宮崎県 総合文化公園 (桜の花)、宮崎県の偉人の像 (石井十次の像、小村寿太郎の像、安井息軒の像、高木兼寛の像、若山牧水の像、川越進の像) (宮崎県立美術館、宮崎県立図書館、宮崎県立芸術劇場、桜ライトアップ、文化広場、県立美術館、県立図書館、県立芸術劇場 (県民文化センター)、メディキット県民文化センター、宮崎大学農学部が昔この敷地にあったときの門柱、文化公園前通り、神宮南通り)  (宮崎県 宮崎市 船塚)







<標高、位置>  宮崎県総合文化公園は
標高 約10 m
 北緯31度56分04秒  東経131度25分10秒


 「宮崎県総合文化公園」は宮崎県 宮崎市 船塚 3丁目 にあります。
宮崎県総合文化公園は置県100年記念事業として、1995年 (平成7年)3月に完成しました。 宮崎大学農学部の跡地に2つの広場と3つの文化施設 (宮崎県立 芸術劇場、宮崎県立 美術館、宮崎県立 図書館)があります。 面積は16.5 ha でソメイヨシノ (桜)や八重桜 (ヤエザクラ)などが約110本あります。 宮崎県の桜の開花宣言で用いられる桜の基準木もここにあります。 ショウブ園ではショウブの花も咲きます。 敷地は東西 450 m、南北 370 m です。 東側に芸術劇場、美術館、図書館、文化広場があり、西側に県民広場があります。 文化広場には彫刻、噴水、石畳 (いしだたみ)、芝生 (しばふ)、木があります。 県民広場には芝生広場、しょうぶ園、石の広場があります。 宮崎県の偉人である石井十次、小村寿太郎、安井息軒、高木兼寛、若山牧水、川越進の銅像が敷地内にあります。

 「宮崎県立図書館」は宮崎県 宮崎市 船塚 3-210-1にあります。 宮崎県立図書館は1902年 (明治35年)5月28日に開館しました。 1988年5月に県総合文化公園 (宮崎大学農学部跡)に移転しました。 蔵書数は66万冊以上です。

 「宮崎県立美術館」は宮崎県 宮崎市 船塚 3-210 にあります。 延床面積は10333 平方メートル、地下1階、地上3階、高さ23 m 。

 「宮崎県立芸術劇場 (県民文化センター)」は宮崎県 宮崎市 船塚 3-210 にあります。 1993年に開館しました。 パイプオルガンが設置されているアイザックスターンホール (1818席)と演劇ホール (1112席)、イベントホール (多目的ホール、移動式300席)、練習場、資料閲覧室などがあります。 運営は財団法人 宮崎県立劇場です。

 「宮崎県の偉人の像」が宮崎県総合文化公園にあります。
 「石井十次の像」は総合文化公園の北部にあります。
石井十次は慶応元年4月11日(1865年5月5日)に宮崎県 児湯郡 高鍋町で生まれました。 日本で最初に孤児院を創設しました。 「児童福祉の父」と言われます。 石井十次は岡山で医師を目指していましたが中断して、日本最初の孤児院 岡山孤児院を創設しました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました。 岡山孤児院は今はありませんが、石井記念友愛社(宮崎県)と石井記念愛染園(大阪府)が後を引き継いています。 1990年に石井十次顕彰会(宮崎県)により石井十次賞が創設され、毎年、石井十次の精神を引き継いで福祉活動をしている団体にこの賞が贈(おく)られています。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。

 「小村寿太郎の像」は総合文化公園の西部にあります。
小村寿太郎は、日南市 飫肥 (おび)の出身です。 小村寿太郎は20世紀初頭、日英同盟を結び、日露戦争後の講和会議では全権大使としてポーツマス条約を結びました。 また、不平等条約を改正し、関税自主権を獲得(かくとく)しました。 その功績で日本は名実ともに独立主権国家となりました。
 小村寿太郎 (1855年~1911年) 安政2年日南市飫肥 (おび)に生まれる。 明治34年に外務大臣となり、その翌年に日英同盟協約を締結。 日露戦争終結に当っては主席全権として米国・ポーツマスで講和会議に臨 (のぞ)み明治38年に講和条約を締結。 明治を代表する外交官。 条約締結6年後の明治44年 神奈川県葉山で没。 57歳。

 「安井息軒の像」は総合文化公園の東部にあります。
幕末から明治時代にかけての儒学者(儒教の学者) 「安井息軒の旧宅(生家)」は宮崎県宮崎市 清武町 大字加納3368-1にあります。
「国指定史跡 安井息軒旧宅」の説明板から、
指定年月日 昭和54年5月22日
この地は幕末の儒学者 安井息軒の旧宅である。 息軒は寛政11年(1799年)1月1日ここで生まれた。 諱(いみな)は衡(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)といい、息軒はその号で別に半九陳人(はんきゅうちんじん)などとも称した。
 学問所で子弟の教育にあたっていた父 滄洲(そうしゅう)の影響か息軒も幼少のころから学問を好み、貧しく背が低く痘瘡面の容貌に嘲笑を受けながらも勉学に勤しんだ。 22歳で大阪の篠崎小竹に師事、26歳で江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学ぶなど苦学を重ね、次第に頭角をあらわした。
 29歳で帰郷した息軒は、森鴎外 著「安井夫人」に紹介されるように美しく聡明な川添佐代(かわそえさよ)と結婚、また滄洲と共に本史跡の向かいにあった郷校 明教堂(めいきょうどう) 創建に携(たず)わり、その助教授となって子弟の教育にあたった。 天保2年(1831年)、明教堂創建の実績が評価され、藩校 振徳堂(しんとくどう)が再興されると総裁に滄洲が、助教授に息軒が任命され、この旧宅を隣人に譲渡し飫肥城下(おびじょうか)(現 日南市飫肥)に転居する事となる。
 天保7年(1836年)、息軒は妻子と共に江戸に移住して三計塾(さんけいじゅく)を開き、長年にわたり書生を教授し谷干城、陸奥宗光ら幾多の逸材をその門下より輩出、後年は幕府儒官として昌平黌教授、奥州塙代官(はなわだいかん)を歴任し、明治新政府の下では明治天皇侍講の依頼を高齢などを理由に辞退したこともあった。 この間 「左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)」「海防私議(かいぼうしぎ)」など多くの書を著している。 
明治9年9月23日、77歳で東京に没し、遺骸は家族や門人の手で東京都文京区千駄木の養源寺に葬られた。 現在その墓は東京都の史跡に指定されている。
 この地は息軒などが飫肥に転居後居住者も幾たびか替ったが、大正12年から昭和4年にかけて当時の清武村が買い上げて公園化し、昭和54年には現存する生家ともども国の史跡指定を受けた。

