稚児ヶ池 (ちごがいけ)の遊歩道、日向国府跡 (稚児ヶ池公園、稚児ヶ池の展望所、水鳥、ボート、発掘中の国府跡、市営稚児ヶ池住宅)  (宮崎県 西都市 大字三宅)







<標高、位置>  稚児ヶ池 (ちごがいけ)は
標高 約20 m
 北緯32度06分48秒  東経131度23分58秒

<標高、位置>  日向国府跡は
標高 約30 m
 北緯32度06分52秒  東経131度24分02秒


 「稚児ヶ池 (ちごがいけ)」は宮崎県 西都市 大字三宅 稚児ヶ池 にあります。
稚児ヶ池は下流の水田約 1 ha に水を供給しています。 伝説の法元 (ほうが)長千代丸 (14歳)は志願して溜池 (ためいけ)の堤 (つつみ)が壊れるのを防ぐために人柱 (ひとばしら)になりました。 それ以後、この溜池は稚児ヶ池と呼ばれるようになりました。
長千代丸顕徳碑の裏から、
 室町時代 (約600 年前)に、ここを治めていた伊東の時代に稚児ヶ池の堤(つつみ)は作られました。 しかし豪雨で決壊しました。 ちまたでは、池を作るときに池に住んでいた黒白の大蛇を殺して埋めたので、その祟(たた)りだと言われました。 それを静めるのに、人柱が考えられました。 国分寺から学業を終えて帰る途中の14歳だった長千代丸が捕らえられました。 正長元年(1428年)2月27日、長千代丸は少しも動ぜず、家人に遺言を伝え自刃して哀れにも深く8尺(約2.4 m)に埋められ、永くこの池の守護神として祀(まつ)られています。 人々はこの池を「稚児殿池(ちごんど池)」と呼んでいます。

 「日向国府跡」は宮崎県 西都市 大字三宅 にあります。
天皇を中心に、朝廷(ちょうてい)による律令制(りつりょうせい)は7世紀後半(飛鳥時代後期)から10世紀まで実施されました。 奈良時代、日向の国府(今の県庁)は西都市にありました。 今でも、西都市の稚児ヶ池(ちごがいけ)の近くに国府跡が残っています。 その頃の特産品は牛と馬でした。 奈良時代の761年(天平宝字5年)頃(ごろ)の国司(日向守)は安倍黒麻呂でした。 それ以後も多数の人が国司(日向守)を勤(つと)めています。 平安時代の末期は、日向国も国司が赴任しない遥任(ようにん)でしたが、国司の実務は在国司職(ざいこくししき)に委(ゆだ)ねられていました。 在国司職は国衙在庁官人の筆頭です。 日向国の場合は日下部(くさかべ)が世襲していました。 しかし、平家滅亡とともに、文治三年(1187年、鎌倉幕府の始まる5年前)在国司職は日下部から土持信綱(つちもちのぶつな)に移りました。 8世紀前半に日向国から薩摩国、大隅国が独立して、日向国は今の県とほぼ同じ広さ、形になりました。
  駅使 (えきし)は天皇から駅鈴をもらって行き来しました。 駅鈴はいろいろな国にも置かれました。 大切な情報をすばやく中央と地方との間に伝えるために、駅路は直線的なものが多くありました。 集落などとは無関係に造られ、道幅も 6 m を超えていました。 駅には駅舎があり、駅長がいて、給食、宿泊、馬の中継などを行いました。 駅長の下に駅子がいて駅馬をひきました。 駅の維持のため駅田 (えきでん)が大路4町、中路3町、小路2町与えられました。 駅戸がその駅田を耕 (たがや)しました。 駅子は120人から130人ほどでした。
 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資および手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られました。 そして、約30里 (当時の1里は約550 m)ごとに、駅が作られ、駅には、駅馬が置かれました。 日向国では、16の駅が作られました。
日向16駅は、豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。 それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ、という官道 (今の国道。)がありました。
「日向国の駅」は、(豊後路より) 臼杵郡 長井駅 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺駅 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田駅 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰駅 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛駅 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯駅 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨駅 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田駅 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨駅 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁駅 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣駅 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津駅 しまづ 都城市郡元、大隅路へ。 また国府 (西都市)から分岐して国府 (西都市)、諸県郡 亜榔駅 あや 綾町、諸県郡 野後駅 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守駅 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真 駅 まさき えびの市真幸、肥後路へ、というものでした。


写真A: 稚児ヶ池 (ちごがいけ)に行くには丸い黄色の反射板のすぐ先を左に進みます。 日向国府跡に行くには人が見えている道をまっすぐ奥に進みます。 手前の広い車道を右に進むと御船通 (みふねどおり)に行きます。 手前の広い車道を左に進むと西都原古墳群のところに行きます。 この手前に「長千代丸顕徳碑」の石碑 (せきひ)があります。



