西城公園 (桜祭り)、西城跡、百姓一揆の石碑 (山陰坪屋 逃散300年記念碑)、冠岳の山桜群 (山桜の花) (日向市指定文化財の冠岳の山桜群、冠岳 (標高 438 m)、耳川、道の駅とうごう、国道327号、東郷小学校、東郷中学校、老人ホーム 鈴峰園、成願寺)  (宮崎県 日向市 東郷町 鶴野内)







<標高、位置>  「西城公園 (西城跡)」は
標高 約70 m
 北緯32度23分24秒  東経131度31分23秒

<標高、位置>  「道の駅 とうごう」は
標高 約30 m
 北緯32度23分31秒  東経131度30分47秒


 「西城公園 (さいじょうこうえん)」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。
「西城跡」が西城公園として整備されています。 西城公園は成願寺という寺の東にある山の上 (標高 約70 m)にあります。 春は約200本の桜や約2000本のツツジが咲きます。 元禄3年 (1690年)に起きた山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の300周年記念碑である「逃散300年記念碑」があります。 毎年霊前供養が行われています。 天正・天文年間に伊東や島津の支城であった西城 (にしのしろ)が西城公園となっています。 施設として東屋 (あずまや)、太鼓橋 (たいこばし)、駐車場などがあります。 冠岳 (かんむりだけ)の山桜群や眼下に耳川を展望できます。

 「西城跡」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。
西城 (にしのしろ)は天文年間 (1532年~1555年)に米良によって築城されたと言われています。 米良は近くの山陰城の城主でしたが、支城として西城を造り、天文年間は米良宮内正が城主でした。 天正・天文年間に伊東や島津の支城でした。 西城跡は坪谷川と耳川が合流する所の北岸の山の上にあります (標高 約70 m )。 南の耳川に近い一番高い曲輪 (くるわ、平らな所。)が主郭 (しゅかく)と思われます。 城の北部と南部の間に堀切 (ほりきり)があります。 現在はそれに太鼓橋 (たいこばし)がかかっています。 主郭から東への尾根 (おね)にも曲輪 (くるわ、平らな所。)があります。 西城は耳川の船の交通を司 (つかさど)る要所でありました。 西城は伊東48城には入っていません。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km~10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。

 「山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の記念碑」である「山陰坪屋 逃散300年記念碑」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。 「坪屋」は坪谷のことです。 西城跡である西城公園にあります。
「逃散300年記念碑」の裏 (うら)にある碑文 (ひぶん)から、
元禄3年 (1690年)9月19日 藩主 有馬清純の郡代代官の悪政に抗して山陰坪屋300軒 (男864人 女558人 総勢1422人)の私達の祖先は大挙して領外に逃散した。 元禄泰平の夢を驚かせた1大事件は江戸幕府に解決を煩 (わず)わらせて争うこと10ヶ月、要求貫徹に成功したが、磔獄門 (はりつけごくもん)、打首、死罪、遠島等21名の尊い犠牲者を出し、領主もまた悪政の罪に問われて無城の地、越後 (新潟県)の糸魚川に移されるなど、我が国農民史上特筆さるべき百姓一揆 (ひゃくしょういっき)であった。 その後、村人達は朝参供養と称して犠牲者の霊を慰める法会を営 (いとな)んで今日に及 (およ)んでいる。 ここに逃散300年の歳 (とし)を迎え祖先の苦難を偲 (しの)んでこの碑を建て謹 (つつし)んでご冥福を祈 (いの)る。
 「山陰・坪谷の農民一揆 (やまげ・つぼやののうみんいっき)」は1690年 (元禄3年)に現在の宮崎県 日向市 東郷町で起きた農民の逃散による一揆です。 当時は延岡藩の領地でした。 山陰一揆、山陰騒動とも呼ばれます。 この地では数年間大雨・洪水がありました。 農作物があまりとれないのに年貢 (ねんぐ、米などを納 (おさ)めること。)を厳しく取り立てられました。 「山の木の実や茅 (かや)の根まで採り尽くして食う。」ほど農民たちは困窮しました。 西城公園の下にある成願寺には百姓一揆の犠牲者の慰霊碑があり、今でも慰霊祭が行われています。 百姓一揆の首謀者たちはこの成願寺で謀議をしました。 それで300戸 1422人の農民たちが1690年9月19日に牛や馬、家財と少しの弓矢や鉄砲を持って隣 (とな)りの高鍋藩内へと逃散しました。 山陰→美々津→都農町の又猪野と進みました。 農民たちは薩摩藩 (さつまはん)まで行こうとしましたが、途中の都農町又猪野で高鍋藩に止められ、高鍋藩内に留まることになりました。 宮崎県 児湯郡 都農町 又猪野に「山陰百姓一揆 留置の地」があります。 小高い所 (標高約60 m )にある又猪野地区集会所に「山陰百姓逃散一揆留置地之碑 (ひ)」が建っています。 拘束された不自由な生活のため、短い期間に79人 (老人や子供など。)がここで死亡しました。 1691年1月にも高鍋藩の立ち会(あ)いで、延岡藩の使者と農民たちは交渉しましたがうまくいきませんでした。 それで江戸幕府の裁定を仰 (あお)ぐ事になりました。 高鍋藩は農民たちに食糧、小屋を与えたり、医師を派遣しました。 1691年6月23日に江戸幕府は農民側に非があり、延岡藩内に戻るように指示しました。 延岡藩郡代 (梶田十郎左衛門)と代官 (大崎)は追放されました。 農民側の首謀者2人は磔 (はりつけ)、5人は斬首、7人は八丈島へ流罪 (るざい)となり、首謀者の家族も罰せられました。 延岡藩と高鍋藩が農民を説得し、1691年7月14日に農民たちは延岡藩内に戻 (もど)りました。 1691年11月8日に江戸幕府は騒動の責任をとらせて延岡藩藩主 有馬清純に糸魚川藩 (新潟県)への移動を命じました。 山陰村と坪谷村は天領 (幕府領)となりました。