 「高木兼寛の像」は総合文化公園の東部にあります。
「ビタミンの父 高木兼寛(たかきかねひろ)の生誕地」は宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 太良山 2465-1 にあります。
 「高岡町出身 ビタミンの父 高木兼寛(たかきかねひろ、1849年~1920年)」の説明板から、
「病気を診(み)ずして病人を診よ」
 イギリスに留学中、多くの優秀賞、名誉賞を受賞し、明治13年11月に帰国した高木兼寛は、海軍中医監と同時に東京海軍病院長に命じられました。 このころの日本の海軍では、軍艦乗組員のなかに かつけ病患者が続出していました。 海軍軍医だった兼寛は、このかつけ病の絶滅に取り組みました。 
 このころ、かつけ病は細菌による伝染病と考えられていましたが、兼寛は、かつけ病は食事の栄養欠陥からおこると考え、「兵食改善」によるかつけ病の予防法に取り組みました。 そして、ようやく軍艦「筑波(つくば)」の航海実験をすることになりました。
 さきに、軍艦「龍驤」の航海で、乗組員の半数がかつけ病となり、「病者多し、航海できぬ金送れ」という悲痛な電報が龍驤から送られていたものが、兵食を改善した「筑波」から送られた電報は、「病者一人もなし、安心あれ」というものでした。 このことによって、兼寛の予防法が広く世界に認められることになりました。
 その後、ビタミンが発見され、かつけ病はビタミンB1の欠乏から起こることが分かりました。 イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは、世界の8大ビタミン学者を写真入りで紹介し、そのなかで兼寛を2番目にとりあげ、偉大な業績を紹介しています。
 また兼寛は、東京慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらに、宮崎神宮の大造営など多くの偉業を成しとげました。
「病気を診(み)ずして病人を診よ」という兼寛の言葉は大変有名です。

 「若山牧水の像」は総合文化公園の東部にあります。
「若山牧水 生家」は宮崎県 日向市 東郷町 大字坪谷 1271 にあります。 若山牧水生家は昭和41年に「県史跡」に指定されました。
 若山牧水の号(牧水)は「牧はマキ、即(すなわ)ち母の名である。 水はこの渓(けい、坪谷川のこと。)や雨やから来たものであった。」と本人が述べています。 また、「ものごころつく頃から痛くこの渓(けい、谷川のこと。)と山の雨を愛した。」とも述べています。 若山牧水は酒を飲まないと歌も揮毫(きごう、書画をかくこと。)もできなかったほどでした。 「旅」・「酒」・「寂」を愛し続けました。
 若山牧水の生家は江戸時代末期に、埼玉県 所沢市の農家として生まれた祖父の健海(医師でした。)によって造られました。 父 立蔵も医師でした。 生家は幾度か改修され70 % 以上の木材は新しいものですが、原型を保っています。 敷地内につるべ式井戸、馬小屋、風呂場、トイレなどもあり、玄関には大きな桜の木とセンダンの木があります。 低山と坪谷川(耳川の上流です。)のあいだに、石垣(いしがき)のある牧水生家があります。 裏山の峠(とうげ)には自然石に彫(ほ)られた「牧水歌碑」があります。 牧水はこの大きな石の上に座布団(ざぶとん)を敷いて、尾鈴連山 (尾鈴山系、尾鈴連峰)や坪谷川などの美しい風景を眺(なが)めていました。 特に雨の尾鈴山が好きだったようです。 子供の頃は家族たちなどとよく家の南を流れる坪谷川でアユ釣りをしていました。 牧水の歯が痛くて泣いていると母(マキ)が背負(せお)ってアユ釣りに連れて行ったこともあり、その短歌もあります。 牧水が亡くなったときにはまだ母(マキ)は存命中で、牧水の分骨はその後亡くなった母に抱かせて、いっしょに坪谷にある墓に眠っています。
 若山牧水のおじいさんは健海(医師)、おばあさんはカメ、お父さんは立蔵(医師)、お母さんはマキ、父の弟(おじさん)は純曽(医師)です。
牧水(本名は繁)のお姉さんはスエ、トモ、シヅです。
牧水の妻は歌人の喜志子で、旅人(長男)、岬子、真木子、富士人の4人の子供に恵まれました。
若山牧水は同人誌の赤字、静岡県 沼津市 (牧水は晩年の8年間を沼津で暮らしました。 沼津市に若山牧水記念館があります。)に建てた豪邸などの多額の借金のため、苦難の「揮毫(きごう、書や画を書くこと。)の旅」を行いました。 これが詠歌、石碑にも影響していることでしょう。
 牧水公園の、若山牧水の銅像の台座にある「若山牧水 略年譜(りゃくねんぷ)」から、
明治18年8月24日 医師 若山立蔵の長男として当時の東郷村坪谷1番地(現在地)に生まれ、繁と命名された。 母はマキ。 29年3月 坪谷尋常小学校卒業。 32年3月 延岡高等小学校3年修業。 4月 県立延岡中学校 第1回生として入学。 36年 この秋、初めて「牧水」の号を用いる(牧水18歳のとき。)。 37年3月 延岡中学校卒業。 4月 早稲田大学英文学科高等予科に入学。 40年6月 暑中休暇で帰省(故郷に帰ること。)の途中、「幾山河」の名歌を詠(よ)む(牧水21歳のとき。)。 41年7月 早稲田大学英文学科を卒業。 同月 第1歌集「海の声」を出版する。 44年1月 創作社をおこす。 45年5月 太田喜志子と結婚(牧水26歳のとき。)。 大正9年8月 静岡県沼津町在上呑貫に移る。 14年10月 沼津市市道町の新築の家に移る。 昭和3年9月17日 午前7時58分永眠、享年43歳。 戒名(かいみょう) 古松院仙誉牧水居士。

 「川越進の像」は総合文化公園の東部にあります。
川越進 (1848年 (嘉永元年)~1914年 (大正3年))は清武郷 木原村 (現在の宮崎市 清武町)で生まれました。 分県運動の中心人物です。 父は飫肥藩 (おびはん)の勘定方をしていました。 郷校の明教堂で8歳から16歳まで勉強しました。 明教堂は安井息軒とその父が創建したもので、安井息軒旧宅の向かいにありました。 1871年の廃藩置県で、佐土原県など6つの県が短期間出来ましたが、その後、日向国は美々津県と都城県になりました(境界は大淀川)。 1873年、これが統合して宮崎県になりました。 1876年、鹿児島県に統合され、宮崎県は一時なくなりました。 1883年に鹿児島県から独立して現在の宮崎県が出来ました (このときに川越進たち有志が分県運動をしました。)。 日向国の有志たちの私財を使った約3年間の運動で再び1883年 (明治16年)に宮崎県が出来ました。 7月1日に県庁が設置され、川越進は初代の宮崎県会議長になりました。 1890年 (明治23年)には衆議院議員となりました。


写真A: 宮崎県総合文化公園の北側にある入り口です。 南を見たものです。 駐車場も見えます。



写真B: 東を見たものです。 この車道の奥に宮崎神宮があります。 右手は宮崎県総合文化公園です。



写真C: 西を見たものです。 左は宮崎県総合文化公園です。



写真D: 北を見たものです。 手前は総合文化公園の入り口です。



写真E: 北出入口付近です。



写真F: 総合文化公園の中です。 芝生 (しばふ)、木、建物が見えます。



写真G: 公衆電話ボックスがあります。 左は駐車場です。 南を見たものです。



写真H: 南東を見たものです。 右に宮崎県立美術館、左に宮崎県立図書館が見えます。



写真I: 東を見たもの。 右に県立図書館が見えます。



写真J: 北の入り口です。



写真K: 左に桜の花が咲いています。 遊歩道、芝生 (しばふ)、外灯などがあります。



写真L: 宮崎県総合文化公園の桜の花です。 広い広場があります。



写真M: 総合文化公園の広場です。 南を見たものです。



写真N: 宮崎県総合文化公園の敷地はもとは宮崎大学 農学部のものでした。 その時の大きな古い木が今も多く残っています。 この広場あたりは昔は農学部の広い畑がありました



