王楽寺、福智神社、大将軍神社、平家の武将 藤原景清 (ふじわらかげきよ)公 (俗に悪七兵衛景清)の守り本尊である久保千手観音 (神話の山彦 (山幸彦)が生まれ育った所に福智神社や王楽寺があります。国指定有形重要文化財 (彫刻)の木造薬師如来及び両脇侍像、ツワブキの花、紅葉したカエデ、サザンカ、イチョウの木、鳥居 (とりい)にツタが茂った福智神社、竹篠(しの)山 王楽寺霊園、瓜生野 (うりゅうの)の六地蔵塔、大将軍神社 (鳥居建て替え中)、上村自治公民館、久保観音堂 (岩坂山小原観音、千手観世音 (せんじゅかんぜおん)))  (宮崎県 宮崎市 大字瓜生野)







<標高、位置>  王楽寺と福智神社は
標高 約80 m
 北緯31度58分10秒  東経131度23分48秒

<標高、位置>  久保千手観音は
標高 約80 m
 北緯31度58分37秒  東経131度23分55秒

<標高、位置>  大将軍神社は
標高 約80 m
 北緯31度58分10秒  東経131度23分44秒

<標高、位置>  垂水公園 (だるみずこうえん)の南の「十字路」は
標高 約90 m
 北緯31度58分55秒  東経131度23分57秒


 「王楽寺」は宮崎県 宮崎市 大字瓜生野 1068 にあります。
王楽寺は天台宗で、竹篠山 西方院 王楽寺と称 (しょう)します。 比叡山 (ひえいざん) 延暦寺 (えんりゃくじ)の末寺です。 伝道大師 (最澄 (さいちょう))の開山と言われます。 別の説では養老年間 (奈良時代、717年~724年)の創建とも言われます。 ホオリノミコト (山幸彦)がここで生まれ育ちました。 ニニギノミコトがこの地は「朝日、夕日が当たり良い所 (王道楽土)。」と言われたことにちなんで王楽寺という名前になりました。 竹篠山は山上に山幸彦ゆかりの高屋山稜 (峯原古墳)があり、山腹には横穴古墳が多くあります。 王楽寺は山岳仏教、修験道の本山として栄えました。 天正 (1573年~1592年)・慶長 (1596年~1615年)時代には12支院を持っていました。 今は地区の人たちが管理している久保観音堂、竹原田薬師堂、平松弥勒堂は元は王楽寺の境外 (けいがい)仏堂でした。 慶長5年 (1600年)池内の宮崎城が清武の稲津掃部助 (いなづかもんのすけ)によって落城して以来、王楽寺は衰退して、元は大伽藍 (だいがらん)があったものが、現在は王楽寺だけになりました。 宮崎城は王楽寺から谷で隔 (へだ)てた東約 1 km の山の上にあります。 王楽寺と宮崎城は親密な関係がありました。 王楽寺は文政13年 (江戸時代後期、1830年)に火災になりました。 明治4年12月27日に廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)で廃寺になりましたが、明治16年12月24日に再興されました。 国指定 重要文化財の薬師如来、日光菩薩、月光菩薩があります。

 「種別 有形重要文化財 (彫刻) 名称 木造薬師如来及び両脇侍像」の説明板から、
指定年月日 昭和19年9月5日 国指定
 王楽寺の御本尊薬師三尊は中央に、薬師如来を置き、左脇侍に日光菩薩 右脇侍に月光菩薩を置いている。
 この薬師三尊は、王楽寺が12支院をようし、天正 (1573年~1592年)、慶長 (1596年~1615年)年間 (室町時代)に最も栄えた時期、また文政 (1818年~1830年) 13年7月の火災、明治4年12月の廃寺、明治16年10月の再興といった盛衰の時期を経 (へ)ている。
 昭和26年9月に専門の仏師により、修復塗替を行っているが、ちょっとの毀損 (きそん、傷をつけること。)もなく、慈光に輝く尊容をととのえている。 なお薬師三尊は鎌倉初期に彫刻されたものと推定されるが、作風は平安時代の彫刻技法を用いたものと思える。

