有喜橋、南九州自動車教習所、日章学園、伊東と島津の浮橋の戦いの古戦場跡 (漫々橋 (びたびたはし)の戦い (浮橋の戦い)) (ヒタヒタ橋、稲津牛之助、稲津掃部助、浮橋のチゴどん伝説、有喜橋 (うきはし)の北端にある「川の中央より北 広瀬、明治40年10月」と書いてある石柱、うき橋、浮橋、飫肥街道 (おびかいどう)、石崎川、浮橋自治公民館 (球状の石)、トヨタ部品宮崎共販株式会社、ビーライン宮崎株式会社 (タイヤ店)、住吉小学校、宮崎日本大学学園 宮崎日大中学校・高等学校、宮崎市立 住吉中学校)  (宮崎県 宮崎市 佐土原町 大字下那珂、大字広原、大字島之内)







<標高、位置>  石崎川にある国道219号の「有喜橋 (うきはし)」は
標高 約10 m
 北緯32度00分15秒  東経131度26分34秒

<標高、位置>  浮橋自治公民館は
標高 約10 m
 北緯32度00分18秒  東経131度26分35秒

<標高、位置>  住吉小学校は
標高 約10 m
 北緯31度59分04秒  東経131度26分26秒

<標高、位置>  羽佐間簡易郵便局は
標高 約10 m
 北緯31度59分50秒  東経131度26分23秒

<標高、位置>  日章学園 高等学校は
標高 約10 m
 北緯32度00分06秒  東経131度26分27秒


 「有喜橋 (うきはし)」は国道219号の石崎川にかかっている橋で、宮崎県 宮崎市 佐土原町 大字下那珂 字浮橋にあります。 有喜橋は昔は浮橋あるいは漫々橋 (びたびたはし)、ヒタヒタ橋と呼ばれていました。 紐 (ひも)でつないだ筏 (いかだ)の橋でした。 上を渡るときに水がヒタヒタと隙間 (すきま)から出てくることからヒタヒタ橋とも呼ばれました。 戦いのときには紐 (ひも)を切って渡れなくしました。 島津と伊東の戦いのときに筏 (いかだ)の紐を島津側が切りました。 そのときに伊東側に立派な馬にまたがる美少年 (美少年はチゴどんと地元では呼ばれていました。)がいたという「チゴどん伝説」が浮橋の伝説として伝わっています。
有喜橋は古戦場跡 (島津と伊東の漫々橋 (びたびたはし)の戦い (浮橋の戦い))です。 関ヶ原の戦いの直後に伊東と島津の戦いが宮崎市とその周辺でありました。 1600年 (慶長5年)10月11日佐土原勢 (島津)は佐土原から来て村角 (宮崎市)を焼いて退きました。 12日多くの佐土原勢が下別府 (宮崎市)を襲いました。 伊東側は防戦しましたが、3人が討ち死にしました。 16日宮崎城の伊東側 (稲津掃部助 (いなづかもんのすけ))が新名爪に来て3か所に伏兵を置き、佐土原勢を奇襲して損害を与えました。 稲津掃部助は綾・八代・倉岡に佐土原の兵が集結して宮崎城を攻めるとの情報で、瓜生野に進軍してそこで島津軍を破りました。 このときに佐土原勢は宮崎城を攻める役割でありましたが、佐土原勢は瓜生野での敗戦を知らずに宮崎城に迫 (せま)りました。 宮崎城は少数の兵で稲津掃部助が本丸、稲津又二郎が二の丸を守り、鉄砲を撃ちました。 瓜生野から引き返して来た伊東勢が奈古山 (現在も奈古神社がある小山です。)に旗を立てると、これを見た佐土原勢は帰路を断 (た)たれると思い退却しました。 稲津牛之助が率 (ひき)いる伊東勢はそれを追撃し佐土原城下の十二坊まで攻め込みました。 安井相右衛門などは夜暗いうちに早く退くことを進言しましたが、稲津牛之助は聞き入れませんでした。 伊東兵の多くは民家に乱入して分捕 (ぶんど)った酒を飲んだり、食べたりしました。 佐土原勢は伊東勢の油断を突いて反撃に移りました。 伊東勢は慌 (あわ)てて退却、明け方に石崎川の漫々橋 (びたびたはし、これが今の有喜橋 (浮橋)の所の橋です。)に追い詰 (つ)められました。 伊東の12人が殿 (しんがり、軍隊を引き上げる際、最後尾にあって、追ってくる敵を防ぐこと。)となり、防戦するあいだに石崎川を渡りますが佐土原勢の追撃はますます激しくなり12人が危 (あや)うくなるのを見て、6人の武将と20人の下級兵が近くの林に旗を立て、佐土原勢に突撃して反撃しました。 佐土原勢は伊東側の援軍が来たと思って佐土原に退却しました。 この伊東側の武勇は後に飫肥 (おび)では「漫々橋 (びたびたはし)の6本槍 (やり)」といって有名になりました。