 「道の駅 とうごう」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 辛 244-1 にあります。
道の駅 とうごう は国道327号線と国道446号線に接(せっ)しています。 そこは国道327号線と国道446号線の分岐点(ぶんきてん)です。 道の駅 とうごう は1999年8月に登録され、2000年4月にオープンしました。 近くを耳川が流れています。 東郷町は歌人 若山牧水の誕生地です。 物産センターでは、地元(入郷地区など。)の物産品や椎茸(しいたけ)めし、椎茸しゅうまい、東郷町でとれた100%そば粉だけで作った「牧水そば」も販売しています。 「入郷」とは美郷町、日向市 東郷町 (時には椎葉村、諸塚村も含む。)の総称です。 味工房では、とうふ、コンニャク作り、そば打ちなどが体験出来ます。


写真A: 「道の駅 とうごう」の文字、若山牧水の和歌が書いてあります。
日向の国むた立つ山のひと山に 住む母恋し秋晴れの日や
「道の駅 とうごう」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 辛 244-1 にあります。
道の駅 とうごう は国道327号と国道446号に接(せっ)しています。 そこは国道327号と国道446号の分岐点(ぶんきてん)です。 道の駅 とうごう は1999年8月に登録され、2000年4月にオープンしました。 近くを耳川が流れています。 東郷町は歌人 若山牧水の誕生地です。 物産センターでは、地元(入郷地区など。)の物産品や椎茸(しいたけ)めし、椎茸しゅうまい、東郷町でとれた100%そば粉だけで作った「牧水そば」も販売しています。 「入郷」とは美郷町、日向市 東郷町 (時には椎葉村、諸塚村も含む。)の総称です。 味工房では、とうふ、コンニャク作り、そば打ちなどが体験出来ます。



写真B: 左に「道の駅 とうごう」の大きな先の尖(とが)った看板(かんばん)があります。 この十字路を左(南西)に曲がると、若山牧水の生家、美郷町 南郷区、椎葉村に行きます。 この十字路を奥(北西)に進むと美郷町 西郷区、北郷区、諸塚村に行きます。 手前に行くと塩見大橋に行きます。 北西を見たものです。
手前と奥は国道327号、左は国道446号です。



写真C: 「道の駅 とうごう」です。 奥に屋根の尖 (とが)った建物が見えます。 駐車場、外灯も手前にあります。 奥に薄く見えているのは尾鈴連山です。



写真D: 「道の駅 とうごう」です。 建物が多くあります。 車も多く止 (と)まっています。



写真E: 冠岳 (かんむりだけ、標高 438 m)が見えます。 手前は「道の駅 とうごう」です。 左は国道327号です。



写真F: 左は国道327号です。 幟 (のぼり)もあります。



写真G: 「道の駅 とうごう」の休憩所 (きゅうけいしょ)があります。 冠岳 (標高 438 m)が見えます。



写真H: 「道の駅 とうごう」の看板 (かんばん)、外灯、休憩所 (きゅうけいしょ)の屋根などがあります。 西城公園 (さいじょうこうえん)は右の家の奥の山にあります。



写真I: 「道の駅 とうごう」です。 中央の低い山に「西城公園 (さいじょうこうえん)と農民一揆の石碑 (のうみんいっきのせきひ)」があります。



写真J: 日向市 東郷町にある「道の駅 とうごう」です。



写真K: 冠岳 (標高 438 m)が見えます。



写真L: 国道327号です。 東を見たものです。 冠岳 (標高 438 m)が見えます。



写真M: 緑色の交通信号機の上に白く「西城公園の桜の花」が見えます。 昔の西城跡が西城公園になっています。 国道327号です。 東を見たものです。
上方は冠岳 (標高 438 m)です。



写真N: 三叉路 (さんさろ)に「西城公園、百姓一揆の碑 ←200 m 」と書いてある標識があります。 国道327号を奥 (東)に進むと日向市の中心部、手前に進むと「道の駅 とうごう」に行きます。



写真O: 三叉路 (さんさろ)に「西城公園、百姓一揆の碑 ←200 m 」と書いてある標識があります。 奥に冠岳の山桜の花が白く点々と見えています。



写真P: 右の道は国道327号です。 この三叉路 (さんさろ)を左 (北)に曲がって、西城公園 (さいじょうこうえん)、百姓一揆 (ひゃくしょういっき)の碑 (ひ)に行きます。



写真Q: この坂道を登って行きます。 右端に白く桜の花が見えます。



写真R: 西城公園は昔に西城 (さいじょう)という城がありました。
「西城公園 (さいじょうこうえん)」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。
「西城跡」が西城公園として整備されています。 西城公園は成願寺という寺の東にある山の上 (標高 約70 m)にあります。 春は約200本の桜や約2000本のツツジが咲きます。 元禄3年 (1690年)に起きた山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の300周年記念碑である「逃散300年記念碑」があります。 毎年霊前供養が行われています。 天正・天文年間に伊東や島津の支城であった西城 (にしのしろ)が西城公園となっています。 施設として東屋 (あずまや)、太鼓橋 (たいこばし)、駐車場などがあります。 冠岳 (かんむりだけ)の山桜群や眼下に耳川を展望できます。