写真O: 総合文化公園です。



写真P: 総合文化公園の建物です。



写真Q: 大きな木もあります。 ここが宮崎大学農学部だったころの木かもしれません。



写真R: 大きな木の上部です。



写真S: 左に銅像があります。



写真T: 公園を歩いている人が見えます。



写真U: 公園の中の遊歩道です。



写真V: 宮崎県 宮崎市 船塚にある宮崎県総合文化公園の桜の花です。 ソメイヨシノの花が咲いています。



写真W: 総合文化公園の桜の花です。



写真X: 桜の花びらが地面に落ちています。



写真Y: 地面にこのようなものがあります。 「うめ 清武町 (梅の絵)」と書いてあります。



写真Z: 「クローバーの花」が咲いています。



写真AA: 「石井十次」の銅像が宮崎県総合文化公園の広場の北側にあります。
石井十次は慶応元年4月11日(1865年5月5日)に宮崎県 児湯郡 高鍋町で生まれました。 日本で最初に孤児院を創設しました。 「児童福祉の父」と言われます。 石井十次は岡山で医師を目指していましたが中断して、日本最初の孤児院 岡山孤児院を創設しました。 大正3年(1914年)1月30日に宮崎県 木城町で亡くなりました。 岡山孤児院は今はありませんが、石井記念友愛社(宮崎県)と石井記念愛染園(大阪府)が後を引き継いています。 1990年に石井十次顕彰会(宮崎県)により石井十次賞が創設され、毎年、石井十次の精神を引き継いで福祉活動をしている団体にこの賞が贈(おく)られています。
 石井十次は熱心なキリスト教信者でした。 孤児院の児童たちには「満腹主義」といってお腹(なか)いっぱい食べさせました。 十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児院の暮らしの映画を上映したり、音楽を演奏したりして募金を集めました。 国内、台湾、韓国、中国、アメリカなどでその活動をしました。 活版印刷、精米(せいまい)などの仕事を児童たちは行いました。 岡山より生活費がかからない宮崎で農場を開墾(かいこん)しました。 60 ヘクタールの広さです。コメ、野菜、桑(くわ)などの栽培をしました。 桑で蚕(かいこ)を養って繭(まゆ)を作らせ、絹織物の材料にしました。 また、女の子には裁縫(さいほう)、男の子には大工(だいく)、鍛冶(かじ、金属を打ちきたえていろんな器物を作ること。 鍬(くわ)、鎌(かま)、包丁(ほうちょう)などを作ります。)も教えました。 最初は石井十次は「先生」と呼ばれていましたが、その内、「おとうさん」と呼ばれるようになりました。 石井十次は演説の中で、「親のない孤児よりもっとかわいそうなのは、心の迷い子、精神の孤児なのです。」と述べています。



写真AB: 総合文化公園にある「石井十次の像」です。 右手で上を指 (さ)しています。



写真AC: 石井十次は下駄 (げた)を履 (は)いています。 二人の子供が両側に立っています。



写真AD: 台座に「石井十次」と書いてあります。



写真AE: 東屋 (あずまや)があります。



写真AF: 園内に橋があります。 奥に東屋 (あずまや)もあります。



写真AG: 総合文化公園の東屋 (あずまや)です。



写真AH: 桜の木があります。



写真AI: 「ヤブツバキの花」が地面に落ちていました。



写真AJ: ヤブツバキの木です。 赤い花が見えます。



写真AK: 桜の木です。



写真AL: 桜 (ソメイヨシノ)の花です。



写真AM: 「公園を利用されるみなさんへ」の看板 (かんばん)があります。
宮崎県宮崎土木事務所と書いてあります。



写真AN: 総合文化公園の西側の車道が見えます。



写真AO: 車道の奥にコンビニ店が見えます。



写真AP: 奥に桜の花が見えます。 南を見たものです。



写真AQ: 芝生 (しばふ)に木があります。



写真AR: 遊歩道のそばに石、外灯もあります。



写真AS: 総合文化公園の木、石、芝生 (しばふ)などです。



写真AT: 大きな木も多くあります。 ここが宮崎大学農学部だったころの木かもしれません。



写真AU: 北西を見たものです。



写真AV: 西側の車道が見えます。 総合文化公園の西の出入り口です。



写真AW: 看板 (かんばん)、外灯もあります。



写真AX: 宮崎県総合文化公園の桜です。 下に花びらが落ちています。



写真AY: 総合文化公園の桜の花です。



写真AZ: 青空を背景にした桜の花です。



写真BA: このあたりは多くの桜の木があります。



写真BB: 宮崎市にある総合文化公園の桜の木です。



写真BC: 遊歩道の奥は芝生 (しばふ)の広場です。



写真BD: 桜の花です。



写真BE: 総合文化公園の桜です。



写真BF: 西の車道の近くまで桜の木があります。



写真BG: 西を見たものです。



写真BH: 宮崎県総合文化公園の桜の花です。



写真BI: ベンチがあります。



写真BJ: 宮崎県総合文化公園にある「小村寿太郎」の像です。 北を見たものです。
「小村寿太郎の像」は総合文化公園の西部にあります。
小村寿太郎は、日南市 飫肥 (おび)の出身です。 小村寿太郎は20世紀初頭、日英同盟を結び、日露戦争後の講和会議では全権大使としてポーツマス条約を結びました。 また、不平等条約を改正し、関税自主権を獲得(かくとく)しました。 その功績で日本は名実ともに独立主権国家となりました。
 小村寿太郎 (1855年~1911年) 安政2年日南市飫肥 (おび)に生まれる。 明治34年に外務大臣となり、その翌年に日英同盟協約を締結。 日露戦争終結に当っては主席全権として米国・ポーツマスで講和会議に臨 (のぞ)み明治38年に講和条約を締結。 明治を代表する外交官。 条約締結6年後の明治44年 神奈川県葉山で没。 57歳。



写真BK: 「小村寿太郎の略歴及び建設趣意書」があります。
略歴
小村寿太郎 (1855年~1911年) 安政2年日南市飫肥 (おび)に生まれる。 明治34年に外務大臣となり、その翌年に日英同盟協約を締結。 日露戦争終結に当っては主席全権として米国・ポーツマスで講和会議に臨 (のぞ)み明治38年に講和条約を締結。 明治を代表する外交官。 条約締結6年後の明治44年 神奈川県葉山で没。 57歳。
平成17年9月
と書かれています。



