熊本城、石垣、井戸、本丸御殿 (ほんまるごてん) (いしがき、濠 (ほり)、五郎の首掛石 (くびかけいし))  (熊本県 熊本市 中央区 本丸)







<標高、位置>  「熊本城」は
標高 約50 m
 北緯32度48分20秒  東経130度42分22秒


 「熊本城」は熊本県 熊本市 中央区 本丸 1-1 にあります。
 熊本城は肥後守護 菊池の1族である出田秀信が1469年から1487年頃に造ったのが始まりです。 当時は千葉城と呼 (よ)ばれていました。 また鹿子木親員が隈本城 (くまもとじょう)を造りました。 加藤清正によって大幅な改修が行われ、呼び名も熊本城と変えられ、町の名も隈本 (くまもと)から熊本に変更されました。 加藤清正が天正16年 (1588年)に入り、ほぼ現在の形に完成させました。 上ほど急勾配 (きゅうこうばい)にしてある「武者返し」と呼ばれる形状の石垣が有名で、「清正流」とも呼ばれます。 この石垣は豊臣秀吉の朝鮮出兵 (慶長の役)のときに、朝鮮に築かれ難攻不落と言われた「うるさん倭城」に使用した築城法をもとにして加藤清正が造ったものです。 主な城主は加藤、細川です。 1874年に廃城になりました。 熊本城の別名は銀杏城 (ぎんなんじょう)、千葉城、隈本城です。 茶臼山丘陵に築かれた平山城で、天守の構造は連結式望楼型3重6階地下1階でした (1600年に築城されたもので現在のものとは別です。)。 国の特別史跡 熊本城となっています。 国の重要文化財として櫓 (やぐら) 11棟、門 1棟、塀 (へい) 1棟が指定されています。 遺構 (いこう)は櫓 (やぐら)、門、石垣、堀、塀があります。 2006年4月6日に日本100名城に選定されました。 日本3名城の1つです。 西南戦争で1部の建物以外は天守を含んで焼失しました。 日本さくら名所100選にもなっています。 2007年に築城400年を記念して本丸御殿などが復元されました。 熊本城の広さは約98万平方メートルで周囲は約 5.3 km です。 そばに白川が流れていて外堀 (そとぼり)としての役割をしています。

 「五郎の首掛石 (くびかけいし)」の説明板から、
 勇将 木山弾正の遺子と伝えられる横手五郎は、今の熊本市 横手町に育ったので、その名がついたと言われる。 父 弾正は、天正17年 (1589年)の天草一揆 (あまくさいっき)のとき、志岐麟仙に味方して仏木坂で加藤清正に一騎打ちをいどみ武運つたなく戦死した。 そこで、五郎は成人ののち清正を仇 (かたき)と狙 (ねら)い、築城人夫に身をやつしていつかは父の恨 (うら)みを晴らそうと考えていた。 ところがその間に彼の素性は見破られ、井戸掘りをしているとき生埋 (いきう)めにされたという。 この石の重さは1800 kg であるが、築城当時に五郎が首にかけて運んだものと言い伝えられている。