 佐土原周辺の荘園は、広原庄100町 、那珂庄200町、袋庄(広瀬)15町、田島庄90町、佐土原庄15町でした。
 古代から中世にかけて、住吉は大分県の宇佐八幡宮の荘園として開発されました。 広原から島之内、塩路までの地域は広原庄、芳士を中心とする地域は新名爪別府にそれぞれ含まれました。 近世初期は、広原村・塩路村・新名爪村として佐土原藩領となりました。

 「飫肥街道 (おびかいどう)」は浮橋 (現在は有喜橋)を通っていました。 近くでは、宮崎市の源藤 (これからは延岡領です。)、中村、上野、江平、花ケ島、新名爪 (ここからは佐土原領です。)、浮橋 (現在は有喜橋)、一里松、黒田、岩見堂、野久尾 (ここから山を登ります。)、愛宕神社 (あたごじんじゃ)のそばを通って佐土原城下に入ります。
古道 「佐土原城と飫肥城(おびじょう)を結ぶ街道」がありました。 飫肥藩主が参勤交代で細島港から船出するときには、佐土原、高鍋の城下を通って細島に向かいました。 清武を出発した飫肥藩主は、野首口の手前から山道に入り、愛宕神社の山道を横切って一ッ瀬川の渡し場に向かいました。 この道を飫肥街道と言います。 登り切ったところに茶屋があり、一休みできたそうです。 佐土原人形などもこの道を通って運ばれました。
「飫肥街道 (おびかいどう)」は江戸時代より前は戦略的な目的の道でした。 伊東48城を造った伊東義祐が本城である都於郡城(とのこおりじょう、西都市)と飫肥城(おびじょう)を結ぶ戦略的な道として約400年前(天正(1573~1592年)から慶長年間(1596~1615年))に建設しました。 江戸時代になってからは飫肥藩の主要道路として、飫肥城と清武郷の間の人や物資の移動に役立ちました。 また、江戸時代、飫肥藩主が参勤交代の時に、飫肥城、花立山、山仮屋の関所、椿山(つばきやま)、清武地頭所(ここで1泊)、佐土原、一ツ瀬川を越えて、高鍋、細島港、大阪(細島~大阪は船で)、江戸のコースを使いました。 椿山には「殿様道路」として飫肥街道が案内してあり、安井息軒の家の前を通り、住吉 広原の浮橋(有喜橋)、那珂の夜泣橋、佐土原の愛宕神社の階段の下を通る古道が飫肥街道です。

 「浮橋自治公民館」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 大字下那珂 字浮橋 にあります。

 「南九州自動車教習所」は宮崎県 宮崎市 大字島之内 字古川 3535番地2 にあります。

 「日章学園 日章学園高等学校」は宮崎県 宮崎市 大字広原 836番地 にあります。
日章学園中学校・高等学校は1950年宮崎高等会計学院として宮崎市丸島町に設置されました。

 「トヨタ部品宮崎共販株式会社」は宮崎県 宮崎市 大字広原 字向後 741番地 にあります。

 「ビーライン宮崎株式会社 (タイヤ店)」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 大字下那珂 7671-1 にあります。

 「宮崎市立 住吉小学校」は宮崎県 宮崎市 大字島之内 5383番地 にあります。
宮崎市立 住吉小学校は1875年に設立されました。

 「宮崎市立 住吉中学校」は宮崎県 宮崎市 大字島之内 7608 にあります。
宮崎市立 住吉中学校は1947年5月8日に設立されました。

 「宮崎日本大学学園 宮崎日大中学校・高等学校」は宮崎県 宮崎市 大字島之内 6822-2 にあります。
宮崎日本大学中学校・高等学校は1963年 (昭和38年)に設立されました。


写真A: 国道219号です。 右は宮崎市立 住吉小学校、左は招魂山です。 北を見たものです。



写真B: 門と校舎に「宮崎市立 住吉小学校」と書いてあります。 門前にプランターの花が見えます。 北東を見たものです。
「宮崎市立 住吉小学校」は宮崎県 宮崎市 大字島之内 5383番地 にあります。
宮崎市立 住吉小学校は1875年に設立されました。



写真C: 国道219号です。 先 (北)に進むと西都市などに行きます。 手前に進むと宮崎市 花ケ島町などに行きます。



写真D: 右に住吉小学校の体育館があります。



写真E: 東を見たものです。



写真F: 住吉小学校の校舎、国道219号などが見えます。 北東を見たものです。



写真G: 北を見たものです。



写真H: バス停「住吉学校前 宮崎交通」があります。 右は住吉小学校の敷地です。 花も見えます。



写真I: バス停「住吉学校前 宮崎交通」のそばのベンチです。 北を見たものです。



写真J: 南を見たものです。 フェンスに「宮崎市立 住吉小学校」と書いてあります。 右はバス停「住吉学校前 宮崎交通」です。



写真K: 左に宮崎日本大学学園 宮崎日大中学校・高等学校が見えます。
これは宮崎県 宮崎市 大字島之内 6822-2 にあります。



写真L: 東を見たものです。 農業用ビニールハウスが多くあります。 中央は宮崎日本大学学園、右は住吉小学校です。



写真M: 宮崎日本大学学園 宮崎日大中学校・高等学校が見えます。
宮崎県 宮崎市 大字島之内 6822-2 にあります。
宮崎日本大学中学校・高等学校は1963年 (昭和38年)に設立されました。