写真BL: 「台座の「小村寿太郎」の文字は小村侯の自署。」と書いてあります。



写真BM: 本人が書いた「小村寿太郎」の文字です。 像の台座にあります。



写真BN: 帽子 (ぼうし)をかぶり左手に杖 (つえ)を持っています。 小村寿太郎の像です。



写真BO: 「美術館」、「図書館」、「メディキット 県民文化センター」の道しるべがあります。



写真BP: 西を見たものです。 車道への出入り口があります。 車止めが見えます。



写真BQ: 遊歩道のそばに石があります。



写真BR: 芝生広場 (しばふひろば)です。



写真BS: 看板 (かんばん)、外灯があります。 東を見たものです。



写真BT: ベンチ、看板 (かんばん)、外灯、広場があります。



写真BU: 左は小村寿太郎の銅像です。 北を見たものです。



写真BV: 北西を見たものです。 小村寿太郎の像、左に車道への出入り口が見えます。



写真BW: 西を見たものです。 付近の高い建物があります。



写真BX: 犬2匹を連 (つ)れた人が散歩をしています。



写真BY: 八重桜 (ヤエザクラ)の花が咲いていました。 宮崎県総合文化公園です。
「宮崎県総合文化公園」は宮崎県 宮崎市 船塚 3丁目 にあります。
宮崎県総合文化公園は置県100年記念事業として、1995年 (平成7年)3月に完成しました。 宮崎大学農学部の跡地に2つの広場と3つの文化施設 (宮崎県立 芸術劇場、宮崎県立 美術館、宮崎県立 図書館)があります。 面積は16.5 ha でソメイヨシノ (桜)や八重桜 (ヤエザクラ)などが約110本あります。 宮崎県の桜の開花宣言で用いられる桜の基準木もここにあります。 ショウブ園ではショウブの花も咲きます。 敷地は東西 450 m、南北 370 m です。 東側に芸術劇場、美術館、図書館、文化広場があり、西側に県民広場があります。 文化広場には彫刻、噴水、石畳 (いしだたみ)、芝生 (しばふ)、木があります。 県民広場には芝生広場、しょうぶ園、石の広場があります。 宮崎県の偉人である石井十次、小村寿太郎、安井息軒、高木兼寛、若山牧水、川越進の銅像が敷地内にあります。



写真BZ: 芝生 (しばふ)に桜の花びらが散っています。



写真CA: 手前はヤエザクラの花です。



写真CB: 手前のヤエザクラの花と奥のソメイヨシノ (桜)の花が咲いています。



写真CC: 「かんらん 南郷村 (かんらんの絵)」と書いてあります。 まわりに桜の花びらが落ちています。



写真CD: 面白 (おもしろ)い形のベンチです。



写真CE: 藤棚 (ふじだな)、掲示板、外灯などがあります。 総合文化公園です。



写真CF: 「イベント情報、ハザードマップ、文化公園管理事務所掲示板」と書いてあります。



写真CG: 「桜ライトアップ、宮崎県総合文化公園」のポスターがあります。
文化公園で桜のライトアップを行います。 昼間とは違った幻想的な桜並木をどうぞ楽しんで下さいね!
と書いてあります。