 王楽寺の本堂の東にある「十輪院聖瑜法印の墓」の説明板から、
聖瑜法印は綾城 地頭 長倉狭守の弟に当たる 若狭守は稲津越前守のざん訴により切腹の身となる。 更 (さら)に若年の2人の子供まで殺害される。 聖瑜法印 大 (おお)いに立腹し、霧島御池に3、7日間の呪詛 (じゅそ)の立行に入る。 呪詛 (じゅそ)の障碍 (しょうがい)により稲津 家も断絶となる。 聖瑜法印はその後 高野山に居住す。 伊東義祐 公の再々にわたる 国の勧めにも応ぜず、名大 (みょうだい、代理のこと。)として實誉僧正を下し給 (たま)う。 實誉僧正 鵜戸大権現社 第34代別当となる。 聖瑜法印 晩年 山王楽寺にて遷化 (うつりかわること。)す。

 「福智神社」は王楽寺の東隣 (とな)り (王楽寺の境内 (けいだい))にあります。
神話の山彦 (山幸彦)を祀 (まつ)っています。
福智神社にある「福智大権現」の看板 (かんばん)から、
御祭神 彦火々出見尊 (ヒコホホデミノミコト、山幸彦のことです。)、彦火々出見尊 竹篠山 (福智神社がある山です。)を御誕辰 (たんしん、生まれた日。)の地となす。 乳芳石は、御母君、木ノ花咲耶姫 (コノハナサクヤヒメ)を祀 (まつ)る。 安産の女神として霊顕あらたかなり。

久保観音堂にある「岩坂小原観音 由来記」の説明板から、
 通称「久保千手観音」と称す。
 奈良朝時代の名僧 行基菩薩、一刀三礼の御作といわれまた、平家の武将 藤原景清 (ふじわらかげきよ)公 (俗に悪七兵衛景清)の守り本尊として有名である。
自 (みずか)ら両眼を抉 (えぐ)り抜 (ぬ)いて盲目となり、恩讐 (おんしゅう)を超えて、仏門に帰依 (きえ)し、ひたすら平家一門の菩提 (ぼだい)を弔 (とむら)うため念仏三昧 (ねんぶつざんまい)に余生を送った景清 公である。
 文治2年 (1186年) 日向勾頭 (こうとり)として下向 (げこう)の砌 (みぎり、時の意味です。)、守り本尊として遥々 (はるばる)、鎌倉より背負 (せお)い来られ、当山に鎮座申し上げたと伝えられている。
下北の景清廟 (びょう)、生目の生目神社ともども豪勇無双の生目義士 景清 公ゆかりの由緒ある霊山である。

 地名の「瓜生野 (うりゅうの)」は第12代 景行天皇がここで休息された時に「ここは良い瓜 (うり)の生 (は)える土地だ。」と言われたことに由来 (ゆらい)しています。


写真A: 垂水公園 (だるみずこうえん)の南の十字路です。 このあたりは標高約90 m です。 左右に農免道路が通っています。 奥 (北)に進むと垂水公園、手前に進むと久保千手観音、王楽寺、福智神社、大将軍神社があります。 右に進むと池内町、左に進むと国富町に行きます。



写真B: 垂水公園 (だるみずこうえん)に行く道の桜並木が見えます。 北を見たものです。



写真C: 南を見たものです。 左に王楽寺の国指定重要文化財の木造薬師如来、両脇侍像3軀の標柱が見えます。 先に進むと瓜生野 (うりゅうの)に行きます。 そこに王楽寺、福智神社、久保千手観音、大将軍神社があります。 



写真D: 「→国指定重要文化財 木造薬師如来及び両脇侍像3軀 (く)、花まつりで逢 (あ)いましょう 王楽寺の仏様、宮崎市教育委員会」と書いてある標柱があります。



写真E: 「→国指定重要文化財 木造薬師如来及び両脇侍像3軀 (く)、花まつりで逢 (あ)いましょう 王楽寺の仏様、宮崎市教育委員会」と書いてある標柱です。



写真F: 「→国指定重要文化財 木造薬師如来及び両脇侍像3軀 (く)、花まつりで逢 (あ)いましょう 王楽寺の仏様、宮崎市教育委員会」と書いてある標柱。



写真G: このあたりは下り坂です。 南を見たものです。 先に進みます。 送電線鉄塔があります。



写真H: 十字路を振 (ふ)り返ったものです。 白い標柱、桜並木が見えます。 北を見たもの。 



写真I: 南を見たものです。 銀色の上水タンクの手前に小さく大将軍神社の鳥居 (とりい)が見えます。 左に進むと王楽寺、福智神社があります。
地名の「瓜生野 (うりゅうの)」は第12代 景行天皇がここで休息された時に「ここは良い瓜 (うり)の生 (は)える土地だ。」と言われたことに由来 (ゆらい)しています。