写真N: 東北東を見たものです。 手前は国道219号です。



写真O: 中央遠くに宮崎市立 住吉中学校が見えます。 北東を見たものです。
宮崎市立 住吉中学校は宮崎県 宮崎市 大字島之内 7608 にあります。
宮崎市立 住吉中学校は1947年5月8日に設立されました。



写真P: 北東を見たものです。 農業用ビニールハウスが多くあります。



写真Q: 国道219号の左 (西)にも農業用ビニールハウスがあります。



写真R: 北西を見たものです。 山があります。



写真S: 西を見たものです。



写真T: 南西を見たものです。 左上は招魂山の上の木です。



写真U: 奥は招魂山です。 バス停「住吉学校前 宮崎交通」があります。 南を見たものです。



写真V: 南を見たものです。 左は住吉小学校です。



写真W: 田園風景が広がっています。 北東を見たものです。 国道219号の脇 (わき)にウツギ (卯 (う)の花が咲きます。)を並 (なら)んで植えてあります。



写真X: 手前はウツギの木です。 中央奥に住吉中学校が見えます。
「宮崎市立 住吉中学校」は宮崎県 宮崎市 大字島之内 7608 にあります。
宮崎市立 住吉中学校は1947年5月8日に設立されました。



写真Y: 農業用ビニールハウスの奥に青い屋根の「佐伯青果」の建物が見えます。 ピーマンなどの集荷場です。 携帯電話の基地局アンテナが見えます。 北東を見たものです。



写真Z: 中央左寄りに、宮崎市 佐土原町にある久峰総合公園の山の上の高いアンテナが見えます。 北北東を見たものです。 手前は国道219号です。



写真AA: 国道219号です。



写真AB: ガソリンスタンドがあります。 「創業70周年」と書いてあります。 北を見たものです。



写真AC: 西の山に崖 (がけ)くずれの補修工事の跡が見えます。 孟宗竹 (もうそうだけ)の竹林が見えます。



写真AD: 左手前は田んぼです。



写真AE: 国道219号沿 (ぞ)いのガソリンスタンドです。



写真AF: 「直売→、とれたて いちご 地方発送いたします。 なかしま農園→」の看板 (かんばん)があります。 北を見たものです。 奥に「お食事処 味ふじ」と書いてある看板 (かんばん)が見えます。



写真AG: 「いちご」のなかしま農園の建物とビニールハウスがあります。 東を見たものです。



写真AH: 「お食事処 味ふじ、宴会 (えんかい)・オードブル・ご予約承 (うけたまわ)ります」と書いてある看板 (かんばん)があります。 北を見たものです。



写真AI: 石材店があります。 手前は国道219号です。



写真AJ: 真鍋歯科です。



写真AK: 「真鍋歯科」と書いてあります。 奥にコンビニ店があります。 北を見たものです。



写真AL: コンビニ店のローソンがあります。



写真AM: コンビニ店のLAWSONです。



写真AN: 「LAWSON STATION」、「酒・たばこ」、「銀行ATM」と書いてあります。 奥にガソリンスタンドがあります。 右にトヨタ部品宮崎共販が見えます。



写真AO: トヨタ部品宮崎共販です。



写真AP: 「TOYOTA 純正部品」、「トヨタ部品宮崎共販」の看板 (かんばん)もあります。
「トヨタ部品宮崎共販株式会社」は宮崎県 宮崎市 大字広原 字向後 741番地 にあります。



写真AQ: トヨタ部品宮崎共販です。



写真AR: 東を見たものです。 門があります。



写真AS: 手前は国道219号です。



写真AT: 左はガソリンスタンド、右はトヨタ部品宮崎共販です。



写真AU: 早期水稲の田んぼに水を入れてあります。 西を見たものです。



写真AV: バス停「広原 宮崎交通」があります。 北を見たものです。
佐土原周辺の荘園は、広原庄100町 、那珂庄200町、袋庄(広瀬)15町、田島庄90町、佐土原庄15町でした。
 古代から中世にかけて、住吉は大分県の宇佐八幡宮の荘園として開発されました。 広原から島之内、塩路までの地域は広原庄、芳士を中心とする地域は新名爪別府にそれぞれ含まれました。 近世初期は、広原村・塩路村・新名爪村として佐土原藩領となりました。



