見たものです。 左に説明板、トイレ、外灯、駐車場などが見えます。



写真AM: 北東を見たものです。 シーソーなどの遊具、外灯、芝生 (しばふ)、桜の花などがあります。



写真AN: 象の形をした滑り台 (すべりだい)、桜の花などがあります。 東を見たものです。



写真AO: 南東を見たものです。 メロディ時計台、石灯籠 (いしどうろう)があります。



写真AP: 石灯籠 (いしどうろう)のそばに木のカナメモチの赤い葉があります。



写真AQ: カナメモチの赤い葉と白い桜の花です。 右は駐車場です。



写真AR: 桜の花と駐車場です。 車止めもあります。



写真AS: 城山公園の駐車場です。



写真AT: 桜の花びらが散っています。



写真AU: 「桜の花びら」です。



写真AV: 「第一空堀跡 (からぼりあと) 木城町」と書いてある標識があります。 高城跡です。



写真AW: 左が第一空堀跡です。 階段、手すりも見えます。



写真AX: 見上 (あ)げた桜の花です。



写真AY: 駐車場の桜の花です。



写真AZ: 満開の桜の花です。
木城町の高城跡 (城山公園)には約100本の桜があります。



写真BA: 「第ニ空堀跡 木城町」と書いてある標識があります。 西に伸びる尾根 (おね)の道にあります。



写真BB: 第ニ空堀跡の上に橋があります。



写真BC: 橋の上から第ニ空堀跡を見たものです。



写真BD: 反対側の第ニ空堀跡です。 手前は橋です。



写真BE: 「第三空堀跡 木城町」と書いてある標識があります。 空堀跡の上に橋があります。



写真BF: 橋の上から見た第三空堀跡です。



写真BG: 反対側の第三空堀跡です。 手前は橋です。



写真BH: 「第四空堀跡 木城町」と書いてある標識があります。



写真BI: 橋から見た第四空堀跡です。



写真BJ: 「カエデの新緑」です。



写真BK: 「ヤブツバキの花」が地面に落ちていました。



写真BL: 「第五空堀跡 木城町」と書いてある標識があります。 空堀跡は西に伸びる尾根 (おね)の道にあります。



写真BM: 第五空堀跡を橋から見たものです。



写真BN: 高城跡の尾根 (おね)にある水分神社の鳥居 (とりい)と祠 (ほこら)です。 西を見たものです。



写真BO: 鳥居 (とりい)に「水分神社」と書いてあります。 しめ縄もしてあります。 高城跡にあります。



写真BP: 水分神社です。 石段、石碑 (せきひ)もあります。 西を見たものです。



写真BQ: 水分神社の右に小さめの鳥居 (とりい)と祠 (ほこら)もあります。 桜の花が満開でした。



写真BR: 桜の花と左の水分神社です。



写真BS: 西の駐車場と左に説明板の屋根が見えます。 桜の花も咲いています。 西を見たものです。



写真BT: 西の駐車場に「城山公園 案内板」があります。
ゲート、登り口、メロディ時計台、忠魂碑、新納観音、芝生公園、水飲み、トイレ、遊歩道、休憩所、駐車場、第一空堀跡、第二空堀跡、第三空堀跡、第四空堀跡、第五空堀跡、第六空堀跡、第七空堀跡、水分神社、観音堂、永山古墳、城山公園入り口、川南へ、田神へ、高鍋へ、西都へ、川原へ、石河内へ、などが載っています。



写真BU: 駐車場の桜です。 西を見たものです。



写真BV: 西の駐車場の満開の桜です。 西を見たものです。 奥に携帯電話の基地局アンテナが見えます。
木城町の高城跡 (城山公園)には約100本の桜があります。



写真BW: 高城跡の西に伸びる尾根 (おね)道にある桜です。



写真BX: 「桜の花の萼 (がく)」が地面に落ちていました。



写真BY: 高城跡の永山古墳(こふん)近くの桜の花です。 西を見たものです。



写真BZ: 西の駐車場と永山古墳(こふん)付近の桜の花です。



写真CA: 高城跡の尾根 (おね)にある永山古墳(こふん)とその説明板です。



写真CB: 「町指定文化財 永山古墳(こふん)」の説明板があります。、
 この永山古墳は、6世紀後半に造られた円墳であります。 この城山公園駐車場整備工事の際、塚状の高まりが確認されたので、木城町教育委員会が主体となり、昭和56年に宮崎県教育委員会により試掘調査が実施されました。 調査の結果、内部が横穴式石室の古墳であることが分かりました。
 横穴式石室とは、朝鮮半島より伝わってきた埋葬施設であり、追葬、合葬が可能な入口部を持ち、石を丁寧(ていねい)に積み上げて造られた墓室であります。 県内では西都原古墳群にある鬼の窟古墳(西都市)、狐塚古墳(日南市)、野首第一遺跡(高鍋町)で確認された円墳などでこの石室が使われています。 また全国的に規模が大きいと考えられるのは、蘇我馬子の墓とよばれ石舞台古墳(奈良県明日香村)が有名です。 これらの石室から当時の我が国と朝鮮半島との技術の交流が理解できます。
 さて、この永山古墳の発掘調査から見つかったものは、朝鮮半島から製造方法が伝わったと言われる、須恵器(すえき)と呼ばれるものが主で、薄手で焼かれた土師器(はじき)と呼ばれるものもあります。 他には玉類や鉄器など見られています。 これらの鉄器については、馬に乗る道具である馬具や軍事的要素をもつ鉄鏃(てつぞく)、直刀などがあります。 これらの副葬品から被葬者は軍事的な力を持つ豪族の可能性が考えられます。
 また、これらの古墳は規模や形状によっては、その埋葬されている被葬者の地位、実力が分かることがあります。 当時の政治の中心であった天皇や豪族の古墳は大規模な前方後円墳が主であります。 永山古墳の被葬者も当時の木城町周辺に影響を与える何らかの実力者であった可能性が考えられます。
平成18年 木城町教育委員会
と書かれています。