写真CH: 左奥に桜の花が咲いています。



写真CI: 左下に水飲み場があります。 掲示板、ベンチ、桜の木があります。



写真CJ: 芝生 (しばふ)に水飲み場があります。 左に水面が見えます。



写真CK: 左に車道の車が見えます。



写真CL: 藤棚 (ふじだな)があります。 奥は駐車場です。 宮崎県総合文化公園です。



写真CM: 遊歩道、藤棚 (ふじだな)、駐車場が見えます。



写真CN: 左は芝生広場 (しばふひろば)です。



写真CO: 広い広場です。 総合文化公園。



写真CP: 左に歩いている人、桜の花が見えます。



写真CQ: 「やまざくら 西米良村 (やまざくらの絵)」と書いてあります。 まわりに桜の花びらが散っています。



写真CR: 宮崎県総合文化公園の「藤 (ふじ)の花」です。 藤棚 (ふじだな)に咲いています。



写真CS: 藤棚 (ふじだな)の「藤の花」です。 総合文化公園。



写真CT: 藤のつるが見事です。



写真CU: 宮崎市にある総合文化公園です。



写真CV: ここは花菖蒲 (はなしょうぶ)園です。 水路が見えます。 まわりに桜の花が見えます。 休憩所 (きゅうけいしょ)もあります。



写真CW: 総合文化公園のソメイヨシノ (桜)の花です。 丸い外灯があります。



写真CX: ベンチが桜の下にもあります。



写真CY: 総合文化公園の八重桜 (ヤエザクラ)の花です。



写真CZ: 奥に車道への出入り口が見えます。 車止めがあります。



写真DA: 宮崎市にある総合文化公園です。



写真DB: 建物が見えます。



写真DC: 看板 (かんばん)、車道への出入り口があります。



写真DD: 遊歩道の両側に芝生 (しばふ)があります。



写真DE: 東屋 (あずまや)、手前はショウブ園です。 水面が見えます。



写真DF: 花菖蒲 (はなしょうぶ)園に橋があります。



写真DG: このような木の橋があります。 奥に休憩所 (きゅうけいしょ)が見えます。



写真DH: ツツジの花が咲いていました。



写真DI: 満開の桜の花です。 総合文化公園。



写真DJ: 地面に桜の花びらが散っています。



写真DK: 遊歩道、ベンチがあります。



写真DL: 総合文化公園の桜の花です。



写真DM: 水のそばに葉っぱが見えます。 ハナショウブです。



写真DN: 東屋 (あずまや)があります。



写真DO: 建物 (文化公園管理事務所)、遊歩道があります。 右は車道です。



写真DP: 休憩所 (きゅうけいしょ)、建物 (文化公園管理事務所)、遊歩道が見えます。



写真DQ: 桜の花、ツツジの花、ハナショウブの葉、橋、休憩所 (きゅうけいしょ)などがあります。



写真DR: ショウブ園は桜の木の近くにあります。



写真DS: 車道の奥の建物が見えます。



写真DT: 東屋 (あずまや)、芝生 (しばふ)があります。



写真DU: 東屋 (あずまや)の近くの遊歩道です。



写真DV: 東屋 (あずまや)の奥に車道があります。



写真DW: 遊歩道はよい散歩道でもあります。



写真DX: 左は文化公園管理事務所です。 車道も見えます。



写真DY: 車道のそばの民間の建物です。 飲料水の自動販売機があります。



写真DZ: 「コカ・コーラ ZERO」を飲みました。



写真EA: 左は総合文化公園です。 東を見たものです。



写真EB: 総合文化公園の駐車場と出入り口があります。 宮崎県立美術館が見えます。 北東を見たものです。



写真EC: 南から見た文化公園管理事務所です。



写真ED: 北西を見たものです。



写真EE: 西を見たものです。



写真EF: 文化公園管理事務所です。



写真EG: 「文化公園管理事務所」と書いてあります。



写真EH: 総合文化公園の駐車場への出入り口です。 ゲートが開いています。 南東を見たものです。



写真EI: 中央に宮崎県立芸術劇場、左に宮崎県立美術館、駐車場があります。 東を見たものです。



写真EJ: 駐車場の外灯も見えます。 右の建物は宮崎県立芸術劇場、左は宮崎県立美術館です。



写真EK: 北を見たものです。 宮崎県総合文化公園の駐車場です。



写真EL: 左は文化公園管理事務所です。 北を見たものです。



写真EM: 文化公園管理事務所。



写真EN: 右は文化公園管理事務所、左は車道です。



写真EO: 南西を見たものです。 先程 (さきほど)の赤い飲料水の自動販売機が小さく見えます。



写真EP: 南を見たものです。 手前は総合文化公園の出入り口です。



写真EQ: 「とまれ」と地面に書いてあります。



写真ER: 東を見たものです。 左端は宮崎県立芸術劇場です。



写真ES: かなり広い駐車場です。 宮崎県立芸術劇場が見えます。



写真ET: 北を見たものです。 右寄 (よ)り木の奥に美術館が見えます。



写真EU: 北西を見たものです。



写真EV: 奥に文化公園管理事務所が見えます。 西を見たものです。



写真EW: 左は車道です。



写真EX: 車道と民間の建物が見えます。



写真EY: 車道、歩道があります。 その手前は総合文化公園です。 南東を見たものです。



写真EZ: 手前の木はツツジと思われます。 東を見たものです。



写真FA: トイレです。 飲料水の自動販売機があります。



写真FB: 総合文化公園には多くの木があります。



写真FC: 宮崎県総合文化公園の桜の花です。 下にベンチ、遊歩道があります。



写真FD: 桜の花と奥に芝生広場 (しばふひろば)があります。 地面に桜の花びらが散っています。



写真FE: 桜の花と奥に楠 (くすのき)があります。



写真FF: 丸く剪定 (せんてい)してある木はツツジと思われます。



写真FG: 右はトイレです。



写真FH: 総合文化公園のトイレです。



写真FI: 桜の花のライトアップの照明があります。



写真FJ: 地面に散った桜の花です。



写真FK: 宮崎県総合文化公園の桜の花です。



写真FL: ツツジの花が咲いています。



写真FM: 桜の木です。



写真FN: 遊歩道が見えます。



写真FO: 宮崎県立美術館が見えます。



写真FP: 木の幹 (みき)です。



写真FQ: 木のそばに遊歩道があります。



写真FR: トイレが見えます。



写真FS: 右はツツジの木です。



写真FT: 奥に芝生広場 (しばふひろば)が見えます。



写真FU: 木立の下に遊歩道があります。



写真FV: 宮崎県立芸術劇場が見えます。



写真FW: 宮崎県立芸術劇場は音楽会、歌舞伎 (かぶき)などが公演されます。



写真FX: 左は宮崎県立美術館、右は宮崎県立芸術劇場です。



写真FY: 宮崎県立美術館です。



写真FZ: 美術館の西にも桜の木があります。



写真GA: 桜並木です。



写真GB: 左奥に芝生広場 (しばふひろば)があります。



写真GC: 来た遊歩道を振 (ふ)り返ったものです。



写真GD: 桜の木、ツツジの木、トイレなどがあります。



写真GE: 桜の木の下にライトアップの照明が見えます。



写真GF: 奥に宮崎県立芸術劇場が見えます。



写真GG: 宮崎県立美術館の西の桜の花です。



写真GH: 右は宮崎県立美術館です。



写真GI: 桜の花びらと萼 (がく)です。



写真GJ: 宮崎県立美術館のそばの桜並木です。



写真GK: 芝生広場 (しばふひろば)が見えます。



写真GL: ここは広い遊歩道になっています。



写真GM: 丸い外灯があります。 中央左に赤と白のUMKアンテナ塔が見えます。



写真GN: 宮崎県総合文化公園からみた赤と白のUMKアンテナ塔です。 UMKは祇園 (ぎおん)にあります。 総合文化公園の丸い時計もあります。



写真GO: 左に面白 (おもしろ)い形のベンチがあります。



写真GP: 散歩の人たちです。



写真GQ: 左は宮崎県立美術館、右は宮崎県立芸術劇場です。



写真GR: 西から宮崎県立美術館に入る階段です。



写真GS: 県立美術館の北の部分です。



写真GT: 桜並木があります。



写真GU: 芝生広場です。



写真GV: 芝生広場の中の遊歩道です。



写真GW: 外灯があります。



写真GX: 宮崎県立美術館です。 宮崎県総合文化公園の中にあります。 中央に美術的な造形物があります。 西から見たものです。
「宮崎県総合文化公園」は宮崎県 宮崎市 船塚 3丁目 にあります。
宮崎県総合文化公園は置県100年記念事業として、1995年 (平成7年)3月に完成しました。 宮崎大学農学部の跡地に2つの広場と3つの文化施設 (宮崎県立 芸術劇場、宮崎県立 美術館、宮崎県立 図書館)があります。 面積は16.5 ha でソメイヨシノ (桜)や八重桜 (ヤエザクラ)などが約110本あります。 宮崎県の桜の開花宣言で用いられる桜の基準木もここにあります。 ショウブ園ではショウブの花も咲きます。 敷地は東西 450 m、南北 370 m です。 東側に芸術劇場、美術館、図書館、文化広場があり、西側に県民広場があります。 文化広場には彫刻、噴水、石畳 (いしだたみ)、芝生 (しばふ)、木があります。 県民広場には芝生広場、しょうぶ園、石の広場があります。 宮崎県の偉人である石井十次、小村寿太郎、安井息軒、高木兼寛、若山牧水、川越進の銅像が敷地内にあります。



写真GY: 県立美術館です。



写真GZ: 県立美術館のそばから見た桜並木です。



写真HA: 桜並木です。 宮崎県総合文化公園です。



写真HB: 県立美術館の階段から見た景色です。 西を見たものです。



写真HC: 南西を見たものです。



写真HD: 南を見たものです。



写真HE: 左は県立美術館、右は県立芸術劇場です。



写真HF: 宮崎県立美術館です。
「宮崎県立美術館」は宮崎県 宮崎市 船塚 3-210 にあります。 延床面積は10333 平方メートル、地下1階、地上3階、高さ23 m 。



写真HG: 桜並木の桜の花です。



写真HH: 3つの桜のライトアップのための照明が見えます。 このあたりは桜の時期に夜になるとライトアップされます。



写真HI: 桜の木です。



写真HJ: 桜の花です。



写真HK: 右は県立美術館です。



写真KL: 奥に宮崎県立図書館が見えます。



写真KM: 桜並木です。



写真KN: 西から見た宮崎県立図書館です。



写真KO: 県立図書館です。



写真KP: 右は県立図書館です。 北東を見たものです。



写真KQ: 北を見たものです。



写真KR: 総合文化公園です。



写真KS: 宮崎県総合文化公園です。



写真KT: 遊歩道です。



写真KU: 左に県立美術館が見えます。



写真KV: 北から見た宮崎県立美術館です。



写真KW: 右は県立美術館、左は県立図書館です。



写真KX: 西から見た宮崎県立図書館です。



写真KY: 宮崎県立芸術劇場、宮崎県立美術館、宮崎県立図書館に囲 (かこ)まれた敷石 (しきいし)のある広場 (文化広場)です。 右に造形物があります。 東を見たものです。



写真KZ: 右に県立芸術劇場が見えます。 手前は文化広場です。



写真LA: 北から見た宮崎県立芸術劇場です。 大きな木 (ユーカリの木)もあります。
「宮崎県立芸術劇場 (県民文化センター)」は宮崎県 宮崎市 船塚 3-210 にあります。 1993年に開館しました。 パイプオルガンが設置されているアイザックスターンホール (1818席)と演劇ホール (1112席)、イベントホール (多目的ホール、移動式300席)、練習場、資料閲覧室などがあります。 運営は財団法人 宮崎県立劇場です。