写真AW: 広原の十字路です。 羽佐間簡易郵便局の看板 (かんばん)が見えます。 左に羽佐間簡易郵便局があります。
佐土原周辺の荘園は、広原庄100町 、那珂庄200町、袋庄(広瀬)15町、田島庄90町、佐土原庄15町でした。
 古代から中世にかけて、住吉は大分県の宇佐八幡宮の荘園として開発されました。 広原から島之内、塩路までの地域は広原庄、芳士を中心とする地域は新名爪別府にそれぞれ含まれました。 近世初期は、広原村・塩路村・新名爪村として佐土原藩領となりました。



写真AX: 広原の交差点です。 北東を見たものです。



写真AY: コンビニ店と日章学園が見えます。



写真AZ: コンビニ店の「セブンイレブン」、「ATM、酒、たばこ」と書いてある看板 (かんばん)があります。 奥は日章学園です。



写真BA: 国道219号の西側です。



写真BB: コンビニ店のセブンイレブンです。 日章学園の高いワシントン椰子 (やし)があります。



写真BC: コンビニ店のセブンイレブンです。



写真BD: 「日章学園 日章学園高等学校」は宮崎県 宮崎市 大字広原 836番地 にあります。
「祝 優勝・・・」などの看板 (かんばん)があります。 右は国道219号です。
日章学園中学校・高等学校は1950年宮崎高等会計学院として宮崎市丸島町に設置されました。



写真BE: 西を見たものです。 右は日章学園です。



写真BF: 左はコンビニ店のセブンイレブンです。 日章学園の高いワシントン椰子 (やし)があります。 西を見たものです。



写真BG: コンビニ店です。



写真BH: 「日章学園中学校 創立10周年 2014年」と書いてあります。



写真BI: 「NISSHO GAKUEN JUNIOR・SENIOR HIGH SCHOOL」と書いてあります。 左に「甲子園出場記念」の石碑 (せきひ)があります。