写真S: 道にあるマンホールに「とうごう・東郷町」と書いてあります。 野鳥のキジや桜の花の絵なども描 (えが)いてあります。



写真T: 奥で三叉路 (さんさろ)になっています。 西城公園に進むには右に行きます。



写真U: 三叉路 (さんさろ)に「西城公園、百姓一揆の碑 →」と書いてある標識があります。



写真V: 「西城公園 (さいじょうこうえん)、百姓一揆の碑 (ひゃくしょういっきのひ) →」と書いてある標識。



写真W: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 遠くの山も見えます。



写真X: 日向市 東郷町にある「西城公園の桜の花」です。



写真Y: 下は芝生 (しばふ)になっています。 ソメイヨシノの花が咲いています。 左の道は西城公園に上がる車道です。



写真Z: 左から右へ登って西城公園に行きます。



写真AA: 駐車場に着 (つ)きました。 桜の花が満開です。 手前は芝生 (しばふ)になっています。 西城公園です。



写真AB: 日向市 東郷町の西城公園 (さいじょうこうえん)には多くの桜の木があります。 西城公園は標高 約70 m の山です。 昔あった西城は山城でした。



写真AC: ここは西城跡の曲輪 (くるわ、平らな所。)と思われます。



写真AD: 西城跡の曲輪 (くるわ、平らな所。)です。 芝生 (しばふ)と桜の花が咲いています。



写真AE: 西城跡から山が美しく見えます。



写真AF: 西城公園の桜です。
「西城公園 (さいじょうこうえん)」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。
「西城跡」が西城公園として整備されています。 西城公園は成願寺という寺の東にある山の上 (標高 約70 m)にあります。 春は約200本の桜や約2000本のツツジが咲きます。 元禄3年 (1690年)に起きた山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の300周年記念碑である「逃散300年記念碑」があります。 毎年霊前供養が行われています。 天正・天文年間に伊東や島津の支城であった西城 (にしのしろ)が西城公園となっています。 施設として東屋 (あずまや)、太鼓橋 (たいこばし)、駐車場などがあります。 冠岳 (かんむりだけ)の山桜群や眼下に耳川を展望できます。



写真AG: トイレが見えます。 手前は駐車場です。



写真AH: 水飲み場が西城公園にあります。



写真AI: 左は崖 (がけ)になっています。 奥に登ってきた車道があります。



写真AJ: 東郷町にある西城公園のソメイヨシノ (桜)の花です。



写真AK: 崖 (がけ)の斜面に桜が多くあります。 満開です。
東郷町にある西城跡が西城公園になっています。



写真AL: 崖 (がけ)の桜の花を見下 (お)ろしたものです。 東郷町にある西城公園です。



写真AM: 左奥に赤紫の花が見えます。 イワツツジの花と思われます。
約200本の桜や約2000本のツツジが西城公園にあります。



写真AN: 桜の花とイワツツジの花が見えます。



写真AO: 左は駐車場です。



写真AP: 駐車場の奥にも桜の花があります。 遠くの山も美しく見えています。
「西城跡」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。
西城 (にしのしろ)は天文年間 (1532年~1555年)に米良によって築城されたと言われています。 米良は近くの山陰城の城主でしたが、支城として西城を造り、天文年間は米良宮内正が城主でした。 天正・天文年間に伊東や島津の支城でした。 西城跡は坪谷川と耳川が合流する所の北岸の山の上にあります (標高 約70 m )。 南の耳川に近い一番高い曲輪 (くるわ、平らな所。)が主郭 (しゅかく)と思われます。 城の北部と南部の間に堀切 (ほりきり)があります。 現在はそれに太鼓橋 (たいこばし)がかかっています。 主郭から東への尾根 (おね)にも曲輪 (くるわ、平らな所。)があります。 西城は耳川の船の交通を司 (つかさど)る要所でありました。 西城は伊東48城には入っていません。