写真LB: 南西を見たものです。 左は県立芸術劇場、右は県立美術館です。



写真LC: 東から見た宮崎県立美術館です。 入り口も見えます。 手前は文化広場です。



写真LD: 県立美術館です。



写真LE: 右は宮崎県立図書館です。 左は宮崎県立美術館です。
「宮崎県総合文化公園」は宮崎県 宮崎市 船塚 3丁目 にあります。
宮崎県総合文化公園は置県100年記念事業として、1995年 (平成7年)3月に完成しました。 宮崎大学農学部の跡地に2つの広場と3つの文化施設 (宮崎県立 芸術劇場、宮崎県立 美術館、宮崎県立 図書館)があります。 面積は16.5 ha でソメイヨシノ (桜)や八重桜 (ヤエザクラ)などが約110本あります。 宮崎県の桜の開花宣言で用いられる桜の基準木もここにあります。 ショウブ園ではショウブの花も咲きます。 敷地は東西 450 m、南北 370 m です。 東側に芸術劇場、美術館、図書館、文化広場があり、西側に県民広場があります。 文化広場には彫刻、噴水、石畳 (いしだたみ)、芝生 (しばふ)、木があります。 県民広場には芝生広場、しょうぶ園、石の広場があります。 宮崎県の偉人である石井十次、小村寿太郎、安井息軒、高木兼寛、若山牧水、川越進の銅像が敷地内にあります。



写真LF: 宮崎県立図書館です。 北を見たものです。



写真LG: 東を見たものです。



写真LH: 敷石 (しきいし)のある広場です。 宮崎県総合文化公園。



写真LI: 宮崎県総合文化公園にある宮崎県立図書館です。



写真LJ: 宮崎県立図書館です。
「宮崎県立図書館」は宮崎県 宮崎市 船塚 3-210-1にあります。 宮崎県立図書館は1902年 (明治35年)5月28日に開館しました。 1988年5月に県総合文化公園 (宮崎大学農学部跡)に移転しました。 蔵書数は66万冊以上です。



写真LK: 「宮崎県立図書館」と彫 (ほ)ってあります。 利用ご案内が書いてあります。



写真LL: 県立図書館のそばです。 北を見たものです。



写真LM: 東を見たもの。



写真LN: 県立図書館の近くです。



写真LO: 南を見たものです。



写真LP: 県立図書館の近くです。



写真LQ: 右は県立図書館です。 左は県立美術館。 西を見たものです。



写真LR: 宮崎県立図書館です。



写真LS: 県立図書館の上部です。



写真LT: 県立図書館の東側面です。



写真LU: 「安井息軒 (やすいそくけん)の像」が宮崎県総合文化公園にあります。 北を見たものです。
「安井息軒の像」は総合文化公園の東部にあります。
幕末から明治時代にかけての儒学者(儒教の学者) 「安井息軒の旧宅(生家)」は宮崎県宮崎市 清武町 大字加納3368-1にあります。
「国指定史跡 安井息軒旧宅」の説明板から、
指定年月日 昭和54年5月22日
この地は幕末の儒学者 安井息軒の旧宅である。 息軒は寛政11年(1799年)1月1日ここで生まれた。 諱(いみな)は衡(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)といい、息軒はその号で別に半九陳人(はんきゅうちんじん)などとも称した。
 学問所で子弟の教育にあたっていた父 滄洲(そうしゅう)の影響か息軒も幼少のころから学問を好み、貧しく背が低く痘瘡面の容貌に嘲笑を受けながらも勉学に勤しんだ。 22歳で大阪の篠崎小竹に師事、26歳で江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学ぶなど苦学を重ね、次第に頭角をあらわした。
 29歳で帰郷した息軒は、森鴎外 著「安井夫人」に紹介されるように美しく聡明な川添佐代(かわそえさよ)と結婚、また滄洲と共に本史跡の向かいにあった郷校 明教堂(めいきょうどう) 創建に携(たず)わり、その助教授となって子弟の教育にあたった。 天保2年(1831年)、明教堂創建の実績が評価され、藩校 振徳堂(しんとくどう)が再興されると総裁に滄洲が、助教授に息軒が任命され、この旧宅を隣人に譲渡し飫肥城下(おびじょうか)(現 日南市飫肥)に転居する事となる。
 天保7年(1836年)、息軒は妻子と共に江戸に移住して三計塾(さんけいじゅく)を開き、長年にわたり書生を教授し谷干城、陸奥宗光ら幾多の逸材をその門下より輩出、後年は幕府儒官として昌平黌教授、奥州塙代官(はなわだいかん)を歴任し、明治新政府の下では明治天皇侍講の依頼を高齢などを理由に辞退したこともあった。 この間 「左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)」「海防私議(かいぼうしぎ)」など多くの書を著している。 
明治9年9月23日、77歳で東京に没し、遺骸は家族や門人の手で東京都文京区千駄木の養源寺に葬られた。 現在その墓は東京都の史跡に指定されている。
 この地は息軒などが飫肥に転居後居住者も幾たびか替ったが、大正12年から昭和4年にかけて当時の清武村が買い上げて公園化し、昭和54年には現存する生家ともども国の史跡指定を受けた。