写真CC: 西の駐車場のそばに門があります。 城山公園。 西を見たものです。



写真CD: 門の近くの桜の花です。



写真CE: 桜の花 (ソメイヨシノ)が満開でした。



写真CF: 「第六空堀跡 木城町」と書いてある標識があります。



写真CG: 西の門です。 「城山公園入口」と書いてあります。



写真CH: 「ノイバラの花」が咲いていました。



写真CI: 桜の奥に携帯電話の基地局アンテナが見えます。 西を見たものです。 高城跡です。



写真CJ: 西に伸びる尾根 (おね)に咲いている桜の花です。 高城跡です。



写真CK: 携帯電話の基地局アンテナが2つ見えます。 そこにも桜の花が咲いています。 西を見たものです。



写真CL: 桜の花と携帯電話の基地局アンテナ (2本)です。 高城跡の西に伸びる尾根 (おね)道です。
木城町の高城跡 (城山公園)には約100本の桜があります。



写真CM: この道を通って手前にある2つの駐車場に行くことが出来ます。



写真CN: 山桜の花と葉です。 高城跡。



写真CO: 高城跡にある「山桜の花」です。



写真CP: 尾根道にある桜の花 (ソメイヨシノ)です。



写真CQ: 奥にも桜の花が咲いています。 西を見たものです。



写真CR: 2つ目の携帯電話の基地局アンテナが見えます。 桜の花も見えます。 西を見たものです。



写真CS: 右に桜の花が咲いています。



写真CT: 「城山公園→」と書いてある標識があります。 ここは三叉路 (さんさろ)になっています。 ミラーもあります。 北西を見たものです。



写真CU: 西を見たものです。 尾根沿いの道はここまで東から続いています。 こちらにもミラーがあります。



写真CV: 南西を見たものです。 2つ目の携帯電話の基地局アンテナがあります。 この先は下り坂になっていて、平地に降りることができます。



写真CW: 三叉路 (さんさろ)のそばの様子 (ようす)です。



写真CX: 2つ目の携帯電話の基地局アンテナです。



写真CY: 携帯電話の基地局アンテナの下部です。 南を見たものです。



写真CZ: 三叉路 (さんさろ)から北を見たものです。



写真DA: 野草の「キランソウの花」が咲いていました。



写真DB: 地面に「散った桜の花」です。 花びらがばらばらにならずに落ちているので、これはおそらく野鳥のヒヨドリがくちばしで切ったものと思われます。



写真DC: 1つ目の方の携帯電話の基地局アンテナです。



写真DD: 携帯電話の基地局アンテナの下部です。



写真DE: 「KDDI 木城永山 無線基地局、当無線基地局に関する問い合わせは下記へご連絡お願いします。 記 KDDI株式会社 福岡テクニカルセンター」と書いてあります。



写真DF: はじめのトイレがある駐車場に戻 (もど)って来ました。



写真DG: 城山公園のメロディ時計台の近くに来ました。



写真DH: 桜の花と象の滑り台 (すべりだい)などがあります。 木城町にある城山公園です。



写真DI: シーソー、水飲み場、桜の花が見えます。 北を見たものです。



写真DJ: 左は駐車場にあるトイレです。 北を見たものです。



写真DK: 「天使の風鈴」のような花が咲いていました。



写真DL: 野草の「ムラサキカタバミの花」です。



写真DM: 平地に降りてきました。 城山公園の東側の水路のそばです。



写真DN: 野草の「オドリコソウの花」が咲いていました。



写真DO: 「どんぐりの実」が落ちていました。



写真DP: 城山公園の東側から木城温泉 (湯らら)が見えます。 右寄りの建物です。



写真DQ: ここは三叉路 (さんさろ)になっています。



写真DR: 北を見たものです。 右に木城温泉 (湯らら)が見えます。



写真DS: 木城温泉 (湯らら)です。



写真DT: 中央に木城温泉の入り口があります。 北を見たものです。



写真DU: 水田があります。



写真DV: 西を見たものです。 田神地区の集落が遠くに見えます。



写真DW: 左は高城跡 (城山公園)です。



写真DX: 南を見たものです。 城山公園 (高城跡)の山が見えます。



写真DY: 右の橋は切原川にかかっている県道40号の谷瀬戸橋です。 切原川は小丸川の支流です。



写真DZ: 木城温泉 (湯らら)の建物が見えます。 東を見たものです。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)