溜池群、槙柱池、権現中池、権現新池、権現尺八池、権現寺田池 (水神様、石碑 (せきひ)、UMKカントリークラブ、宮崎市立 住吉小学校、国道219号、多くの溜池 (ためいけ))  (宮崎県 宮崎市 大字島之内、大字新名爪)







<標高、位置>  住吉小学校は
標高 約10 m
 北緯31度59分04秒  東経131度26分26秒

<標高、位置>  UMK カントリークラブは
標高 約70 m
 北緯31度58分56秒  東経131度25分54秒

<標高、位置>  槙柱池は
標高 約20 m
 北緯31度58分58秒  東経131度26分19秒

<標高、位置>  権現中池は
標高 約30 m
 北緯31度59分02秒  東経131度26分08秒

<標高、位置>  権現新池は
標高 約30 m
 北緯31度59分09秒  東経131度25分57秒

<標高、位置>  権現尺八池は
標高 約40 m
 北緯31度59分13秒  東経131度26分02秒

<標高、位置>  権現寺田池は
標高 約40 m
 北緯31度59分11秒  東経131度25分53秒


 「溜池 (ためいけ)群」がUMKカントリークラブの東側にあります。 UMKカントリークラブに上がる道と住吉小学校のそばの招魂山の間の谷に、「多くの溜池 (ためいけ)」があります。 東から、槙柱池、権現中池、権現新池、権現尺八池、権現寺田池などがあります。 槙柱池は1676年 (延宝4年)に灌漑 (かんがい)面積 20 町でした。 権現寺田池は1726年 (享保11年)に灌漑面積 11町でした。 水神様もあります。

 「溜池 (ためいけ)」とは農業用水 (灌漑用水 (かんがいようすい))を得るために堤防を造って水をためておき、栓 (せん)などの取水設備を備 (そな)えた人口の池のことです。 溜池には谷の下流側に堤防を造る「谷池」と平野部の底を掘り下げてまわりを堤防で囲 (かこ)んである「皿池」とがあります。 溜池は弥生時代 (やよいじだい)には存在したと言われています。 溜池が最も多く造られたのは江戸時代です。

 水神様にある「中井手修築記念碑」の下に、
「移転の経緯 (けいい) 長年に亘 (わた)り大字島之内 字水垂 (権現中池南側)の地で見守ってこられた水神様であった。 然 (しか)しながら時代の進展とともに専業農家後継者の減少高齢化に伴 (ともな)い山の中腹にある為 (ため)参拝に支障を来たして来た。 そこで役員会で協議検討を重ね参拝に便利な現地を移転先に決定した。 西暦2000年九州沖縄サミット宮崎外相会議開催を記念し移転したものである。 平成12年7月12日」
 「中井手修築記念碑」の石碑 (せきひ)の裏に、
「槙柱中之井手 由緒記、元禄3年 (1690年)5月29日 佐土原城主3代 島津但馬守久雄 幕命に依 (よ)り其 (そ)の領内村 3000石を割 (さ)き旗本を置き弟式部少輔・・・、元治元年 (1864年)9月・・・家老 曽小川諌馬・・・、昭和9年11月」と書いてあります。

 「UMKカントリークラブ」は宮崎県 宮崎市 大字新名爪 坂ノ下 2055 にあります。
なだらかな丘陵にあるゴルフコースです。 クラブハウスは平成3年7月にオープンしました。 100名収容の部屋があり、食事会、パーティーなども行えます。 喫茶ルームからは緑のコースを見ることが出来ます。

 「宮崎市立 住吉小学校」は宮崎県 宮崎市 大字島之内 5383 にあります。 1875年に創立されました。 学校の木はセンダンです。 1891年5月17日に現在地に住吉尋常小学校が設置されました。 1947年に住吉小学校に改称されました。 1981年に児童数の増加に伴い、住吉南小学校が分離独立しました。


写真A: 宮崎市立 住吉小学校の南で槙柱池の東の地点から、南東を見たものです。 中央右寄りに高層ホテルのオーシャン45が見えます。 このあたりは田んぼになっています。 農業用ビニールハウスもあります。