写真AQ: 西城公園の標高は約70 m です。



写真AR: 左奥に進むと西城公園の中央部に行きます。



写真AS: 駐車場のそばのトイレです。



写真AT: イワツツジの赤紫の花が見えます。



写真AU: 崖 (がけ)の斜面の桜も満開です。



写真AV: 赤紫の花と桜の花です。



写真AW: 西城公園にある赤紫のイワツツジの花とソメイヨシノ (桜)の花です。 奥に山も見えます。



写真AX: 柵 (さく)の奥は崖下 (がけした)です。



写真AY: 手前に、下る遊歩道の階段が見えます。 遠くの車道は登ってきたものです。



写真AZ: 西城公園から遠くの山が見えます。



写真BA: 近くの山は西城跡の山の続きです。



写真BB: 西城公園の桜です。



写真BC: 青空を背景にした桜の花です。



写真BD: 手前は下 (くだ)る遊歩道です。



写真BE: 谷の桜の花が見えます。



写真BF: 西城公園です。



写真BG: 柵 (さく)のそばにも桜があります。



写真BH: 振り返ったものです。 奥は駐車場。



写真BI: 芝生 (しばふ)と桜の花です。 中央左寄りに赤い鳥居 (とりい)が見えます。



写真BJ: 桜の木の奥に赤い鳥居 (とりい)があります。 西城公園です。
約200本の桜や約2000本のツツジが西城公園にあります。



写真BK: 下方に耳川の水面が見えています。 西城公園から見たものです。



写真BL: 左の桜の花も西城公園のものです。 そこに東屋 (あずまや)が見えます。



写真BM: 西城公園の桜の花の上に冠岳 (かんむりだけ、標高 438 m)が見えます。 冠岳の山桜の花も白く点々と見えています。



写真BN: 西城跡の曲輪 (くるわ、平らな所。)の端 (はし)です。



写真BO: 西城跡の曲輪 (くるわ)です。 奥に駐車場が見えます。



写真BP: 遠くの山も見えます。



写真BQ: 西城跡の曲輪 (くるわ)の桜です。 まだ若い木です。



写真BR: 赤い鳥居 (とりい)も見えます。



写真BS: 西城跡にある赤い鳥居 (とりい)の奥に下 (くだ)る歩道があります。 遠くに耳川の水面が見えます。



写真BT: 「野草のキランソウの花」が咲いていました。 西城跡です。



写真BU: 西城公園のソメイヨシノ (桜)の花です。 蕾 (つぼみ)も見えます。



写真BV: 「野草のスミレの花」が咲いていました。 西城公園。



写真BW: 「桜の花」です。



写真BX: 別の駐車場が見えます。



写真BY: 駐車場と桜の花です。 西城公園です。



写真BZ: 桜の花です。



写真CA: 日向市 東郷町にある西城公園の桜です。



写真CB: 駐車場の奥に建物があります。



写真CC: 奥に東屋 (あずまや)が見えます。



写真CD: ここも西城跡の曲輪 (くるわ、平らな所。)と思われます。 多くの桜が咲いています。
東郷町にある西城跡が西城公園になっています。 約200本の桜や約2000本のツツジが西城公園にあります。



写真CE: 駐車場のそばにも桜が咲いています。



写真CF: 桜の下は芝生 (しばふ)になっています。



写真CG: 西城跡の曲輪 (くるわ、平らな所。)の端 (はし)です。 端にはこのような植木があります。



写真CH: 西城公園から見た景色です。 左に奥から東郷小学校、東郷中学校、老人ホーム 鈴峰園、成願寺の屋根も見えます。 西城公園の下にある成願寺には百姓一揆の犠牲者の慰霊碑があり、今でも慰霊祭が行われています。 百姓一揆の首謀者たちはこの成願寺で謀議をしました。 右の桜の花は先程 (さきほど)の曲輪 (くるわ、平らな所。)のものです。 西城跡は山城であることがよく分かります。



写真CI: 日向市 東郷町にある「西城跡」から耳川がよく見えます。 右に奥から東郷小学校、東郷中学校、老人ホーム 鈴峰園、成願寺の屋根も見えます。 美しい眺望 (ちょうぼう)です。
西城公園の下にある成願寺には百姓一揆の犠牲者の慰霊碑があり、今でも慰霊祭が行われています。 百姓一揆の首謀者たちはこの成願寺で謀議をしました。
「西城公園 (さいじょうこうえん)」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。
「西城跡」が西城公園として整備されています。 西城公園は成願寺という寺の東にある山の上 (標高 約70 m)にあります。 春は約200本の桜や約2000本のツツジが咲きます。 元禄3年 (1690年)に起きた山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の300周年記念碑である「逃散300年記念碑」があります。 毎年霊前供養が行われています。 天正・天文年間に伊東や島津の支城であった西城 (にしのしろ)が西城公園となっています。 施設として東屋 (あずまや)、太鼓橋 (たいこばし)、駐車場などがあります。 冠岳 (かんむりだけ)の山桜群や眼下に耳川を展望できます。



写真CJ: 奥に花見の宴会 (えんかい)用のブルーシート、東屋 (あずまや)も見えます。 西城公園です。



写真CK: 宮崎県 日向市 東郷町 鶴野内 にある「西城公園の桜」です。



写真CL: 東郷町にある西城跡が西城公園になっています。 約200本の桜や約2000本のツツジが西城公園にあります。



写真CM: 山を背景に桜の花が冴 (さ)えます。



写真CN: 芝生 (しばふ)に桜の木があります。 奥は駐車場です。



写真CO: 西城跡の端 (はし)はこのようになっています。



写真CP: 西城跡が西城公園として整備されています。 曲輪 (くるわ、平らな所。)にある東屋 (あずまや)です。 宴会用 (えんかいよう)のブルーシートが見えます。 東屋の中に多くの人が見えます。 桜の花見の人たちです。



写真CQ: 中央奥に石碑 (せきひ)があります。 これは「農民一揆 (のうみんいっき)の石碑」です。 西城跡の曲輪 (くるわ、平らな所。)にあります。 ここは今は西城公園となっています。
「西城公園 (さいじょうこうえん)」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。
「西城跡」が西城公園として整備されています。 西城公園は成願寺という寺の東にある山の上 (標高 約70 m)にあります。 春は約200本の桜や約2000本のツツジが咲きます。 元禄3年 (1690年)に起きた山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の300周年記念碑である「逃散300年記念碑」があります。 毎年霊前供養が行われています。 天正・天文年間に伊東や島津の支城であった西城 (にしのしろ)が西城公園となっています。 施設として東屋 (あずまや)、太鼓橋 (たいこばし)、駐車場などがあります。 冠岳 (かんむりだけ)の山桜群や眼下に耳川を展望できます。



写真CR: 「山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の記念碑」である「山陰坪屋 逃散300年記念碑」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。 「坪屋」は坪谷のことです。 西城跡である西城公園にあります。