写真BJ: 「甲子園出場記念」の石碑 (せきひ)があります。



写真BK: 「日章学園中学校」と校舎の上に書いてあります。



写真BL: 南を見たものです。 右は日章学園です。



写真BM: 南九州自動車教習所で自動車の教習が行われていました。
「南九州自動車教習所」は宮崎県 宮崎市 大字島之内 字古川 3535番地2 にあります。



写真BN: バス停「日章学園 宮崎交通」があります。 北を見たものです。 左は日章学園です。



写真BO: 「剛志館 ボクシングセンター」と建物に書いてあります。 日章学園。 北西を見たものです。



写真BP: 「TOYO TIRES」と書いてある看板 (かんばん)もあります。 左は日章学園です。



写真BQ: 「U-CAR FOR SALE」、「SUNWORKS」の看板 (かんばん)もあります。 左端は三叉路 (さんさろ)です。 北東を見たものです。



写真BR: ここは三叉路 (さんさろ)です。 北を見たものです。



写真BS: 小さな公園のようなものが見えます。 「中島地区 ふれあい花壇 (かだん)」です。 西を見たものです。



写真BT: 「中島地区 ふれあい花壇 (かだん)」です。 子供の石像、テーブル、花壇 (かだん)があります。 右にペットボトルの風車が並んでいます。



写真BU: 「中島地区 ふれあい花壇 (かだん)」です。



写真BV: 子供の石像があります。



写真BW: バス停「有喜橋 (うきはし) 宮崎交通」があります。 奥に石崎川にかかっている国道219号の有喜橋が見えます。 北を見たものです。



写真BX: 国道219号です。 石崎川の有喜橋の両側に歩道があります。 北を見たものです。
「有喜橋 (うきはし)」は国道219号の石崎川にかかっている橋で、宮崎県 宮崎市 佐土原町 大字下那珂 字浮橋にあります。 有喜橋は昔は浮橋あるいは漫々橋 (びたびたはし)、ヒタヒタ橋と呼ばれていました。 紐 (ひも)でつないだ筏 (いかだ)の橋でした。 上を渡るときに水がヒタヒタと隙間 (すきま)から出てくることからヒタヒタ橋とも呼ばれました。 戦いのときには紐 (ひも)を切って渡れなくしました。 島津と伊東の戦いのときに筏 (いかだ)の紐を島津側が切りました。 そのときに伊東側に立派な馬にまたがる美少年 (美少年はチゴどんと地元では呼ばれていました。)がいたという「チゴどん伝説」が浮橋の伝説として伝わっています。
有喜橋は古戦場跡 (島津と伊東の漫々橋 (びたびたはし)の戦い (浮橋の戦い))です。 関ヶ原の戦いの直後に伊東と島津の戦いが宮崎市とその周辺でありました。 1600年 (慶長5年)10月11日佐土原勢 (島津)は佐土原から来て村角 (宮崎市)を焼いて退きました。 12日多くの佐土原勢が下別府 (宮崎市)を襲いました。 伊東側は防戦しましたが、3人が討ち死にしました。 16日宮崎城の伊東側 (稲津掃部助 (いなづかもんのすけ))が新名爪に来て3か所に伏兵を置き、佐土原勢を奇襲して損害を与えました。 稲津掃部助は綾・八代・倉岡に佐土原の兵が集結して宮崎城を攻めるとの情報で、瓜生野に進軍してそこで島津軍を破りました。 このときに佐土原勢は宮崎城を攻める役割でありましたが、佐土原勢は瓜生野での敗戦を知らずに宮崎城に迫 (せま)りました。 宮崎城は少数の兵で稲津掃部助が本丸、稲津又二郎が二の丸を守り、鉄砲を撃ちました。 瓜生野から引き返して来た伊東勢が奈古山 (現在も奈古神社がある小山です。)に旗を立てると、これを見た佐土原勢は帰路を断 (た)たれると思い退却しました。 稲津牛之助が率 (ひき)いる伊東勢はそれを追撃し佐土原城下の十二坊まで攻め込みました。 安井相右衛門などは夜暗いうちに早く退くことを進言しましたが、稲津牛之助は聞き入れませんでした。 伊東兵の多くは民家に乱入して分捕 (ぶんど)った酒を飲んだり、食べたりしました。 佐土原勢は伊東勢の油断を突いて反撃に移りました。 伊東勢は慌 (あわ)てて退却、明け方に石崎川の漫々橋 (びたびたはし、これが今の有喜橋 (浮橋)の所の橋です。)に追い詰 (つ)められました。 伊東の12人が殿 (しんがり、軍隊を引き上げる際、最後尾にあって、追ってくる敵を防ぐこと。)となり、防戦するあいだに石崎川を渡りますが佐土原勢の追撃はますます激しくなり12人が危 (あや)うくなるのを見て、6人の武将と20人の下級兵が近くの林に旗を立て、佐土原勢に突撃して反撃しました。 佐土原勢は伊東側の援軍が来たと思って佐土原に退却しました。 この伊東側の武勇は後に飫肥 (おび)では「漫々橋 (びたびたはし)の6本槍 (やり)」といって有名になりました。



写真BY: 「うきはし」と橋に書いてあります。



写真BZ: 石崎川の下流側の水面が見えます。



写真CA: 有喜橋 (うきはし)の上をトラック、乗用車が通っています。



写真CB: 有喜橋の西側の歩道です。



写真CC: 「竣工 (完成すること。) 昭和62年11月」と橋に書いてあります。



写真CD: 有喜橋の南端で東を見たものです。



写真CE: 「有喜橋 (うきはし)」は国道219号の石崎川にかかっている橋で、宮崎県 宮崎市 佐土原町 大字下那珂 字浮橋にあります。



写真CF: 有喜橋の橋脚が見えます。
「飫肥街道 (おびかいどう)」は浮橋 (現在は有喜橋)を通っていました。 近くでは、宮崎市の源藤 (これからは延岡領です。)、中村、上野、江平、花ケ島、新名爪 (ここからは佐土原領です。)、浮橋 (現在は有喜橋)、一里松、黒田、岩見堂、野久尾 (ここから山を登ります。)、愛宕神社 (あたごじんじゃ)のそばを通って佐土原城下に入ります。
古道 「佐土原城と飫肥城(おびじょう)を結ぶ街道」がありました。 飫肥藩主が参勤交代で細島港から船出するときには、佐土原、高鍋の城下を通って細島に向かいました。 清武を出発した飫肥藩主は、野首口の手前から山道に入り、愛宕神社の山道を横切って一ッ瀬川の渡し場に向かいました。 この道を飫肥街道と言います。 登り切ったところに茶屋があり、一休みできたそうです。 佐土原人形などもこの道を通って運ばれました。
「飫肥街道 (おびかいどう)」は江戸時代より前は戦略的な目的の道でした。 伊東48城を造った伊東義祐が本城である都於郡城(とのこおりじょう、西都市)と飫肥城(おびじょう)を結ぶ戦略的な道として約400年前(天正(1573~1592年)から慶長年間(1596~1615年))に建設しました。 江戸時代になってからは飫肥藩の主要道路として、飫肥城と清武郷の間の人や物資の移動に役立ちました。 また、江戸時代、飫肥藩主が参勤交代の時に、飫肥城、花立山、山仮屋の関所、椿山(つばきやま)、清武地頭所(ここで1泊)、佐土原、一ツ瀬川を越えて、高鍋、細島港、大阪(細島~大阪は船で)、江戸のコースを使いました。 椿山には「殿様道路」として飫肥街道が案内してあり、安井息軒の家の前を通り、住吉 広原の浮橋(有喜橋)、那珂の夜泣橋、佐土原の愛宕神社の階段の下を通る古道が飫肥街道です。



写真CG: 有喜橋の上流方向です。 支流との合流地点が見えます。 左に別の橋が見えます。 西を見たものです。



写真CH: 西を見たものです。 奥に別の橋が見えます。



写真CI: 「石崎川をよごさないで!、川はみんなの財産です。 きれいな石崎川を、よみがえらせよう 石崎川水系環境保全対策連絡協議会」と書いてある看板 (かんばん)が土手にあります。