写真B: 東を見たものです。 左に宮崎日本大学学園 宮崎日本大学中学校・高等学校の建物があります。



写真C: 左に宮崎市立 住吉小学校が見えます。 右に宮崎日本大学学園 宮崎日本大学中学校・高等学校の建物があります。



写真D: 住吉小学校の体育館などが見えます。 左の山は招魂山 (しょうこんやま)です。 そこに時刻を知らせるサイレンがあります。 住吉小学校と招魂山の間に国道219号線が通っています。



写真E: 右は招魂山で、左の山はUMKカントリークラブ (ゴルフ場)がある山です。 この2つの山の間に多くの溜池 (ためいけ)が造られています。 手前 (東)から、槙柱池、権現中池、権現新池、権現尺八池、権現寺田池などがあります。 槙柱池は1676年 (延宝4年)に灌漑 (かんがい)面積 20 町でした。 権現寺田池は1726年 (享保11年)に灌漑面積 11町でした。 水神様もあります。 国道219号線のガードレールが見えます。 右に進むと西都市などに行きます。 左に進むと新名爪の交差点、宮崎市の中心部などに行きます。 北西を見たものです。



写真F: 西を見たものです。 この山の右にUMKカントリークラブに上がる車道があります。 この山の左には湘桜台団地があります。



写真G: 南を見たものです。 田んぼ、農業用ビニールハウスがあります。



写真H: このあたりは田んぼと農業用ビニールハウスが多くあります。 南東を見たものです。



写真I: アロエの花が咲いていました。



写真J: 溜池 (ためいけ、槙柱池)の土手 (どて)に丸いハンドルのある装置があります。 溜池の水を下の田んぼに流すための弁 (べん)を開け閉 (し)めするためのものと思われます。



写真K: 槙柱池の土手から東を見たものです。 国道219号線の奥に田んぼが拡 (ひろ)がっています。 手前に水を入れるコンクリートのものや階段があります。



写真L: 土手に上 (あ)がる階段です。



写真M: 槙柱池の水面が見えます。 手前に丸いメーターの付いた装置があります。 手前は土手です。



写真N: 槙柱池の土手から北を見たものです。 招魂山 (しょうこんやま)が見えます。 右に住吉小学校の校舎があります。



写真O: 溜池 (ためいけ)の槙柱池の角 (すみ)にコンクリート製のものがあります。 溢 (あふ)れた水を流すためのものかもしれません。 民家も見えます。



写真P: 槙柱池の北側沿 (ぞ)いに車道があります。 いくつかの人家も見えます。 溜池 (ためいけ)は谷に造られています。
「溜池 (ためいけ)群」がUMKカントリークラブの東側にあります。 UMKカントリークラブに上がる道と住吉小学校のそばの招魂山の間の谷に、「多くの溜池 (ためいけ)」があります。 東から、槙柱池、権現中池、権現新池、権現尺八池、権現寺田池などがあります。 槙柱池は1676年 (延宝4年)に灌漑 (かんがい)面積 20 町でした。 権現寺田池は1726年 (享保11年)に灌漑面積 11町でした。 水神様もあります。



写真Q: 一番東にある槙柱池です。 槙柱池は1676年 (延宝4年)に灌漑 (かんがい)面積 20 町でした。 国道219号線の西側にあります。 左の山の手前にUMKカントリークラブに登る車道があります。
「溜池 (ためいけ)」とは農業用水 (灌漑用水 (かんがいようすい))を得るために堤防を造って水をためておき、栓 (せん)などの取水設備を備 (そな)えた人口の池のことです。 溜池には谷の下流側に堤防を造る「谷池」と平野部の底を掘り下げてまわりを堤防で囲 (かこ)んである「皿池」とがあります。 溜池は弥生時代 (やよいじだい)には存在したと言われています。 溜池が最も多く造られたのは江戸時代です。
ここの溜池 (槙柱池、権現中池、権現新池、権現尺八池、権現寺田池)はすべて「谷池」になっています。