写真CS: 「逃散300年記念碑」と書いてあります。 百姓一揆の碑 (ひ)です。 西城公園にあります。
「山陰・坪谷の農民一揆 (やまげ・つぼやののうみんいっき)」は1690年 (元禄3年)に現在の宮崎県 日向市 東郷町で起きた農民の逃散による一揆です。 当時は延岡藩の領地でした。 山陰一揆、山陰騒動とも呼ばれます。 この地では数年間大雨・洪水がありました。 農作物があまりとれないのに年貢 (ねんぐ、米などを納 (おさ)めること。)を厳しく取り立てられました。 「山の木の実や茅 (かや)の根まで採り尽くして食う。」ほど農民たちは困窮しました。 西城公園の下にある成願寺には百姓一揆の犠牲者の慰霊碑があり、今でも慰霊祭が行われています。 百姓一揆の首謀者たちはこの成願寺で謀議をしました。 それで300戸 1422人の農民たちが1690年9月19日に牛や馬、家財と少しの弓矢や鉄砲を持って隣 (とな)りの高鍋藩内へと逃散しました。 山陰→美々津→都農町の又猪野と進みました。 農民たちは薩摩藩 (さつまはん)まで行こうとしましたが、途中の都農町又猪野で高鍋藩に止められ、高鍋藩内に留まることになりました。 宮崎県 児湯郡 都農町 又猪野に「山陰百姓一揆 留置の地」があります。 小高い所にある又猪野地区研修集会場に「留置地の供養塔」が建っています。 拘束された不自由な生活のため、短い期間に79人 (老人や子供など。)がここで死亡しました。 1691年1月にも高鍋藩の立ち会(あ)いで、延岡藩の使者と農民たちは交渉しましたがうまくいきませんでした。 それで江戸幕府の裁定を仰 (あお)ぐ事になりました。 高鍋藩は農民たちに食糧、小屋を与えたり、医師を派遣しました。 1691年6月23日に江戸幕府は農民側に非があり、延岡藩内に戻るように指示しました。 延岡藩郡代 (梶田十郎左衛門)と代官 (大崎)は追放されました。 農民側の首謀者2人は磔 (はりつけ)、5人は斬首、7人は八丈島へ流罪 (るざい)となり、首謀者の家族も罰せられました。 延岡藩と高鍋藩が農民を説得し、1691年7月14日に農民たちは延岡藩内に戻 (もど)りました。 1691年11月8日に江戸幕府は騒動の責任をとらせて延岡藩藩主 有馬清純に糸魚川藩 (新潟県)への移動を命じました。 山陰村と坪谷村は天領 (幕府領)となりました。



写真CT: 「逃散300年記念碑」と書いてある百姓一揆の石碑です。 東郷町にある西城公園。
「山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の記念碑」である「山陰坪屋 逃散300年記念碑」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。 「坪屋」は坪谷のことです。 西城跡である西城公園にあります。



写真CU: 百姓一揆の碑に、
「この塚は都農町・・野に小屋使いのとき亡くなった79名の方々の川石墓が埋没してある。」
と書いてあります。
百姓一揆の首謀者たちは西城公園のそばの成願寺で謀議をしました。 それで300戸 1422人の農民たちが1690年9月19日に牛や馬、家財と少しの弓矢や鉄砲を持って隣 (とな)りの高鍋藩内へと逃散しました。 山陰→美々津→都農町の又猪野と進みました。 農民たちは薩摩藩 (さつまはん)まで行こうとしましたが、途中の都農町又猪野で高鍋藩に止められ、高鍋藩内に留まることになりました。 宮崎県 児湯郡 都農町 又猪野に「山陰百姓一揆 留置の地」があります。 小高い所にある又猪野地区研修集会場に「留置地の供養塔」が建っています。 拘束された不自由な生活のため、短い期間に79人 (老人や子供など。)がそこで死亡しました。



写真CV: 「この塚は都農町・・野に小屋使いのとき亡くなった79名の方々の川石墓が埋没してある。」
と書いてあります。
百姓一揆の首謀者たちは西城公園のそばの成願寺で謀議をしました。 それで300戸 1422人の農民たちが1690年9月19日に牛や馬、家財と少しの弓矢や鉄砲を持って隣 (とな)りの高鍋藩内へと逃散しました。 山陰→美々津→都農町の又猪野と進みました。 農民たちは薩摩藩 (さつまはん)まで行こうとしましたが、途中の都農町又猪野で高鍋藩に止められ、高鍋藩内に留まることになりました。 宮崎県 児湯郡 都農町 又猪野に「山陰百姓一揆 留置の地」があります。 小高い所にある又猪野地区研修集会場に「留置地の供養塔」が建っています。 拘束された不自由な生活のため、短い期間に79人 (老人や子供など。)がそこで死亡しました。