写真CJ: 石崎川の土手の道です。 奥に鉄筋コンクリートの建物が見えます。 別の橋があります。 西を見たものです。



写真CK: ここが支流との合流地点です。



写真CL: 有喜橋の少し上流の方の様子 (ようす)です。



写真CM: 上流 (西)から見た有喜橋です。 北東を見たものです。



写真CN: 「有喜橋 (うきはし)」は国道219号の石崎川にかかっている橋で、宮崎県 宮崎市 佐土原町 大字下那珂 字浮橋にあります。



写真CO: 東を見たものです。



写真CP: 石崎川の土手です。



写真CQ: 「うきはし」と橋に書いてあります。



写真CR: 有喜橋の歩道です。 北を見たものです。



写真CS: 有喜橋の南端の土手を東に少し進んだ所です。 石崎川に支流が流れ込 (こ)んでいます。



写真CT: 杉の木があります。



写真CU: 石崎川と右は支流です。 下流 (東)を見たものです。 椿 (つばき)の木が土手にあります。



写真CV: 有喜橋の下流側の風景です。 右に支流が見えます。



写真CW: 北を見たものです。 堤防は護岸が施 (ほどこ)されています。 北岸の堤防の上の自動車が見えます。



写真CX: このあたりの石崎川の川底の様子 (ようす)が分かります。



写真CY: 下流側から見た有喜橋です。



写真CZ: 有喜橋 (うきはし)の全景です。 西を見たものです。
「有喜橋 (うきはし)」は国道219号の石崎川にかかっている橋で、宮崎県 宮崎市 佐土原町 大字下那珂 字浮橋にあります。 有喜橋は昔は浮橋あるいは漫々橋 (びたびたはし)、ヒタヒタ橋と呼ばれていました。 紐 (ひも)でつないだ筏 (いかだ)の橋でした。 上を渡るときに水がヒタヒタと隙間 (すきま)から出てくることからヒタヒタ橋とも呼ばれました。 戦いのときには紐 (ひも)を切って渡れなくしました。 島津と伊東の戦いのときに筏 (いかだ)の紐を島津側が切りました。 そのときに伊東側に立派な馬にまたがる美少年 (美少年はチゴどんと地元では呼ばれていました。)がいたという「チゴどん伝説」が浮橋の伝説として伝わっています。
有喜橋は古戦場跡 (島津と伊東の漫々橋 (びたびたはし)の戦い (浮橋の戦い))です。 関ヶ原の戦いの直後に伊東と島津の戦いが宮崎市とその周辺でありました。 1600年 (慶長5年)10月11日佐土原勢 (島津)は佐土原から来て村角 (宮崎市)を焼いて退きました。 12日多くの佐土原勢が下別府 (宮崎市)を襲いました。 伊東側は防戦しましたが、3人が討ち死にしました。 16日宮崎城の伊東側 (稲津掃部助 (いなづかもんのすけ))が新名爪に来て3か所に伏兵を置き、佐土原勢を奇襲して損害を与えました。 稲津掃部助は綾・八代・倉岡に佐土原の兵が集結して宮崎城を攻めるとの情報で、瓜生野に進軍してそこで島津軍を破りました。 このときに佐土原勢は宮崎城を攻める役割でありましたが、佐土原勢は瓜生野での敗戦を知らずに宮崎城に迫 (せま)りました。 宮崎城は少数の兵で稲津掃部助が本丸、稲津又二郎が二の丸を守り、鉄砲を撃ちました。 瓜生野から引き返して来た伊東勢が奈古山 (現在も奈古神社がある小山です。)に旗を立てると、これを見た佐土原勢は帰路を断 (た)たれると思い退却しました。 稲津牛之助が率 (ひき)いる伊東勢はそれを追撃し佐土原城下の十二坊まで攻め込みました。 安井相右衛門などは夜暗いうちに早く退くことを進言しましたが、稲津牛之助は聞き入れませんでした。 伊東兵の多くは民家に乱入して分捕 (ぶんど)った酒を飲んだり、食べたりしました。 佐土原勢は伊東勢の油断を突いて反撃に移りました。 伊東勢は慌 (あわ)てて退却、明け方に石崎川の漫々橋 (びたびたはし、これが今の有喜橋 (浮橋)の所の橋です。)に追い詰 (つ)められました。 伊東の12人が殿 (しんがり、軍隊を引き上げる際、最後尾にあって、追ってくる敵を防ぐこと。)となり、防戦するあいだに石崎川を渡りますが佐土原勢の追撃はますます激しくなり12人が危 (あや)うくなるのを見て、6人の武将と20人の下級兵が近くの林に旗を立て、佐土原勢に突撃して反撃しました。 佐土原勢は伊東側の援軍が来たと思って佐土原に退却しました。 この伊東側の武勇は後に飫肥 (おび)では「漫々橋 (びたびたはし)の6本槍 (やり)」といって有名になりました。