写真J: 王楽寺に行く三叉路 (さんさろ)に六地蔵塔と両側に石があります。 西を見たものです。



写真K: 右は瓜生野の六地蔵塔です。 石、左にミラーもあります。



写真L: 瓜生野の六地蔵塔の上部です。 地蔵の像を6つ彫 (ほ)ってあります。



写真M: 瓜生野の六地蔵塔の中部です。



写真N: 瓜生野の六地蔵塔の下部です。



写真O: 瓜生野の六地蔵塔に「天保 (江戸時代後期、1830年~1844年) 3年」と彫 (ほ)ってあります。



写真P: 左手側に王楽寺、その少し奥に大将軍神社に行く道があります。 銀色の上水タンクの手前に大将軍神社の鳥居 (とりい)があります。 奥 (南)に進むと宮崎瓜生野郵便局の近くで県道26号に出ます。



写真Q: 三叉路 (さんさろ)に「王楽寺←」と書いてある標識があります。



写真R: 今丁度 (ちょうど)大将軍神社の鳥居 (とりい)の建て替 (か)え中でした。 古い鳥居のそばに新しい鳥居の土台としてコンクリートとボルトが見えます。 奥に大将軍神社の社 (やしろ)、その右に手水舎 (ちょうずや)も見えます。 右手前は銀色の上水タンクです。 東を見たものです。



写真S: 瓜生野 大将軍神社の古い鳥居 (とりい)とそばに新しい鳥居のコンクリートとボルトの土台が見えます。



写真T: 左が大将軍神社の社殿、右が手水舎 (ちょうずや)です。 その間に新しい鳥居 (とりい)を横に寝かせてあります。 社殿の左に石造物も見えます。 東を見たものです。



写真U: 大将軍神社の手水舎 (ちょうずや)です。 南を見たものです。



写真V: 新しい鳥居 (とりい)を地面に寝かせてあります。 右上は手水舎 (ちょうずや)の屋根です。 奥に子供が遊ぶ鉄棒、竹林、柵 (さく)もあります。



写真W: 宮崎市 瓜生野にある大将軍神社です。 しめ縄、御幣 (ごへい)もあります。 左に石造物、右に新しい鳥居を寝かせたものが見えます。 東を見たものです。



写真X: 古い墓と思われます。 右端は大将軍神社の社殿です。



写真Y: 墓に「文政 (江戸時代後期、1818年~1830年) 12年」と彫 (ほ)ってあります。



写真Z: 大将軍神社の社殿を横から見たものです。 左に新しい鳥居 (とりい)を地面に寝かせてあります。



写真AA: 手水舎 (ちょうずや)が見えます。 その右に新しい鳥居 (とりい)、大将軍神社の社殿があります。



写真AB: この準備中の新しい鳥居 (とりい)は古い鳥居のそばに建てられます。



写真AC: 手水舎 (ちょうずや)の中に扇型 (おうぎがた)の御手洗 (みたらい)があります。 柄杓 (ひしゃく)が御手洗の中にあります。 左に灰皿も見えます。



写真AD: 野草の「ツワブキの花」が咲いていました。



写真AE: 大将軍神社の古い鳥居のそばに新しい鳥居の土台が今造られています。 コンクリートの中にボルトが見えます。



写真AF: 新しい鳥居の土台を工事中です。



写真AG: 大将軍神社のそばの三叉路 (さんさろ)に「花まつりで逢 (あ)いましょう王楽寺の仏様」と書いてある標柱があります。



写真AH: 東を見たものです。 右が王楽寺の駐車場です。 孟宗竹 (もうそうだけ)の竹林があります。 奥の左に福智神社があります。



写真AI: 駐車場の奥 (南)に墓地があります。



写真AJ: 墓地の東側にテーブルとベンチがあります。 南を見たものです。



写真AK: 王楽寺のベンチのそばから下方の景色が見えます。 白く見える大淀川、中央の薄く見える花切山 (標高 669.2 m )、左下に溜池 (ためいけ)の二反田上池、送電線鉄塔などが見えます。 南南東を見たものです。