写真CW: 近くに石もあります。



写真CX: この石は台の上に載 (の)っています。



写真CY: 「由来記」の石碑 (せきひ)です。 奥に先程 (さきほど)の宴会の人達がいる東屋 (あずまや)が見えます。



写真CZ: 「由来記」の石碑 (せきひ)があります。 西城公園にあります。



写真DA: 「由来記」の石碑 (せきひ)です。



写真DB: 「由来記」の石碑 (せきひ)。



写真DC: 「由来記」の石碑 (せきひ)です。



写真DD: 石碑 (せきひ)があります。



写真DE: 「逃散300年記念碑」の裏 (うら)です。



写真DF: ツツジかサツキを植えてあります。



写真DG: 奥に桜の花が見えます。



写真DH: 「逃散300年記念碑」の裏 (うら)に碑文 (ひぶん)があります。



写真DI: 「逃散300年記念碑」の裏 (うら)にある碑文 (ひぶん)です。
元禄3年 (1690年)9月19日 藩主 有馬清純の郡代代官の悪政に抗して山陰坪屋300軒 (男864人 女558人 総勢1422人)の私達の祖先は大挙して領外に逃散した。 元禄泰平の夢を驚かせた1大事件は江戸幕府に解決を煩 (わず)わらせて争うこと10ヶ月、要求貫徹に成功したが、磔獄門 (はりつけごくもん)、打首、死罪、遠島等21名の尊い犠牲者を出し、領主もまた悪政の罪に問われて無城の地、越後 (新潟県)の糸魚川に移されるなど、我が国農民史上特筆さるべき百姓一揆 (ひゃくしょういっき)であった。 その後、村人達は朝参供養と称して犠牲者の霊を慰める法会を営 (いとな)んで今日に及 (およ)んでいる。 ここに逃散300年の歳 (とし)を迎え祖先の苦難を偲 (しの)んでこの碑を建て謹 (つつし)んでご冥福を祈 (いの)る。
平成元年9月19日 東郷町 東郷町教育委員会
と書いてあります。



写真DJ: 「逃散300年記念碑」の裏に「山陰坪屋300の文字は成願寺 保存 古文書から転写。」と彫 (ほ)ってあります。 成願寺は西城跡 (西城公園)の下にあり、よく見えます。



写真DK: 橋の手前に「日向市指定文化財 名称 冠岳の山桜群 指定年月日 昭和20年3月30日 所在地 日向市東郷町山陰 日向市」の説明板が見えます。 西城跡 (西城公園)の一番高い所が橋の奥に見えています。
「西城跡」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。
西城 (にしのしろ)は天文年間 (1532年~1555年)に米良によって築城されたと言われています。 米良は近くの山陰城の城主でしたが、支城として西城を造り、天文年間は米良宮内正が城主でした。 西城跡は坪谷川と耳川が合流する所の北岸の山の上にあります (標高 約70 m )。 南の耳川に近い一番高い曲輪 (くるわ、平らな所。)が主郭 (しゅかく)と思われます。 城の北部と南部の間に堀切 (ほりきり)があります。 現在はそれに太鼓橋 (たいこばし)がかかっています。 主郭から東への尾根 (おね)にも曲輪 (くるわ、平らな所。)があります。 西城は耳川の船の交通を司 (つかさど)る要所でありました。 西城は伊東48城には入っていません。



写真DL: 「日向市指定文化財 名称 冠岳の山桜群 指定年月日 昭和20年3月30日 所在地 日向市東郷町山陰 日向市」の説明板があります。



写真DM: 「日向市指定文化財 名称 冠岳の山桜群 指定年月日 昭和20年3月30日 所在地 日向市東郷町山陰 日向市」の説明板です。



写真DN: 「日向市指定文化財 名称 冠岳の山桜群 指定年月日 昭和20年3月30日 所在地 日向市東郷町山陰 日向市」の説明板。



写真DO: 「日向市指定文化財 名称 冠岳の山桜群 指定年月日 昭和20年3月30日 所在地 日向市東郷町山陰 日向市」の説明板です。



写真DP: 西城公園にある「冠岳の山桜群」の説明板のところから見た「冠岳 (かんむりだけ、標高 438 m)の山桜群」です。 山肌 (やまはだ)に白く点々と山桜の花が見えます。



写真DQ: 西城公園にある「冠岳の山桜群」の説明板のところから見た「冠岳 (かんむりだけ、標高 438 m)の山桜群」。 点々と白く見える山桜が美しく見えます。 左下は西城公園の桜です。



写真DR: 西城跡の堀切 (ほりきり)の上にある橋です。 太鼓橋 (たいこばし)です。



写真DS: 来た遊歩道を振り返ったものです。 多くの桜が咲いています。 左に東屋 (あずまや)が見えます。 下はツツジかサツキと思われます。



写真DT: 下に下 (くだ)る遊歩道があります。 おそらく成願寺の方から登ってくる道と思われます。 下方に奥から東郷小学校、東郷中学校、老人ホーム 鈴峰園、成願寺の屋根も見えます。



写真DU: 東郷町などの山が美しく見えます。 先程 (さきほど)通った国道327号も見えます。



写真DV: 西城跡の曲輪 (くるわ、平らな所。)から見たものです。



写真DW: 西城跡の堀切 (ほりきり)を渡る太鼓橋 (たいこばし)です。
「西城公園 (さいじょうこうえん)」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。
「西城跡」が西城公園として整備されています。 西城公園は成願寺という寺の東にある山の上 (標高 約70 m)にあります。 春は約200本の桜や約2000本のツツジが咲きます。 元禄3年 (1690年)に起きた山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の300周年記念碑である「逃散300年記念碑」があります。 毎年霊前供養が行われています。 天正・天文年間に伊東や島津の支城であった西城 (にしのしろ)が西城公園となっています。 施設として東屋 (あずまや)、太鼓橋 (たいこばし)、駐車場などがあります。 冠岳 (かんむりだけ)の山桜群や眼下に耳川を展望できます。



写真DX: 西城公園の太鼓橋 (たいこばし)です。



写真DY: 遠くに冠岳が見えます。



写真DZ: 冠岳 (かんむりだけ、標高 438 m)と手前に「冠岳の山桜群」の説明板が見えます。 右の桜の花は西城跡 (西城公園)のものです。



写真EA: 「冠岳の山桜群」の説明板の近くです。 そばの植木はツツジかサツキと思われます。



写真EB: 太鼓橋 (たいこばし)の上から堀切 (ほりきり)を見下 (お)ろしたものです。 かなり深い堀切です。



写真EC: 反対方向の堀切を見下ろしたものです。 手前は太鼓橋 (たいこばし)の手すりです。 西城跡の堀切の底は通路になっているようです。



写真ED: 太鼓橋 (たいこばし)を渡りました。 ここから冠岳 (かんむりだけ、標高 438 m)の山桜と西城公園の桜が楽しめます。 奥の桜の花の手前に小さく東屋 (あずまや)が見えます。



