新田原古墳群 (国指定史跡)、大師山公園、新田原特攻基地、陸軍新田原飛行場の掩体壕 (えんたいごう)、新田原台地、石舟塚 (前方後円墳)、航空自衛隊 新田原基地 (野球場、古墳 (こふん)、にゅうたばる、茶畑)  (宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田)







<標高、位置>  「大師山公園」は
標高 約60 m
 北緯32度04分43秒  東経131度26分26秒


 「新田原古墳群」は新富町 新田、西都市 右松にある古墳群です。 一ツ瀬川をはさんで対岸に西都原古墳群があります。 古墳時代後期では南九州最大の前方後円墳 弥五郎塚 (やごろうづか、全長 94 m)があります。 一ツ瀬川の左岸 (下流を見て左。)の新田原古墳群には前方後円墳が24基、方墳が2基、円墳が181基あり、総計207の古墳があります。 新田原古墳群は祇園古墳群、塚原古墳群、石船古墳群、山之坊古墳群に分かれています。 百足塚 (むかでづか)古墳 (58号墳)と呼 (よ)ばれる前方後円墳は全長80 m で、約1000個の円筒埴輪 (はにわ)、形象埴輪 約60個が出土しました。 特に「ひざまずく男性」などの他では見られない埴輪 (はにわ)も出土しました。 1944年 (昭和19年)11月13日に国指定史跡に指定されました。

 「新田原古墳群」は、昭和19年に国の史跡に指定されました。 太平洋戦争開始の少し前に陸軍新田原飛行場が造られるときに、古墳42号、43号、44号、45号の4基の古墳が移転されました。 45号 (石舟塚)は石棺 (せきかん)が露出していたそうです。
 「石舟塚 (前方後円墳)」の説明板から、
此 (こ)の古墳 (こふん)は新田原古墳群200余基の1部にして、新富町 新田 麓地区から、一丁田地区に通じていた旧道路の東側にあったものを、戦争峻烈 (しゅんれつ)となり南方出撃基地として昭和14~15年に亘 (わた)り陸軍航空隊 新田原飛行場が建設されたる際での地域内にあったものを原形の約1/10 に縮小して前方後円墳2基・円墳1基と共に現在地に移転築造されたものである。
 元の位置は現在 新田原航空自衛隊 主滑走路付近にあり、移転前には古墳後円部中央に石棺 (せきかん、花崗岩 (かこうがん) 長さ8尺2寸 幅3尺2寸 高さ2尺)が南北に平置され常に水を湛 (たた)え訪 (おとず)れる人もなき林内に静けさを漂わせていた。 付近一帯は往年 佐土原藩 島津家の牧場あり、馬の水槽 (すいそう)に此 (こ)の石棺 (せきかん)を使用したと古老は伝えていた。 外に元の古墳南口に大石3個も露出していた、その一石は現在 新田中学校に保存されている。 石棺 (せきかん)は縮小古墳に埋没 (まいぼつ)されたる為 見ることは出来ない。
 大正3年3月 京都帝大 教授 理学博士 小川琢治 先生も当地 古墳調査視察の際 多数の古墳を見て貴重な文化遺産なれば大切に保存管理を強調、石棺の写真数葉も撮影され京大に保管されていると思われる。
新富町文化財保護委員会 (一部判読しました。)

 「新田原特攻基地」からは第2次世界大戦中にレイテ沖海戦、フィリピン海域への特攻機も出撃しました。 沖縄戦では新田原特攻基地から38名の特攻隊員が出撃しました。

 航空自衛隊 新田原基地の南側に太平洋戦争開始の少し前に造られた陸軍新田原飛行場の軍用機を米軍の攻撃から守るコンクリート製の「掩体壕 (えんたいごう)」が4基残っています。 かまぼこ型をしています。 新田原の掩体壕は入り口が単純な形の陸軍型で、宮崎空港付近の掩体壕は入り口が飛行機の断面のような形の海軍型が多く見られます。 陸軍落下傘部隊の母隊である挺身 (ていしん)練習部が新田原飛行場にありました。 それは昭和18年に新田原から川南町の唐瀬原に移りました。 第2次世界大戦中に新田原からも特攻機が出撃しました。 陸軍新田原飛行場は1939年2月1日 (太平洋戦争開始の少し前)に着工し、1940年7月17日に熊谷陸軍飛行学校新田原分教場が開設され、同年10月1日に大刀洗陸軍飛行学校新田原分教場となりました。 1945年8月15日に終戦。 1947年農林省に所管換えになり、開拓農地として民間に払い下げられました。 1958年航空自衛隊新田原基地の滑走路が完成しました。