写真AL: 右から遠くに花切山 (標高 669.2 m )、送電線鉄塔、大淀川の水面、二反田上池などが見えます。 南東を見たものです。



写真AM: 王楽寺のそばから二反田上池も見えます。 王楽寺は標高約80 m です。



写真AN: 標高約 80 m の王楽寺のそばから大淀川の相生橋 (あいおいはし)が見えます。 遠くの山は右から花切山 (標高 669.2 m )、斟鉢山 (くんぱちやま、標高 500.4 m )です。



写真AO: 右に大淀川の相生橋 (あいおいはし)や市街地が見えます。



写真AP: 左の山が「宮崎城」のある山と思われます。 手前に二反田上池が見えます。 王楽寺から見たもの。 東を見たものです。



写真AQ: 「福智神社 入口」と書いてあります。
神話の山彦 (山幸彦)を祀 (まつ)っています。



写真AR: 王楽寺の東隣 (とな)りにある福智神社です。 鳥居 (とりい)にツタが茂 (しげ)っています。 右奥に社殿が見えます。



写真AS: 左の道を手前に来ました。 中央に鐘楼 (しょうろう)、その右に本堂が見えます。 鐘楼の手前にピンクのサザンカの花が咲いていました。



写真AT: 左は鐘 (かね)つき堂、右は本堂です。 本堂の右寄りに大きなイチョウの木があります。 右端は福智神社の境内 (けいだい)です。



写真AU: 福智神社のツタがある鳥居の左にツワブキの黄色の花が咲いていました。 鳥居にしめ縄、御幣 (ごへい)もあります。 左上に紅葉したカエデが見えます。
「福智神社」は王楽寺の東隣 (とな)り (王楽寺の境内 (けいだい))にあります。
福智神社にある「福智大権現」の看板 (かんばん)から、
御祭神 彦火々出見尊 (ヒコホホデミノミコト、山幸彦のことです。)、彦火々出見尊 竹篠山 (福智神社がある山です。)を御誕辰 (たんしん、生まれた日。)の地となす。 乳芳石は、御母君、木ノ花咲耶姫 (コノハナサクヤヒメ)を祀 (まつ)る。 安産の女神として霊顕あらたかなり。



写真AV: 福智神社の鳥居のツタの葉です。 このようなツタが鳥居にまつわりついています。



写真AW: 福智神社は神話の山彦 (山幸彦)を祀 (まつ)っています。 福智神社の社殿の奥に孟宗竹 (もうそうだけ)の竹林があります。 左右にツワブキの黄色の花が見えます。 手前に石段があります。 北を見たものです。



写真AX: 「福智大権現」
御祭神 彦火々出見尊 (ヒコホホデミノミコト、山幸彦のことです。)、彦火々出見尊 竹篠山 (福智神社がある山です。)を御誕辰 (たんしん、生まれた日。)の地となす。 乳芳石は、御母君、木ノ花咲耶姫 (コノハナサクヤヒメ)を祀 (まつ)る。 安産の女神として霊顕あらたかなり。
と書いてあります。



写真AY: この石が乳芳石と思われます。
石のそばに「福智大権現」の看板 (かんばん)があります。
「福智大権現」
御祭神 彦火々出見尊 (ヒコホホデミノミコト、山幸彦のことです。)、彦火々出見尊 竹篠山 (福智神社がある山です。)を御誕辰 (たんしん、生まれた日。)の地となす。 乳芳石は、御母君、木ノ花咲耶姫 (コノハナサクヤヒメ)を祀 (まつ)る。 安産の女神として霊顕あらたかなり。
と書いてあります。