写真EE: 日向市 東郷町 山陰にある「冠岳の山桜」が満開でした。 下は西城公園のソメイヨシノの花です。 右下に曲輪 (くるわ、平らな所。)にある東屋 (あずまや)が見えます。



写真EF: ここを進みます。 左は崖 (がけ)になっています。 手すりがあります。 西城跡です。



写真EG: ここも西城跡の曲輪 (くるわ、平らな所。)です。 ここは東に伸びる尾根になっています。 西城公園の桜の花が咲いています。 右奥は冠岳です。



写真EH: 「さくらのまち日向市づくり事業 東郷町商工会 贈 九州電力耳川水力整備事務所」と書いてあります。 そばに若い桜の木が見えます。



写真EI: 看板 (かんばん)と若い桜の木があります。 西城跡の曲輪 (くるわ、平らな所。)です。



写真EJ: 東屋 (あずまや)の休憩所 (きゅうけいしょ)があります。 桜の花が咲いています。 奥に冠岳 (かんむりだけ、標高 438 m)が見えます。 西城跡の曲輪 (くるわ、平らな所。)です。 主郭 (しゅかく)から東への尾根にあります。



写真EK: 曲輪から崖 (がけ)の下を見たものです。 柵 (さく)が手前にあります。



写真EL: 西城跡 (西城公園)の曲輪 (くるわ、平らな所。)にある休憩所 (きゅうけいしょ)です。 奥に冠岳が見えます。



写真EM: テーブルとベンチがあります。 休憩所 (きゅうけいしょ)の中です。



写真EN: 来た方向を振り返ったものです。 西城跡の曲輪です。 桜の花が咲いています。



写真EO: 下方に咲いている桜の花です。



写真EP: 日向市 東郷町にある西城公園です。



写真EQ: 奥に一段と高い曲輪 (くるわ、平らな所。)の柵 (さく)が見えます。 そこが西城の主郭 (しゅかく)と思われます。



写真ER: 一段と高い曲輪の柵 (さく)が見えます。 そこが西城の主郭 (しゅかく)と思われます。



写真ES: 中央奥にはじめに見た東屋 (あずまや)と桜が見えます。 左に一段と高い曲輪に登る道が見えます。



写真ET: 離 (はな)れたところにも桜の花が見えます。



写真EU: 一番高い曲輪 (くるわ、平らな所。)に登る道から見た景色です。 太鼓橋 (たいこばし)も見えます。 奥の曲輪の桜と東屋も見えます。 遠くの山も見えています。 約200本の桜や約2000本のツツジが西城公園にあります。



写真EV: この坂道を登ります。 右端に太鼓橋 (たいこばし)が見えます。



写真EW: はじめに見た東屋 (あずまや)に多くの人が見えます。 ブルーシートもあります。 日の丸の旗が翻 (ひるがえ)っています。 奥に赤い鳥居 (とりい)があった曲輪 (くるわ、平らな所。)の桜の花が見えます。



写真EX: この辺 (あた)りは階段になっています。



写真EY: 「ヤブツバキの花」が落ちていました。



写真EZ: 2番目に見た東屋 (あずまや)が見えます。 桜も咲いています。 奥に冠岳の山桜の花が見えます。



写真FA: 1番高いところにある曲輪 (くるわ、平らな所。)の柵 (さく)が上に見えます。



写真FB: 1番高いところにある曲輪 (くるわ、平らな所。)に着 (つ)きました。 ここが主郭 (しゅかく)と思われます。 日向市 東郷町にある西城跡です。
「西城跡」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。
西城 (にしのしろ)は天文年間 (1532年~1555年)に米良によって築城されたと言われています。 米良は近くの山陰城の城主でしたが、支城として西城を造り、天文年間は米良宮内正が城主でした。 天正・天文年間に伊東や島津の支城でした。 西城跡は坪谷川と耳川が合流する所の北岸の山の上にあります (標高 約70 m )。 南の耳川に近い一番高い曲輪 (くるわ、平らな所。)が主郭 (しゅかく)と思われます。 城の北部と南部の間に堀切 (ほりきり)があります。 現在はそれに太鼓橋 (たいこばし)がかかっています。 主郭から東への尾根 (おね)にも曲輪 (くるわ、平らな所。)があります。 西城は耳川の船の交通を司 (つかさど)る要所でありました。 西城は伊東48城には入っていません。
「伊東48城」は都於郡城主あるいは佐土原城主だった伊東義祐のときに完成しました。 城と城の間隔は約数km~10 kmぐらいです。 これで日向の大部分を領地にしていたときの、支配体制を固めました。 伊東四十八城とは、 門川城、日知屋城塩見城、 高千穂城、 入下城、 水清谷城、 田代城、 坪谷城、 山陰城、 神門城、 雄八重城、 石城、 都於郡城佐土原城、高城、 財部城 、富田城、 穂北城、 三納城、 平野城、 那珂城、 八代城、 本庄城、 守永城、 石塚城、 宮崎城、 倉岡城、 曽井城、 綾城、 穆佐城、 飯田城、本脇城、 高岡城、 染野城、 紙屋城、 野久尾城、 飫肥城、 戸崎城、 野尻城、 三山城、 高原城、 清武城、 田野城、 紫波洲崎城、 瀬平城、 酒谷城、 目井城、 須木城 です。
(太字は主要な城です。) これとは別に「伊東八外城」は日和城(ひわんじょう)を中心本城として山之口城、松尾城(三股城)、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城としていました。