写真A: 熊本県 熊本市 中央区 本丸にある熊本城です。



写真B: 駐車場にバス、キャンピングカー、乗用車などが止 (と)まっています。



写真C: 熊本城の石垣 (いしがき)、堀 (ほり、濠とも書きます。)があります。



写真D: 熊本城の有名な石垣 (いしがき)です。 左は堀 (ほり)です。



写真E: 堀には水と芝生 (しばふ)があります。



写真F: 熊本城の広場です。 奥に城の建物が見えます。 大きな木もあります。



写真G: 熊本城の石垣 (いしがき)と塀 (へい)です。 左手前に井戸 (いど)があります。 右寄りに建物が見えます。



写真H: 門があります。 扉 (とびら)も見えます。
頬当御門 (ほほあてごもん)です。



写真I: 見上 (あ)げた熊本城です。 高い石垣 (いしがき)の上に建っています。



写真J: 「→天守閣 (てんしゅかく)、本丸御殿 (ほんまるごてん)、順路」と書いてある看板 (かんばん)があります。 左に坂道が見えます。



写真K: 熊本県 熊本市 中央区 本丸にある熊本城です。 大きな木もあります。 坂道もあります。



写真L: 建物の手前の広場に井戸 (いど)があります。



写真M: 熊本城の広場、立木、建物、石垣、坂道などが見えます。



写真N: 木の奥にも熊本城の建物が見えます。



写真O: 熊本市にある熊本城です。 右に遠くの山も見えます。
「熊本城」は熊本県 熊本市 中央区 本丸 1-1 にあります。
 熊本城は肥後守護 菊池の1族である出田秀信が1469年から1487年頃に造ったのが始まりです。 当時は千葉城と呼 (よ)ばれていました。 また鹿子木親員が隈本城 (くまもとじょう)を造りました。 加藤清正によって大幅な改修が行われ、呼び名も熊本城と変えられ、町の名も隈本 (くまもと)から熊本に変更されました。 加藤清正が天正16年 (1588年)に入り、ほぼ現在の形に完成させました。 上ほど急勾配 (きゅうこうばい)にしてある「武者返し」と呼ばれる形状の石垣が有名で、「清正流」とも呼ばれます。 この石垣は豊臣秀吉の朝鮮出兵 (慶長の役)のときに、朝鮮に築かれ難攻不落と言われた「うるさん倭城」に使用した築城法をもとにして加藤清正が造ったものです。 主な城主は加藤、細川です。 1874年に廃城になりました。 熊本城の別名は銀杏城 (ぎんなんじょう)、千葉城、隈本城です。 茶臼山丘陵に築かれた平山城で、天守の構造は連結式望楼型3重6階地下1階でした (1600年に築城されたもので現在のものとは別です。)。 国の特別史跡 熊本城となっています。 国の重要文化財として櫓 (やぐら) 11棟、門 1棟、塀 (へい) 1棟が指定されています。 遺構 (いこう)は櫓 (やぐら)、門、石垣、堀、塀があります。 2006年4月6日に日本100名城に選定されました。 日本3名城の1つです。 西南戦争で1部の建物以外は天守を含んで焼失しました。 日本さくら名所100選にもなっています。 2007年に築城400年を記念して本丸御殿などが復元されました。 熊本城の広さは約98万平方メートルで周囲は約 5.3 km です。 そばに白川が流れていて外堀 (そとぼり)としての役割をしています。



写真P: 熊本城の本丸御殿 (ほんまるごてん)です。 テントもあります。
2007年に築城400年を記念して本丸御殿などが復元されました。



写真Q: 「本丸御殿見学について 注意事項」の看板 (かんばん)があります。 奥は本丸御殿です。
2007年に築城400年を記念して本丸御殿などが復元されました。



写真R: 熊本城の本丸御殿です。 大きな木もあります。



写真S: 本丸御殿などです。



写真T: 立派な石垣の上にお城があります。 熊本城。



写真U: 左に城に入る石段が見えます。 熊本城です。



写真V: 熊本市 中央区にある熊本城です。



写真W: 「熊本城のゆるキャラと熊本城来園記念」と書いてあります。 奥は熊本城です。



写真X: 記念撮影用のスポットです。



写真Y: ここから見える熊本城が代表的な姿をしています。



写真Z: 熊本城の内部です。 石垣、石段、大きな柱も見えます。



写真AA: 熊本城の中です。 立派な石垣があります。



写真AB: 熊本城の井戸と石垣 (いしがき)です。



写真AC: 石垣の様子 (ようす)がよく分かります。 手前に井戸があります。



写真AD: 熊本城の石垣は有名です。



写真AE: 見上 (あ)げた熊本城です。



写真AF: 熊本城の井戸と石垣、建物です。



写真AG: 井戸は広場にあります。



写真AH: 左端は井戸です。 右は坂道です。



写真AI: 熊本城と大きな木です。



写真AJ: 大きな木の間に見える熊本城です。



写真AK: 木陰 (こかげ)にベンチがあります。 観光客が休んでいます。



写真AL: 熊本城の建物です。



写真AM: 坂道のそばです。



写真AN: 坂道です。 奥にも建物が見えます。



写真AO: 熊本城の石垣、井戸、坂道です。 説明板もあります。



写真AP: 熊本城の井戸と石垣です。



写真AQ: 熊本城にある「五郎の首掛石 (くびかけいし)」です。 ガイドさんが説明をしています。



写真AR: 「五郎の首掛石 (くびかけいし)」の説明板です。
 勇将 木山弾正の遺子と伝えられる横手五郎は、今の熊本市 横手町に育ったので、その名がついたと言われる。 父 弾正は、天正17年 (1589年)の天草一揆 (あまくさいっき)のとき、志岐麟仙に味方して仏木坂で加藤清正に一騎打ちをいどみ武運つたなく戦死した。 そこで、五郎は成人ののち清正を仇 (かたき)と狙 (ねら)い、築城人夫に身をやつしていつかは父の恨 (うら)みを晴らそうと考えていた。 ところがその間に彼の素性は見破られ、井戸掘りをしているとき生埋 (いきう)めにされたという。 この石の重さは1800 kg であるが、築城当時に五郎が首にかけて運んだものと言い伝えられている。
熊本市
と書かれています。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)