写真DA: 土手の様子 (ようす)です。 西を見たものです。



写真DB: 下流側から見た有喜橋の北端です。 橋脚も見えます。



写真DC: 国道219号にある石崎川の有喜橋 (うきはし)です。 西を見たものです。



写真DD: 有喜橋の南端です。



写真DE: 野草の「オオイヌノフグリの花」が咲いていました。



写真DF: 土手と有喜橋の南端です。



写真DG: 有喜橋の歩道を北へ渡 (わた)ります。



写真DH: 橋の上から石崎川の下流側 (東)を見た景色です。



写真DI: 下流側 (東)に別の橋が見えます。 右に携帯電話の基地局アンテナが2本見えます。



写真DJ: 有喜橋から上流側 (西)を見たものです。 別の橋が見えます。



写真DK: 有喜橋の北端付近の様子 (ようす)です。 歩道は橋の両側にあります。 郵便局の赤い配達バイクが見えます。



写真DL: 「石崎川」と橋に書いてあります。 左に明治時代の石柱が見えます。



写真DM: 北岸の下流方向の堤防は舗装 (ほそう)されています。



写真DN: 橋の北端から見た石崎川の有喜橋 (うきはし)です。



写真DO: 「有喜橋」と橋に書いてあります。



写真DP: 上流方向の北岸の堤防です。



写真DQ: 左岸 (下流を見て左。)から見た石崎川の風景です。 南西を見たものです。



写真DR: 対岸 (南)の堤防の様子 (ようす)がよく分かります。 堤防にある階段も見えます。



写真DS: 有喜橋の下の水面が見えます。



写真DT: 国道219号にある石崎川の有喜橋です。 北端です。



写真DU: 橋の北端から東を見たものです。



写真DV: 国道219号です。



写真DW: 国道219号を乗用車が走っています。



写真DX: 国道219号を北へ進みます。 左は浮橋自治公民館です。



写真DY: 浮橋自治公民館があります。
「浮橋自治公民館」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 大字下那珂 字浮橋 にあります。



写真DZ: 高い柱の上にスピーカー、アンテナなどがあります。 浮橋自治公民館です。



写真EA: 「ようこそ歴史と文化の町 佐土原町へ、Welcome to SADOWARA TOWN」の大きな看板 (かんばん)があります。



写真EB: 宮崎市 佐土原町 大字下那珂 字浮橋 にある浮橋自治公民館です。
佐土原周辺の荘園は、広原庄100町 、那珂庄200町、袋庄(広瀬)15町、田島庄90町、佐土原庄15町でした。



写真EC: 浮橋自治公民館。



写真ED: 浮橋自治公民館に高いポールがあり、スピーカーやアンテナが付いています。 南を見たものです。



写真EE: 浮橋自治公民館の入り口です。 「ようこそ歴史と文化の町 佐土原町へ、Welcome to SADOWARA TOWN」の大きな看板 (かんばん)の裏も見えます。 南を見たものです。



写真EF: 浮橋自治公民館の掲示板 (けいじばん)です。 「那珂 (なか)」と書いてあるパンフレットもあります。 浮橋自治公民館は下那珂にあります。



写真EG: 「浮橋自治公民館」と書いてあります。 「この地点は海抜9.1 m です。 広瀬西小学校区地域づくり協議会」と書いてあります。



写真EH: 浮橋自治公民館に「球形の石」が置かれています。 これは天然のもので田野町から持ってきたものだそうです。 甌穴 (おうけつ)の丸い石 (転石)と思われます。 川で大きな岩のくぼみに入った小石、礫(れき)、砂が、水流ですりこぎのように回って、長い年月の間に、丸い大きな穴を作ります。 これを甌穴(おうけつ)と呼びます。 この穴の中に球形の石 (転石)があることがあります。 宮崎県 日向市にある大御神社(おおみじんじゃ)のドラゴンボール (龍玉)も甌穴 (おうけつ)と転石だと思われます。



写真EI: 国道219号沿 (ぞ)いにログハウスの展示と思われるものがあります。



写真EJ: 居酒屋の「うきはし」と書いてある看板 (かんばん)があります。 北を見たものです。 左はログハウスです。



写真EK: 「(有) 岡林フェンダー」と書いてあります。 「車検、板金、塗装」と書いてあります。 自動車修理工場です。



写真EL: 「居酒屋 うきはし」と書いてあります。


写真EM: 右に生コン工場が見えます。 国道219号です。 北を見たものです。



写真EN: 国道219号。



写真EO: 「あさひ生コン (株)」と工場に書いてあります。



写真EP: 「南九州マツダ mazda」です。 マツダ部品 南九州販売 宮崎支店です。



写真EQ: 左にマツダ (自動車)の看板 (かんばん)、右に「あさひ生コン」があります。



写真ER: 「あさひ生コン」の工場です。 手前は国道219号です。



写真ES: 右はあさひ生コン、左は「農機」と書いてあります。



写真ET: 「あさひ生コン、宇部三菱セメント」と書いてあります。



写真EU: あさひ生コン工場です。



写真EV: あさひ生コン工場の入り口付近です。



写真EW: 右はあさひ生コン工場です。



写真EX: 「ビーライン宮崎株式会社 (タイヤ店)」。 宮崎県 宮崎市 佐土原町 大字下那珂 7671-1 にあります。
「BEE LINE CORP」、「タイヤ 安いのは ココ!」 「←IN」と書いてあります。