写真A: 宮崎県 宮崎市 児湯郡 新富町 新田にある「大師山公園」です。 「この球場でのゴルフ練習を禁ず 新富町教育委員会」と書いてある看板 (かんばん)があります。 右奥にナイター照明塔も見えます。



写真B: 「この球場でのゴルフ練習を禁ず 新富町教育委員会」と書いてある看板 (かんばん)です。



写真C: 野球のバックネット、ナイター照明塔があります。



写真D: 北の方に尾鈴山 (標高 1405.2 m)が大師山公園から見えます。 左に外灯、トイレ、右に野球場の物置小屋も見えます。 この辺 (あた)りは新田原台地と呼 (よ)ばれます。



写真E: ダッグアウト (野球選手・監督 (かんとく)の控 (ひか)え室)、バックネット、ナイター照明塔、物置小屋が見えます。 大師山公園です。



写真F: 東を見たものです。 球場への入り口があります。



写真G: 南東を見たものです。 ナイター照明塔も見えます。



写真H: 南を見たものです。 テーブル、椅子 (いす)、熊やライオンの形をした子供の遊具、外灯、遠くの山も見えます。



写真I: 右に携帯電話の赤と白に塗 (ぬ)ってある基地局アンテナ、ライオンの形をした遊具、外灯、金網の柵 (さく)などがあります。 南西を見たものです。 新富町にある大師山公園です。



写真J: 新富町の新田原台地にある大師山公園のそばの「携帯電話の赤と白に塗ってある基地局アンテナ」です。 下に白く機械室が見えます。



写真K: 赤と白に塗ってある携帯電話の基地局アンテナです。 遠くからでもよく見えます。 そのそばに大師山公園があります。



写真L: 牛と象の形をした子供の遊具があります。 西を見たものです。 大師山公園です。



写真M: 大師山公園は新田原台地にあります。 トイレ、外灯、牛と象の遊具などが見えます。 尾鈴山 (標高 1405.2 m)が北に見えます。



写真N: 宮崎県 児湯郡 新富町にある「大師山公園」の野球場です。 選手の控 (ひか)え室、ナイター照明塔、バックネット、小屋、白線などが見えます。



写真O: 東を見たものです。 ファーストベースが白線のそばに見えます。 奥に、太平洋戦争開始の少し前に新田原基地を造るときに移動した古墳 (こふん)が見えます。 石舟塚 (前方後円墳)です。 国旗掲揚 (けいよう)ポール、ナイター照明塔もあります。



写真P: 南を見たものです。 球場のナイター照明塔が見えます。 新富町にある大師山公園。



写真Q: 左はダッグアウト (選手・監督 (かんとく)などの控 (ひか)え室です。)、水道の蛇口 (じゃぐち)、ナイター照明塔、バックネット、小屋、尾鈴山 (標高 1405.2 m)などが見えます。 北を見たものです。 大師山公園です。



写真R: ナイター照明塔の様子 (ようす)がよく分かります。



写真S: 「石舟塚 (前方後円墳)」の説明板があります。
此 (こ)の古墳 (こふん)は新田原古墳群200余基の1部にして、新富町 新田 麓地区から、一丁田地区に通じていた旧道路の東側にあったものを、戦争峻烈 (しゅんれつ)となり南方出撃基地として昭和14~15年に亘 (わた)り陸軍航空隊 新田原飛行場が建設されたる際での地域内にあったものを原形の約1/10 に縮小して前方後円墳2基・円墳1基と共に現在地に移転築造されたものである。
 元の位置は現在 新田原航空自衛隊 主滑走路付近にあり、移転前には古墳後円部中央に石棺 (せきかん、花崗岩 (かこうがん) 長さ8尺2寸 幅3尺2寸 高さ2尺)が南北に平置され常に水を湛 (たた)え訪 (おとず)れる人もなき林内に静けさを漂わせていた。 付近一帯は往年 佐土原藩 島津家の牧場あり、馬の水槽 (すいそう)に此 (こ)の石棺 (せきかん)を使用したと古老は伝えていた。 外に元の古墳南口に大石3個も露出していた、その一石は現在 新田中学校に保存されている。 石棺 (せきかん)は縮小古墳に埋没 (まいぼつ)されたる為 見ることは出来ない。
 大正3年3月 京都帝大 教授 理学博士 小川琢治 先生も当地 古墳調査視察の際 多数の古墳を見て貴重な文化遺産なれば大切に保存管理を強調、石棺の写真数葉も撮影され京大に保管されていると思われる。
新富町文化財保護委員会
と書かれています。 (一部判読しました。)