写真R: 槙柱池の土手と階段です。 南を見たものです。 左に国道219号線が見えます。 右の山の奥に湘桜台団地があります。



写真S: 土手の上から南東を見たものです。 遠くに高層ホテルのオーシャン45が見えます。 手前に国道219号線の車も見えます。



写真T: 東を見たものです。 国道219号線の奥に田んぼなどがあります。 左に宮崎日本大学学園 宮崎日本大学中学校・高等学校が見えます。



写真U: 土手の上から北東を見たものです。 住吉小学校の校舎も見えます。



写真V: 槙柱池の北側沿いの道を西に進みます。 水神様が見えます。 その奥に2つ目の溜池 (ためいけ)の権現中池の土手が見えてきました。



写真W: 水神様です。



写真X: 「中井手修築記念碑」が水神様のところにあります。 井手とは井堰 (いせき)のことです。



写真Y: 「中井手修築記念碑」の下に、
「移転の経緯 (けいい) 長年に亘 (わた)り大字島之内 字水垂 (権現中池南側)の地で見守ってこられた水神様であった。 然 (しか)しながら時代の進展とともに専業農家後継者の減少高齢化に伴 (ともな)い山の中腹にある為 (ため)参拝に支障を来たして来た。 そこで役員会で協議検討を重ね参拝に便利な現地を移転先に決定した。 西暦2000年九州沖縄サミット宮崎外相会議開催を記念し移転したものである。 平成12年7月12日」
と書いてあります。



写真Z: 「中井手修築記念碑」の石碑 (せきひ)の裏です。 「槙柱中之井手 由緒記、元禄3年 (1690年)5月29日 佐土原城主3代 島津但馬守久雄 幕命に依 (よ)り其 (そ)の領内村 3000石を割 (さ)き旗本を置き弟式部少輔・・・、元治元年 (1864年)9月・・・家老 曽小川諌馬・・・、昭和9年11月」と書いてあります。



写真AA: 「中井手修築記念碑」の石碑 (せきひ)の裏です。 「槙柱中之井手 由緒記、元禄3年 (1690年)5月29日 佐土原城主3代 島津但馬守久雄 幕命に依 (よ)り其 (そ)の領内村 3000石を割 (さ)き旗本を置き弟式部少輔・・・、元治元年 (1864年)9月・・・家老 曽小川諌馬・・・、昭和9年11月」と書いてあります。



写真AB: 「中井手修築記念碑」の石碑 (せきひ)の裏です。 「槙柱中之井手 由緒記、元禄3年 (1690年)5月29日 佐土原城主3代 島津但馬守久雄 幕命に依 (よ)り其 (そ)の領内村 3000石を割 (さ)き旗本を置き弟式部少輔・・・、元治元年 (1864年)9月・・・家老 曽小川諌馬・・・、昭和9年11月」と書いてあります。



写真AC: 2つ目の溜池 (ためいけ)の権現中池の土手です。 北を見たものです。



写真AD: 2つ目の溜池 (ためいけ)の権現中池です。



写真AE: 権現中池です。 西を見たものです。



写真AF: 権現中池とその土手です。 南を見たものです。



写真AG: 権現中池の土手と南の山です。 この山にUMKカントリークラブに登る車道が左右にあります。



写真AH: 左は田んぼになっています。



写真AI: 権現中池の土手から南東を見たものです。 1つ目の溜池である槙柱池が見えます。



写真AJ: 東を見たものです。 槙柱池が見えます。



写真AK: 北側の山です。 北側の山と南側の山の間の谷に多くの溜池 (ためいけ)があります。



写真AL: 北を見たものです。



写真AM: 権現中池です。 「魚つり禁止 私有地に付き立入禁止 土地改良区」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真AN: 権現中池の北側沿いの道です。 西を見たものです。