写真EY: タイヤ店のビーラインです。



写真EZ: 左はタイヤ店のビーライン、奥はあさひ生コンです。 南東を見たものです。



写真FA: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 南を見たものです。



写真FB: 「戸敷開発 株式会社、土木工事一式・舗装工事」と書いてあります。



写真FC: 「カット & パーマ かねまる」です。 「花嫁 顔剃 (そ)り致します。」と書いてあります。



写真FD: 「カット & パーマ かねまる」と書いてあります。



写真FE: 「土筆 (つくし)」がありました。



写真FF: タイヤ店のビーラインです。



写真FG: 国道219号です。



写真FH: 大きなトランスが電柱にあります。 奥に携帯電話の基地局アンテナが2本見えます。 東を見たものです。



写真FI: バス停「一里松 宮崎交通」があります。 奥は三叉路 (さんさろ)になっています。 北を見たものです。



写真FJ: 反対側のバス停「一里松 宮崎交通」が見えます。



写真FK: ここは三叉路 (さんさろ)になっています。



写真FL: 宮崎市 佐土原町 下那珂 一里松の三叉路 (さんさろ)です。 中央の建物は元はガソリンスタンドだったようです。 ココス椰子 (やし)があります。
佐土原周辺の荘園は、広原庄100町 、那珂庄200町、袋庄(広瀬)15町、田島庄90町、佐土原庄15町でした。



写真FM: 国道219号は左の道です。



写真FN: 「キズイセンの花」が咲いていました。



写真FO: 「国道 219 ROUTE」、「佐土原町 黒田」の道路標識があります。 左奥にゴルフ練習場のネットが見えます。



写真FP: ゴルフ練習場のネットが見えます。 北を見たものです。



写真FQ: 下那珂や東上那珂の店、工場などの地図があります。



写真FR: このあたりの店、工場などの地図です。



写真FS: バス停「一里松 宮崎交通」です。 ベンチと飲料水の自動販売機もあります。



写真FT: ここは三叉路 (さんさろ)になっています。 南を見たものです。



写真FU: Coca-Cola (コカ・コーラ)を飲みました。



写真FV: 「ウンナンオウバイの花」が咲いていました。



写真FW: 奥は有喜橋です。 南を見たものです。



写真FX: 有喜橋 (うきはし)の北端に明治時代の石柱があります。



写真FY: 「川の中央より北 広瀬、明治40年10月」と書いてある石柱があります。



写真FZ: 「川の中央より北 広瀬、明治40年10月」と書いてある石柱の上部。 石崎川の有喜橋の北端にあります。



写真GA: 「川の中央より北 広瀬、明治40年10月」と書いてある石柱の中部です。



写真GB: 「川の中央より北 広瀬、明治40年10月」と書いてある石柱の下部です。



写真GC: 「明治40年10月」と書いてあります。 「川の中央より北 広瀬、明治40年10月」と書いてある石柱の裏です。



写真GD: 「川の中央より北 広瀬、明治40年10月」と書いてある石柱の裏。



写真GE: 有喜橋から石崎川の下流方向 (東)を見たものです。



写真GF: 日章学園です。



写真GG: 手前は三叉路 (さんさろ)です。 右は日章学園です。 南を見たものです。



写真GH: 三叉路 (さんさろ)のそばです。



写真GI: 東を見たものです。



写真GJ: 右に進むと南九州自動車教習所があります。



写真GK: 左に南九州自動車教習所が見えます。



写真GL: 東を見たものです。 南九州自動車教習所のコースがあります。



写真GM: 南九州自動車教習所の近くです。



写真GN: 南九州自動車教習所の自動車が多く見えます。 東を見たものです。



写真GO: 自動車に「南九州自動車教習所」と書いてあります。 奥に休息所、建物、右に門などが見えます。



写真GP: 門のそばに「南九州自動車教習所」と書いてあります。



写真GQ: 南九州自動車教習所です。



写真GR: 南九州自動車教習所の練習コースです。



写真GS: 「南九州自動車教習所」と書いてあります。 右は練習コースです。



写真GT: 門の前の車道です。 奥に日章学園があります。 右に飲料水の自動販売機があります。



写真GU: 門のそばから見た自動車運転練習コースです。 北を見たものです。 南九州自動車教習所。



写真GV: 南九州自動車教習所の門です。 門柱もあります。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)