写真B: 左に稚児ヶ池の水面が見えます。 この奥に進む道が稚児ヶ池の遊歩道です。 2つの車止めが見えます。 手前の車道を右に進むと国府跡に行きます。



写真C: この道を奥に進むと日向国府跡に行きます。



写真D: これが国府跡です。 奥に発掘中 (はっくつちゅう)のブルーシートがいくつか見えます。 手前は茶畑でしたが、切り取って、その後からまた小さな茶の木が伸びてきています。



写真E: 右手が国府跡です。 茶畑でしたが、切り取って、その後からまた小さな茶の木が伸びてきています。 左の方向に稚児ヶ池があります。 国府跡と稚児ヶ池はすぐ近くです。 宮崎県 西都市 大字三宅 です。



写真F: 国府跡と稚児ヶ池のあいだのところの様子 (ようす)です。



写真G: 左の高い木のすぐ奥は稚児ヶ池です。 左端に稚児ヶ池の遊歩道が見えます。



写真H: 稚児ヶ池の水面が光っています。 遊歩道も見えます。 池のそばに建物があります。



写真I: 稚児ヶ池が見えます。 稚児ヶ池の遊歩道の端点 (たんてん)です。 左のガードレールは奥に進むと西都原古墳群、左に進むと御船通に行きます。
稚児ヶ池は下流の水田約 1 ha に水を供給しています。 伝説の法元 (ほうが)長千代丸 (14歳)は志願して溜池 (ためいけ)の堤 (つつみ)が壊れるのを防ぐために人柱 (ひとばしら)になりました。 それ以後、この溜池は稚児ヶ池と呼ばれるようになりました。



写真J: 奥は十字路になっています。 右は稚児ヶ池。 国府跡は手前に進みます。 この十字路の左奥の角 (かど)に「長千代丸顕徳碑」があります。
長千代丸顕徳碑の裏から、
 室町時代に、ここを治めていた伊東の時代に稚児ヶ池の堤(つつみ)は作られました。 しかし豪雨で決壊しました。 ちまたでは、池を作るときに池に住んでいた黒白の大蛇を殺して埋めたので、その祟(たた)りだと言われました。 それを静めるのに、人柱が考えられました。 国分寺から学業を終えて帰る途中の14歳だった長千代丸が捕らえられました。 正長元年(1428年)2月27日、長千代丸は少しも動ぜず、家人に遺言を伝え自刃して哀れにも深く8尺(約2.4 m)に埋められ、永くこの池の守護神として祀(まつ)られています。 人々はこの池を「稚児殿池(ちごんど池)」と呼んでいます。