写真LV: 安井息軒の像です。 腕組み (うでぐみ)をしています。



写真LW: 台座に「安井息軒」と書いてあります。



写真LX: 安井息軒の銅像の下部です。



写真LY: 安井息軒の説明が彫 (ほ)ってあります。 この安井息軒の像は昭和63年2月に宮崎県教育委員会によって建立 (こんりゅう)されました。



写真LZ: 宮崎県総合文化公園の東出入り口です。 東を見たものです。 車道があります。



写真MA: 総合文化公園です。 左は県立図書館です。 西を見たものです。



写真MB: 北を見たものです。 赤いツツジの花が咲いています。



写真MC: 県立図書館の東のところです。



写真MD: 樹 (き)の下です。



写真ME: 外の建物が見えます。



写真MF: ツツジの花が咲いています。 紫色の花です。



写真MG: 奥は宮崎神宮です。 赤いツツジの花が咲いています。



写真MH: 宮崎神宮の鎮守の森 (ちんじゅのもり)です。 鳥居 (とりい)があります。 交差点の交通信号機が見えます。 北東を見たものです。



写真MI: 宮崎神宮の森です。



写真MJ: 北西を見たものです。 マンションがあります。



写真MK: 宮崎県総合文化公園の北東の入り口です。 赤いツツジが咲いています。



写真ML: 北東入り口から見た県立図書館です。



写真MM: 宮崎県立図書館です。



写真MN: 左は歩道です。 ツツジが咲いています。



写真MO: 宮崎神宮の南西部です。 交通信号機があります。



写真MP: 宮崎神宮の南沿 (ぞ)いの道が見えます。 東を見たものです。



写真MQ: 政治家のポスターを貼 (は)ってあります。



写真MR: 宮崎神宮の鳥居 (とりい)が見えます。



写真MS: 「お知らせ 宮崎県立図書館」と書いてあります。 県立図書館の掲示板 (けいじばん)です。



写真MT: 「お知らせ 宮崎県立図書館」と書いてあります。



写真MU: ツツジの花、外灯、県立図書館が見えます。



写真MV: 県立図書館のそばにバス停留所があります。



写真MW: バス停「文化公園 宮崎交通」です。



写真MX: 総合文化公園の中の道です。



写真MY: 「高木兼寛 (たかきかねひろ)の像」が宮崎県総合文化公園にあります。 帽子 (ぼうし)をかぶっています。 北を見たものです。
「高木兼寛の像」は総合文化公園の東部にあります。
「ビタミンの父 高木兼寛(たかきかねひろ)の生誕地」は宮崎県 宮崎市 高岡町 小山田 太良山 2465-1 にあります。
 「高岡町出身 ビタミンの父 高木兼寛(たかきかねひろ、1849年~1920年)」の説明板から、
「病気を診(み)ずして病人を診よ」
 イギリスに留学中、多くの優秀賞、名誉賞を受賞し、明治13年11月に帰国した高木兼寛は、海軍中医監と同時に東京海軍病院長に命じられました。 このころの日本の海軍では、軍艦乗組員のなかに かつけ病患者が続出していました。 海軍軍医だった兼寛は、このかつけ病の絶滅に取り組みました。 
 このころ、かつけ病は細菌による伝染病と考えられていましたが、兼寛は、かつけ病は食事の栄養欠陥からおこると考え、「兵食改善」によるかつけ病の予防法に取り組みました。 そして、ようやく軍艦「筑波(つくば)」の航海実験をすることになりました。
 さきに、軍艦「龍驤」の航海で、乗組員の半数がかつけ病となり、「病者多し、航海できぬ金送れ」という悲痛な電報が龍驤から送られていたものが、兵食を改善した「筑波」から送られた電報は、「病者一人もなし、安心あれ」というものでした。 このことによって、兼寛の予防法が広く世界に認められることになりました。
 その後、ビタミンが発見され、かつけ病はビタミンB1の欠乏から起こることが分かりました。 イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは、世界の8大ビタミン学者を写真入りで紹介し、そのなかで兼寛を2番目にとりあげ、偉大な業績を紹介しています。
 また兼寛は、東京慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらに、宮崎神宮の大造営など多くの偉業を成しとげました。
「病気を診(み)ずして病人を診よ」という兼寛の言葉は大変有名です。



写真MZ: 台座に「高木兼寛」と書いてあります。



写真NA: 「高木兼寛の説明」が台座に彫 (ほ)ってあります。



写真NB: 高木兼寛の銅像は昭和63年8月に建立 (こんりゅう)されました。



写真NC: 高木兼寛の足元に「平成元年」と彫 (ほ)ってあります。



写真ND: 「宮崎県総合文化公園」と書いてある石碑 (せきひ)があります。 奥に県立美術館が見えます。



写真NE: 宮崎県総合文化公園の説明が彫 (ほ)ってあります



写真NF: 「宮崎県総合文化公園の配置図」があります。



写真NG: 右奥に宮崎神宮の鎮守の森 (ちんじゅのもり)が見えます。 北を見たものです。 バス停留所が見えます。 この車道を奥に進むと池内町などに行きます。



写真NH: 北東を見たものです。 文化公園前通りです。



写真NI: 東を見たものです。 文化公園前通りです。



写真NJ: 南東を見たものです。



写真NK: 南を見たものです。



写真NL: 南西を見たものです。 右は県立美術館、左は県立芸術劇場です。



写真NM: 西を見たものです。 文化広場、県立美術館などが見えます。



写真NN: 北西を見たものです。 県立図書館が見えます。



写真NO: 北を見たものです。



写真NP: 「若山牧水の像」が宮崎県総合文化公園にあります。 南を見たものです。 右は宮崎県立芸術劇場です。
「若山牧水の像」は総合文化公園の東部にあります。
「若山牧水 生家」は宮崎県 日向市 東郷町 大字坪谷 1271 にあります。 若山牧水生家は昭和41年に「県史跡」に指定されました。
 若山牧水の号(牧水)は「牧はマキ、即(すなわ)ち母の名である。 水はこの渓(けい、坪谷川のこと。)や雨やから来たものであった。」と本人が述べています。 また、「ものごころつく頃から痛くこの渓(けい、谷川のこと。)と山の雨を愛した。」とも述べています。 若山牧水は酒を飲まないと歌も揮毫(きごう、書画をかくこと。)もできなかったほどでした。 「旅」・「酒」・「寂」を愛し続けました。
 若山牧水の生家は江戸時代末期に、埼玉県 所沢市の農家として生まれた祖父の健海(医師でした。)によって造られました。 父 立蔵も医師でした。 生家は幾度か改修され70 % 以上の木材は新しいものですが、原型を保っています。 敷地内につるべ式井戸、馬小屋、風呂場、トイレなどもあり、玄関には大きな桜の木とセンダンの木があります。 低山と坪谷川(耳川の上流です。)のあいだに、石垣(いしがき)のある牧水生家があります。 裏山の峠(とうげ)には自然石に彫(ほ)られた「牧水歌碑」があります。 牧水はこの大きな石の上に座布団(ざぶとん)を敷いて、尾鈴連山 (尾鈴山系、尾鈴連峰)や坪谷川などの美しい風景を眺(なが)めていました。 特に雨の尾鈴山が好きだったようです。 子供の頃は家族たちなどとよく家の南を流れる坪谷川でアユ釣りをしていました。 牧水の歯が痛くて泣いていると母(マキ)が背負(せお)ってアユ釣りに連れて行ったこともあり、その短歌もあります。 牧水が亡くなったときにはまだ母(マキ)は存命中で、牧水の分骨はその後亡くなった母に抱かせて、いっしょに坪谷にある墓に眠っています。
 若山牧水のおじいさんは健海(医師)、おばあさんはカメ、お父さんは立蔵(医師)、お母さんはマキ、父の弟(おじさん)は純曽(医師)です。
牧水(本名は繁)のお姉さんはスエ、トモ、シヅです。
牧水の妻は歌人の喜志子で、旅人(長男)、岬子、真木子、富士人の4人の子供に恵まれました。
若山牧水は同人誌の赤字、静岡県 沼津市 (牧水は晩年の8年間を沼津で暮らしました。 沼津市に若山牧水記念館があります。)に建てた豪邸などの多額の借金のため、苦難の「揮毫(きごう、書や画を書くこと。)の旅」を行いました。 これが詠歌、石碑にも影響していることでしょう。
 牧水公園の、若山牧水の銅像の台座にある「若山牧水 略年譜(りゃくねんぷ)」から、
明治18年8月24日 医師 若山立蔵の長男として当時の東郷村坪谷1番地(現在地)に生まれ、繁と命名された。 母はマキ。 29年3月 坪谷尋常小学校卒業。 32年3月 延岡高等小学校3年修業。 4月 県立延岡中学校 第1回生として入学。 36年 この秋、初めて「牧水」の号を用いる(牧水18歳のとき。)。 37年3月 延岡中学校卒業。 4月 早稲田大学英文学科高等予科に入学。 40年6月 暑中休暇で帰省(故郷に帰ること。)の途中、「幾山河」の名歌を詠(よ)む(牧水21歳のとき。)。 41年7月 早稲田大学英文学科を卒業。 同月 第1歌集「海の声」を出版する。 44年1月 創作社をおこす。 45年5月 太田喜志子と結婚(牧水26歳のとき。)。 大正9年8月 静岡県沼津町在上呑貫に移る。 14年10月 沼津市市道町の新築の家に移る。 昭和3年9月17日 午前7時58分永眠、享年43歳。 戒名(かいみょう) 古松院仙誉牧水居士。