写真T: 「石舟塚 (前方後円墳)」の説明板があります。
此 (こ)の古墳 (こふん)は新田原古墳群200余基の1部にして、新富町 新田 麓地区から、一丁田地区に通じていた旧道路の東側にあったものを、戦争峻烈 (しゅんれつ)となり南方出撃基地として昭和14~15年に亘 (わた)り陸軍航空隊 新田原飛行場が建設されたる際での地域内にあったものを原形の約1/10 に縮小して前方後円墳2基・円墳1基と共に現在地に移転築造されたものである。
 元の位置は現在 新田原航空自衛隊 主滑走路付近にあり、移転前には古墳後円部中央に石棺 (せきかん、花崗岩 (かこうがん) 長さ8尺2寸 幅3尺2寸 高さ2尺)が南北に平置され常に水を湛 (たた)え訪 (おとず)れる人もなき林内に静けさを漂わせていた。 付近一帯は往年 佐土原藩 島津家の牧場あり、馬の水槽 (すいそう)に此 (こ)の石棺 (せきかん)を使用したと古老は伝えていた。 外に元の古墳南口に大石3個も露出していた、その一石は現在 新田中学校に保存されている。 石棺 (せきかん)は縮小古墳に埋没 (まいぼつ)されたる為 見ることは出来ない。
 大正3年3月 京都帝大 教授 理学博士 小川琢治 先生も当地 古墳調査視察の際 多数の古墳を見て貴重な文化遺産なれば大切に保存管理を強調、石棺の写真数葉も撮影され京大に保管されていると思われる。
新富町文化財保護委員会
と書かれています。 (一部判読しました。)



写真U: 大師山公園の野球場の東に「石舟塚 (前方後円墳)」が見えています。
「新田原古墳群」は、昭和19年に国の史跡に指定されました。 太平洋戦争開始の少し前に陸軍新田原飛行場が造られるときに、古墳42号、43号、44号、45号の4基の古墳が移転されました。 45号 (石舟塚)は石棺 (せきかん)が露出していたそうです。
「新田原古墳群」は新富町 新田、西都市 右松にある古墳群です。 一ツ瀬川をはさんで対岸に西都原古墳群があります。 古墳時代後期では南九州最大の前方後円墳 弥五郎塚 (やごろうづか、全長 94 m)があります。 一ツ瀬川の左岸 (下流を見て左。)の新田原古墳群には前方後円墳が24基、方墳が2基、円墳が181基あり、総計207の古墳があります。 新田原古墳群は祇園古墳群、塚原古墳群、石船古墳群、山之坊古墳群に分かれています。 百足塚 (むかでづか)古墳 (58号墳)と呼 (よ)ばれる前方後円墳は全長80 m で、約1000個の円筒埴輪 (はにわ)、形象埴輪 約60個が出土しました。 特に「ひざまずく男性」などの他では見られない埴輪 (はにわ)も出土しました。 1944年 (昭和19年)11月13日に国指定史跡に指定されました。



写真V: 大師山公園の野球場の東ある「石舟塚 (前方後円墳)」です。 移転前にはこの10倍の大きさでした。 太平洋戦争開始の少し前に今の主滑走路にあった古墳をここに移転しました。 現在の古墳の中に石棺 (せきかん)も入れてあります。