写真K: この杉林の手前を右に進んで国府跡の発掘現場に行きます。



写真L: 奥に発掘中 (はっくつちゅう)のブルーシート、自動車などが見えます。



写真M: 来た道を振り返ったものです。 杉林が見えます。 奥には稚児ヶ池があります。



写真N: 国府跡です。



写真O: 右に発掘現場のブルーシートがあります。



写真P: 盛 (さか)んに国府跡の発掘が行われています。



写真Q: 発掘現場の測量をする人も見えます。 左右にブルーシートがあります。 ここに日向国の中心の国府 (今の県庁。)がありました。
天皇を中心に、朝廷(ちょうてい)による律令制(りつりょうせい)は7世紀後半(飛鳥時代後期)から10世紀まで実施されました。 奈良時代、日向の国府(今の県庁)は西都市にありました。 今でも、西都市の稚児ヶ池(ちごがいけ)の近くに国府跡が残っています。 その頃の特産品は牛と馬でした。 奈良時代の761年(天平宝字5年)頃(ごろ)の国司(日向守)は安倍黒麻呂でした。 それ以後も多数の人が国司(日向守)を勤(つと)めています。 平安時代の末期は、日向国も国司が赴任しない遥任(ようにん)でしたが、国司の実務は在国司職(ざいこくししき)に委(ゆだ)ねられていました。 在国司職は国衙在庁官人の筆頭です。 日向国の場合は日下部(くさかべ)が世襲していました。 しかし、平家滅亡とともに、文治三年(1187年、鎌倉幕府の始まる5年前)在国司職は日下部から土持信綱(つちもちのぶつな)に移りました。 8世紀前半に日向国から薩摩国、大隅国が独立して、日向国は今の県とほぼ同じ広さ、形になりました。
  駅使 (えきし)は天皇から駅鈴をもらって行き来しました。 駅鈴はいろいろな国にも置かれました。 大切な情報をすばやく中央と地方との間に伝えるために、駅路は直線的なものが多くありました。 集落などとは無関係に造られ、道幅も 6 m を超えていました。 駅には駅舎があり、駅長がいて、給食、宿泊、馬の中継などを行いました。 駅長の下に駅子がいて駅馬をひきました。 駅の維持のため駅田 (えきでん)が大路4町、中路3町、小路2町与えられました。 駅戸がその駅田を耕 (たがや)しました。 駅子は120人から130人ほどでした。
 古代の律令時代 (りつりょうじだい)の頃、中央と地方を結び、物資および手紙の運搬をするために、官道 (今の国道。)が作られました。 そして、約30里 (当時の1里は約550 m)ごとに、駅が作られ、駅には、駅馬が置かれました。 日向国では、16の駅が作られました。
日向16駅は、豊後 (ぶんご、大分県)より、長井、川辺、刈田、美禰 (みね)、去飛 (都農神社)、児湯、国府 (西都市、都萬神社)、当磨、江田、救麻、救仁、水俣、島津 (都城市)、大隅路へ。 それと、国府 (西都市、都萬神社)から分岐 (ぶんき)して、亜榔、野後、夷守 (霧島岑神社 (きりしまみねじんじゃ))、真 (まさき、えびの市)、肥後路へ、という官道 (今の国道。)がありました。
「日向国の駅」は、(豊後路より) 臼杵郡 長井駅 ながい 延岡市北川町長井、臼杵郡 川辺駅 かわのべ 延岡市大貫川辺 (西階児公園)、臼杵郡 刈田駅 かった 門川町刈田(かりでん)(門川中学校)、臼杵郡 美禰駅 みね 日向市美々津町、児湯郡 去飛駅 こひ 都農町福原尾 (都農駅東南)、児湯郡 児湯駅 こゆ 木城町高城、 国府 (西都市)、那珂郡 当磨駅 たいま 宮崎市佐土原町上田島、宮崎郡  田駅 いしだ 宮崎市阿波岐原町 (江田神社)、宮崎郡 救磨駅 くま 宮崎市 熊野、宮崎郡 救仁駅 くに 宮崎市田野、諸県郡 水俣駅 みまた 三股町または都城市山之口町、諸県郡 島津駅 しまづ 都城市郡元、大隅路へ。 また国府 (西都市)から分岐して国府 (西都市)、諸県郡 亜榔駅 あや 綾町、諸県郡 野後駅 のじり 小林市野尻、諸県郡 夷守駅 ひなもり 小林市夷守、諸県郡 真 駅 まさき えびの市真幸、肥後路へ、というものでした。



写真R: 左の車は発掘中の人のもののようです。



写真S: 右は茶畑だったところを切り取ったものです。



写真T: 奥には稚児ヶ池 (ちごがいけ)があります。 ここは日向国府跡です。



写真U: 日向国の国府跡の発掘現場です。 カラーコーンもあります。



写真V: 左に稚児ヶ池 (ちごがいけ)があります。 ここは稚児ヶ池の遊歩道です。 新しい遊歩道です。 左に鳥の頭と首が付いているペダルボート (ベダルをこいで進むボートです。)が多く見えます。 建物もあります。 宮崎県 西都市 大字三宅 です。



写真W: 稚児ヶ池の遊歩道から尾鈴山 (標高 1405.2 m)、鹿遊連山 (かなすみれんざん)、大瀬内山 (標高 978.6 m)などが見えます。 右の家の左の山が尾鈴山です。 北を見たものです。



写真X: 奥に展望所が見えてきました。 左に稚児ヶ池の水面、遊歩道があります。 右に新しく木を植えてあります。 稚児ヶ池公園です。



写真Y: 稚児ヶ池の展望所です。 手すりもあります。 新しく出来たものです。 奥の対岸に団地 (市営稚児ヶ池住宅)があります。 左端に稚児ヶ池の水鳥が泳いでいます。



写真Z: 稚児ヶ池の展望所には座 (すわ)る場所もあります。 右奥に車道のガードレールが見えます。



写真AA: 稚児ヶ池の水面に水鳥が見えます。 対岸に団地 (市営稚児ヶ池住宅)があります。 その奥には西都原古墳群があります。 手前は展望所の手すりです。



写真AB: 稚児ヶ池の展望所と遊歩道です。 新しく木を植えてあります。 尾鈴連山が見えます。 北を見たものです。



写真AC: 遊歩道のそばに溝 (みぞ)があります。 新しく植えた木も見えます。



写真AD: 稚児ヶ池の水鳥が多く見えます。 稚児ヶ池公園です。 右奥から逢初川 (あいぞめがわ)が稚児ヶ池に流れ込 (こ)んでいます。



写真AE: 稚児ヶ池の浅瀬 (あさせ)や水面にいろいろな水鳥がいます。 奥に葦 (あし)も生 (は)えています。 稚児ヶ池公園です。



写真AF: 宮崎県 西都市 大字三宅にある稚児ヶ池 (ちごがいけ)の遊歩道です。 北を見たものです。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)