写真NQ: 若山牧水の像です。 左手で傘 (かさ)を左肩に載 (の)せています。 いかにも牧水らしいポーズです。



写真NR: 若山牧水の像の台座です。



写真NS: 「若山牧水の和歌」を彫 (ほ)ってあります。



写真NT: 宮崎県総合文化公園の若山牧水の銅像は昭和62年3月に建立 (こんりゅう)されました。



写真NU: 「若山牧水 (1883年~1928年)の説明」が書いてあります。



写真NV: このように傘 (かさ)を左肩に載 (の)せています。 宮崎県総合文化公園の若山牧水の像です。



写真NW: 古い木があります。 これはおそらく宮崎大学農学部がここにあったときからの木でしょう。 奥は県立芸術劇場。



写真NX: 木の中部です。



写真NY: 木の上部です。



写真NZ: 左は車道です。



写真OA: 南を見たものです。 右は県立芸術劇場です。



写真OB: 北東から見た宮崎県立芸術劇場です。
「宮崎県総合文化公園」は宮崎県 宮崎市 船塚 3丁目 にあります。
宮崎県総合文化公園は置県100年記念事業として、1995年 (平成7年)3月に完成しました。 宮崎大学農学部の跡地に2つの広場と3つの文化施設 (宮崎県立 芸術劇場、宮崎県立 美術館、宮崎県立 図書館)があります。 面積は16.5 ha でソメイヨシノ (桜)や八重桜 (ヤエザクラ)などが約110本あります。 宮崎県の桜の開花宣言で用いられる桜の基準木もここにあります。 ショウブ園ではショウブの花も咲きます。 敷地は東西 450 m、南北 370 m です。 東側に芸術劇場、美術館、図書館、文化広場があり、西側に県民広場があります。 文化広場には彫刻、噴水、石畳 (いしだたみ)、芝生 (しばふ)、木があります。 県民広場には芝生広場、しょうぶ園、石の広場があります。 宮崎県の偉人である石井十次、小村寿太郎、安井息軒、高木兼寛、若山牧水、川越進の銅像が敷地内にあります。



写真OC: 西を見たものです。 左は県立芸術劇場、右は県立美術館です。



写真OD: 若山牧水の像と左に文化広場が見えます。 北西を見たものです。



写真OE: 北を見たものです。 左に若山牧水の銅像があります。



写真OF: 北東を見たものです。



写真OG: 東を見たものです。



写真OH: 南東を見たものです。



写真OI: 南を見たものです。 右は県立芸術劇場です。



写真OJ: 西を見たものです。 左は県立芸術劇場、右は県立美術館です。



写真OK: 西を見たものです。 左は県立芸術劇場、右は県立美術館。 旗 (はた)も見えます。



写真OL: 南を見たものです。 右は県立芸術劇場。



写真OM: 「文化公園前」交差点です。 この出入り口の両側に1対 (つい)の宮崎大学農学部の「門柱」がありました。 その門柱は敷地の南東部に移されて残っています。 北を見たものです。



写真ON: 東を見たものです。 神宮南通りです。



写真OO: 東を見たもの。 神宮南通り。



写真OP: 南東を見たものです。



写真OQ: 奥に進むと宮崎市の中心部に行きます。



写真OR: お菓子 (かし)の「水野屋 P」と書いてある看板 (かんばん)が見えます。 南東を見たものです。



写真OS: 南を見たものです。 右は宮崎県総合文化公園。



写真OT: 「送迎車」の看板 (かんばん)があります。 奥は県立芸術劇場です。



写真OU: 西を見たものです。 宮崎県立芸術劇場が見えます。 手前は東出入り口です。 この出入り口の両側に1対 (つい)の宮崎大学農学部の「門柱」がありました。 その門柱は敷地の南東部に移されて残っています。



写真OV: 北西を見たものです。 左は県立芸術劇場です。 この出入り口の両側に1対 (つい)の宮崎大学農学部の「門柱」がありました。 その門柱は敷地の南東部に移されて残っています。



写真OW: 北を見たものです。



写真OX: 「文化公園前通り」、「神宮南通り」と書いてあります。



写真OY: 「第19回宮崎国際音楽祭」と書いてある看板 (かんばん)があります。



写真OZ: 「宮崎県総合文化公園」の宮崎県宮崎土木事務所による配置図があります。



写真PA: 「メディキット県民文化センター」の掲示板 (けいじばん)があります。



写真PB: 「メディキット県民文化センター」の掲示板 (けいじばん)。



写真PC: 「宮崎県立美術館」と書いてあります。



写真PD: 「宮崎県立美術館の掲示板 (けいじばん)」です。



写真PE: 「宮崎県立美術館の掲示板 (けいじばん)」。



写真PF: 「←宮崎県総合文化公園、文化センター、美術館、図書館」と書いてある標識があります。 北を見たものです。 右の森は宮崎神宮です。



写真PG: 南を見たものです。



写真PH: 右は県立芸術劇場です。 この出入り口の両側に1対 (つい)の宮崎大学農学部の「門柱」がありました。 その門柱は敷地の南東部に移されて残っています。



写真PI: 北を見たものです。 この出入り口の両側に1対 (つい)の宮崎大学農学部の「門柱」がありました。 その門柱は敷地の南東部に移されて残っています。



写真PJ: 左に県立芸術劇場が見えます。



写真PK: 西を見たものです。 県立芸術劇場です。



写真PL: 左寄 (よ)りに銅像があります。



写真PM: 南を見たものです。



写真PN: 東出入り口の近くです。



写真PO: 大きなクスノキがあります。



写真PP: 東出入り口のそばです。



写真PQ: 奥は神宮南通りです。 この出入り口の両側に1対 (つい)の宮崎大学農学部の「門柱」がありました。 その門柱は敷地の南東部に移されて残っています。



写真PR: 東出入り口のそばに大きな楠 (くすのき)があります。 この出入り口の両側に1対 (つい)の宮崎大学農学部の「門柱」がありました。 その門柱は敷地の南東部に移されて残っています。



写真PS: 「メディキット県民文化センター」、「美術館」、「図書館」の道しるべがあります。



写真PT: 「川越進の像」があります。 奥は県立芸術劇場です。 西を見たものです。 宮崎県総合文化公園。
「川越進の像」は総合文化公園の東部にあります。
川越進 (1848年 (嘉永元年)~1914年 (大正3年))は清武郷 木原村 (現在の宮崎市 清武町)で生まれました。 分県運動の中心人物です。 父は飫肥藩 (おびはん)の勘定方をしていました。 郷校の明教堂で8歳から16歳まで勉強しました。 明教堂は安井息軒とその父が創建したもので、安井息軒旧宅の向かいにありました。 1871年の廃藩置県で、佐土原県など6つの県が短期間出来ましたが、その後、日向国は美々津県と都城県になりました(境界は大淀川)。 1873年、これが統合して宮崎県になりました。 1876年、鹿児島県に統合され、宮崎県は一時なくなりました。 1883年に鹿児島県から独立して現在の宮崎県が出来ました (このときに川越進たち有志が分県運動をしました。)。 日向国の有志たちの私財を使った約3年間の運動で再び1883年 (明治16年)に宮崎県が出来ました。 7月1日に県庁が設置され、川越進は初代の宮崎県会議長になりました。 1890年 (明治23年)には衆議院議員となりました。



写真PU: 右手に杖 (つえ)を持った川越進の銅像です。



写真PV: 川越進の像の下部です。



写真PW: 川越進の像の台座です。



写真PX: 川越進 (1848年~1914年)の説明が彫 (ほ)られています。



写真PY: 宮崎県文化公園の「川越進の像」は平成12年11月に建立 (こんりゅう)されました。



写真PZ: 中央奥に宮崎大学農学部がここにあったときの門柱が移動して置いてあります。 昔の宮崎大学農学部の門柱は今の宮崎県総合文化公園の東出入り口にありました。



写真QA: これが宮崎大学農学部がここにあったときの門柱と左の説明板です。 昔の宮崎大学農学部の門柱は今の宮崎県総合文化公園の東出入り口にありました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)