写真FC: ここが主郭 (しゅかく)です。 西城跡の1番高い曲輪 (くるわ、平らな所。)から見た冠岳の山桜の花です。 白く点々と見えています。 1番高い曲輪に、元 (もと)あった建物の柱の下の石が残っているのが見えます。



写真FD: 山々が見えます。 右端は冠岳です。 西城跡の1番高い曲輪から見たものです。



写真FE: 西城跡の1番高い曲輪から見た風景です。 左は西城公園の桜です。



写真FF: 左は登ってきた道です。



写真FG: 登ってきた道です。



写真FH: 昔あった建物の柱の下の石が見えます。 一番高い曲輪 (西城の主郭 (しゅかく))です。



写真FI: 以前あった建物の柱の下の石 (コンクリート)です。



写真FJ: 西城跡 (西城公園)の1番高い曲輪から見た冠岳の山桜です。



写真FK: 左端に東屋とブルーシートが見えます。 西城公園の桜が美しい。 西城跡は山城です。



写真FL: 西城跡が西城公園として整備されています。 遠方の山が見えます。



写真FM: 宮崎県 日向市 東郷町にある「西城跡」の1番高い曲輪 (くるわ、平らな所。)です。 西城の主郭 (しゅかく)。



写真FN: 曲輪の様子 (ようす)です。



写真FO: 曲輪のそばに木があります。



写真FP: 見下 (お)ろした西城跡 (西城公園)です。 約200本の桜や約2000本のツツジが西城公園にあります。



写真FQ: 見下ろした桜が美しい。



写真FR: 一番高い曲輪から見下ろした西城跡 (西城公園)の桜の花です。



写真FS: ブルーシートのそばの東屋 (あずまや)に多くの人 (花見客)が見えます。 奥に赤い鳥居 (とりい)がある曲輪の桜の花が見えます。



写真FT: ゼンマイやワラビなどのシダ類の若い芽です。



写真FU: 見下ろした西城公園です。
「西城公園 (さいじょうこうえん)」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。
「西城跡」が西城公園として整備されています。 西城公園は成願寺という寺の東にある山の上 (標高 約70 m)にあります。 春は約200本の桜や約2000本のツツジが咲きます。 元禄3年 (1690年)に起きた山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の300周年記念碑である「逃散300年記念碑」があります。 毎年霊前供養が行われています。 天正・天文年間に伊東や島津の支城であった西城 (にしのしろ)が西城公園となっています。 施設として東屋 (あずまや)、太鼓橋 (たいこばし)、駐車場などがあります。 冠岳 (かんむりだけ)の山桜群や眼下に耳川を展望できます。



写真FV: 見下ろした太鼓橋 (たいこばし)です。 その下は堀切 (ほりきり)になっています。 西城の、敵からの防御 (ぼうぎょ)のために人工的に掘って造った谷 (堀切)です。



写真FW: 坂道を下 (くだ)ります。



写真FX: 坂道から見た景色です。



写真FY: 堀切の上にある太鼓橋 (たいこばし)のところに戻 (もど)って来ました。



写真FZ: 橋の上から見た堀切 (ほりきり)です。



写真GA: 橋の上から見た風景です。 右上は冠岳です。



写真GB: 橋の上から、下方に奥から東郷小学校、東郷中学校も見えます。 左下は堀切です。



写真GC: 西城公園から見た眺望 (ちょうぼう)です。 左奥に屋根の尖 (とが)った「道の駅 とうごう」の建物も見えます。 国道327号も見えます。 手前に耳川が見えています。



写真GD: 奥から東郷小学校、東郷中学校、老人ホーム 鈴峰園、成願寺の屋根も見えます。 手前は成願寺の方に降りる道と思われます。 西城公園から見たものです。
西城公園の下にある成願寺には百姓一揆の犠牲者の慰霊碑があり、今でも慰霊祭が行われています。 百姓一揆の首謀者たちはこの成願寺で謀議をしました。



写真GE: 左に国道327号が見えます。



写真GF: 水飲み場があります。



写真GG: 花見客が多く集まっています。 西城公園。
「西城公園 (さいじょうこうえん)」は宮崎県 日向市 東郷町 大字山陰 鶴野内 にあります。
「西城跡」が西城公園として整備されています。 西城公園は成願寺という寺の東にある山の上 (標高 約70 m)にあります。 春は約200本の桜や約2000本のツツジが咲きます。 元禄3年 (1690年)に起きた山陰百姓一揆 (やまげひゃくしょういっき)の300周年記念碑である「逃散300年記念碑」があります。 毎年霊前供養が行われています。 天正・天文年間に伊東や島津の支城であった西城 (にしのしろ)が西城公園となっています。 施設として東屋 (あずまや)、太鼓橋 (たいこばし)、駐車場などがあります。 冠岳 (かんむりだけ)の山桜群や眼下に耳川を展望できます。



写真GH: 耳川や国道327号も見えます。



写真GI: 西城公園からの眺望 (ちょうぼう)です。 左端に耳川があります。



写真GJ: 駐車場の方に戻 (もど)ります。



写真GK: 奥に桜の花が見えます。



写真GL: はじめの赤い鳥居 (とりい)がある曲輪 (くるわ、平らな所。)に戻 (もど)って来ました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)