写真W: 「大師山公園を利用される皆さん、次の事項は禁止になっております。 新富町」の看板 (かんばん)があります。



写真X: 新田原台地です。 北に航空自衛隊 新田原基地 (にゅうたばるきち)の施設、遠くに尾鈴山 (標高 1405.2 m)が見えます。



写真Y: 南から見た航空自衛隊 新田原基地です。



写真Z: 宮崎県 児湯郡 新富町にある航空自衛隊 新田原基地です。



写真AA: 新田原基地の南の道です。



写真AB: 新田原台地の茶畑です。 きれいに刈 (か)ってあります。



写真AC: 茶畑があります。 新田原基地の南です。



写真AD: 車道と茶畑です。



写真AE: 新田原台地にある車道です。



写真AF: 尾鈴山 (標高 1405.2 m)、鹿遊連山 (かなすみれんざん)、大瀬内山 (標高 978.6 m)などが見えます。 近くに新田原基地もあります。



写真AG: 鹿遊連山 (かなすみれんざん)、大瀬内山 (標高 978.6 m)などが見えます。 新田原基地の柵 (さく)もあります。



写真AH: 新田原台地から見た尾鈴山 (標高 1405.2 m)です。



写真AI: 新田原基地の施設です。



写真AJ: 宮崎県 児湯郡 新富町にある航空自衛隊 新田原基地。



写真AK: 新田原基地です。



写真AL: 新田原基地 (にゅうたばるきち)。



写真AM: 新田原台地です。



写真AN: 右に養鶏場 (ようけいじょう)の建物が見えます。 新田原台地です。



写真AO: 養鶏場、茶畑が見えます。



写真AP: 新田原基地の南にある「掩体壕 (えんたいごう)」が見えます。 掩体壕は第2次世界大戦のときに戦闘機などの軍用機を入れて敵の爆撃などから飛行機を守るものです。 新田原台地にある掩体壕跡。
「新田原特攻基地」からは第2次世界大戦中にレイテ沖海戦、フィリピン海域への特攻機も出撃しました。 沖縄戦では新田原特攻基地から38名の特攻隊員が出撃しました。



写真AQ: 新田原基地の南にある掩体壕 (えんたいごう)です。



写真AR: かまぼこ型の「掩体壕 (えんたいごう)」が新田原台地に残っています。 第2次世界大戦中に戦闘機などを入れた格納庫 (かくのうこ)です。
航空自衛隊 新田原基地の南側に太平洋戦争開始の少し前に造られた陸軍新田原飛行場の軍用機を米軍の攻撃から守るコンクリート製の「掩体壕 (えんたいごう)」が4基残っています。 かまぼこ型をしています。 新田原の掩体壕は入り口が単純な形の陸軍型で、宮崎空港付近の掩体壕は入り口が飛行機の断面のような形の海軍型が多く見られます。 陸軍落下傘部隊の母隊である挺身 (ていしん)練習部が新田原飛行場にありました。 それは昭和18年に新田原から川南町の唐瀬原に移りました。 第2次世界大戦中に新田原からも特攻機が出撃しました。 陸軍新田原飛行場は1939年2月1日 (太平洋戦争開始の少し前)に着工し、1940年7月17日に熊谷陸軍飛行学校新田原分教場が開設され、同年10月1日に大刀洗陸軍飛行学校新田原分教場となりました。 1945年8月15日に終戦。 1947年農林省に所管換えになり、開拓農地として民間に払い下げられました。 1958年航空自衛隊新田原基地の滑走路が完成しました。



写真AS: 宮崎県 児湯郡 新富町にある第2次世界大戦中の「掩体壕 (えんたいごう)」が見えます。



写真AT: 新富町の新田原にある掩体壕 (えんたいごう)です。



写真AU: 新田原基地の北東側のそばにあるお茶の店「夢茶房」です。



写真AV: 宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 1113-14 にあるお茶関係の店「夢茶房」です。 抹茶 (まっちゃ)のソフトクリームの大型模型の看板 (かんばん)も見えます。



写真AW: 新富町にある夢茶房です。



写真AX: 左に夢茶房の屋根付きの門があります。 近くの茶畑も見えます。 奥は新田原基地です。



写真AY: 茶畑と新田原基地です。 夢茶房から見たものです。



写真AZ: 椿 (つばき)の花が飾 (かざ)ってありました。 夢茶房です。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)