写真AO: 道を進みます。



写真AP: 木の間から権現中池が見えます。



写真AQ: 三叉路 (さんさろ)があります。 直進すると権現尺八池、左折すると権現新池に行きます。



写真AR: この道を先に進むと権現新池に行きます。



写真AS: 権現新池の堤防が見えてきました。 手前は田んぼになっています。



写真AT: これから三叉路 (さんさろ)を直進して権現尺八池に行きます。



写真AU: 権現尺八池の堤防と階段です。 北を見たものです。



写真AV: 権現尺八池の堤防と左は水面です。 東を見たものです。



写真AW: 権現尺八池です。



写真AX: 北を見たものです。 権現尺八池は北に細長く尺八 (しゃくはち)に似ているのでこの名前が付いたのでしょう。



写真AY: 権現尺八池のそばです。



写真AZ: 近くの様子 (ようす)です。



写真BA: 権現新池の堤防です。



写真BB: 権現新池のそばの道です。 左は権現新池。



写真BC: 権現新池です。 造られた時期が他の池より新しいので権現新池という呼 (よ)び名になったのでしょう。



写真BD: 権現新池には小さな島があります。 枯れ草 (かれくさ)が島に茂 (しげ)っています。 左寄りの上に平らな土地が見えます。 おそらくそこはUMKカントリークラブでしょう。



写真BE: 権現新池です。 小さな島も見えています。



写真BF: 権現新池の土手です。 南を見たものです。



写真BG: 立木の間に権現新池が見えます。



写真BH: 権現新池の近くの道です。



写真BI: 権現寺田池の土手と看板 (かんばん)が見えてきました。 これが一番西の池です。



写真BJ: 権現寺田池の土手 (どて)です。



写真BK: 左は権現新池で右は権現寺田池の堤防です。



写真BL: 権現新池です。



写真BM: 「寺田池復旧記念碑」と石碑 (せきひ)に彫 (ほ)ってあります。 これは権現寺田池のそばです。



写真BN: 「寺田池復旧記念碑」に「昭和29年2月11日起工、同年3月10日竣工 (しゅんこう、完成することです。)、総工費 金 25万8000円也 (なり)、内補助金 20万6400円也、延 (のべ)人員 1025人、住吉村長 佐々木一雄、昭和29年6月10日建立 (こんりゅう、石碑を建てることです。)」と書いてあります。



写真BO: 「寺田池復旧記念碑」に「工事委員、監査委員」と書いてあります。



写真BP: 「寺田池復旧記念碑」に「井手方 (井手とは井堰 (いせき)のことです。)、村総代、技師」と書いてあります。



写真BQ: 権現寺田池です。 一番西の池です。  権現寺田池は1726年 (享保11年)に灌漑面積 11町でした。



写真BR: 左下は権現寺田池の堤防です。 権現寺田池。  権現寺田池は1726年 (享保11年)に灌漑面積 11町でした。



写真BS: 権現寺田池の土手 (どて)です。 右に「あぶない!! ぜったい、はいらないで!! 土地改良区」と書いてある看板 (かんばん)があります。 南を見たものです。
「溜池 (ためいけ)」とは農業用水 (灌漑用水 (かんがいようすい))を得るために堤防を造って水をためておき、栓 (せん)などの取水設備を備 (そな)えた人口の池のことです。 溜池には谷の下流側に堤防を造る「谷池」と平野部の底を掘り下げてまわりを堤防で囲 (かこ)んである「皿池」とがあります。 溜池は弥生時代 (やよいじだい)には存在したと言われています。 溜池が最も多く造られたのは江戸時代です。



写真BT: 右は権現寺田池の土手で、左は権現新池です。 南東を見たものです。



写真BU: 東を見たものです。 左は「寺田池復旧記念碑」です。



写真BV: 「寺田池復旧記念碑」の側面です。



写真BW: 権現寺田池に来た道を振 (ふ)り返ったものです。 「寺田池復旧記念碑」も見えます。



写真BX: 「あぶない!! ぜったい、はいらないで!! 土地改良区」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真BY: 「ヤツデの実」がありました。



写真BZ: 野草の「ムラサキカタバミの花」が咲いていました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)