写真AZ: 福智神社に扇型 (おうぎがた)の御手洗 (みたらい)があります。



写真BA: 福智神社です。 神話の山彦 (山幸彦)を祀 (まつ)っています。



写真BB: 福智神社の上部です。 奥に孟宗竹 (もうそうだけ)の竹林があります。



写真BC: 社殿の中です。



写真BD: 社殿の側面です。



写真BE: 社殿の側面の下部です。



写真BF: 竹林の奥に王楽寺の本堂が見えます。 西を見たものです。



写真BG: 福智神社の竹林です。



写真BH: 見事なモウソウ竹です。



写真BI: 福智神社の側面です。 奥に鳥居 (とりい)が見えます。



写真BJ: 「ツワブキの花」が咲いていました。



写真BK: 福智神社にある紅葉したカエデです。 左端は鳥居 (とりい)です。 南を見たものです。



写真BL: 紅葉したカエデです。 奥に駐車場と王楽寺の墓地が見えます。



写真BM: 内側から見た福智神社の鳥居 (とりい)です。



写真BN: 鳥居の下部です。 境内 (けいだい)は苔 (こけ)むしています。 右にツワブキの花があります。



写真BO: 福智神社のカエデの紅葉です。



写真BP: 紅葉したカエデと福智神社の鳥居 (とりい)です。 左奥に社殿も見えます。



写真BQ: ツワブキの黄色の花、紅葉したカエデ、ツタがある鳥居 (とりい)が見えます。 福智神社です。



写真BR: 高い孟宗竹 (もうそうだけ)と紅葉したカエデです。 福智神社。



写真BS: 王楽寺です。



写真BT: 王楽寺の鐘 (かね)つき堂のそばのピンクの山茶花 (サザンカ)の花です。 奥に釣鐘 (つりがね)が見えます。 西を見たものです。



写真BU: 王楽寺の本堂と左の手水舎 (ちょうずや)です。 北西を見たものです。



写真BV: 右は王楽寺の大きなイチョウの木です。 奥は本堂。



写真BW: イチョウの木の上部です。



写真BX: 鐘 (かね)つき堂のそばの紅葉とサザンカの花です。



写真BY: 紅葉、サザンカの花、鐘つき堂です。 王楽寺。



写真BZ: 墓が見えます。 手前はアジサイのようです。



写真CA: 宮崎市 大字瓜生野にある王楽寺の本堂です。 ツワブキの黄色の花があります。



写真CB: 王楽寺の手水舎 (ちょうずや)が見えます。 左にソテツの木があります。 西を見たものです。



写真CC: 左は鐘 (かね)つき堂です。



写真CD: 王楽寺の鐘 (かね)と鐘つき堂です。 南を見たものです。



写真CE: 鐘つき堂と鐘 (かね)です。



写真CF: 右にソテツの木があります。



写真CG: 東を見たものです。 福智神社の竹林が見えます。



写真CH: 大きくて立派な御手洗 (みたらい)があります。 柄杓 (ひしゃく)が2つ見えます。 王楽寺。



写真CI: 「天台座主」の石碑 (せきひ)が御手洗 (みたらい)のそばにあります。



写真CJ: 「奉納 御手洗堂舎」と書いてあります。



写真CK: 「鐘楼 (しょうろう)再建碑」が鐘つき堂のそばにあります。 石段、松明 (たいまつ)を置く金属製のもの、左端に石灯籠 (いしどうろう)があります。 東を見たものです。



写真CL: 鐘つき堂の下部です。



写真CM: 手水舎 (ちょうずや)、本堂、ソテツの木、石灯籠 (いしどうろう)が見えます。



写真CN: 高いソテツの木と本堂です。 北を見たものです。



写真CO: 境内 (けいだい)に石灯籠 (いしどうろう)があります。 右端はソテツと本堂です。



写真CP: 奥に墓があります。 紅葉があります。 西を見たものです。



写真CQ: 円筒形の墓は和尚 (おしょう)さんの墓です。 地面は苔 (こけ)むしています。 王楽寺です。



写真CR: 境内 (けいだい)の道です。 西を見たものです。



写真CS: 石段が王楽寺にあります。 南を見たものです。 車道が見えます。 右にツワブキの黄色の花があります。



写真CT: 「種別 有形重要文化財 (彫刻) 名称 木造薬師如来及び両脇侍像」の説明板があります。
指定年月日 昭和19年9月5日 国指定
 王楽寺の御本尊薬師三尊は中央に、薬師如来を置き、左脇侍に日光菩薩 右脇侍に月光菩薩を置いている。
 この薬師三尊は、王楽寺が12支院をようし、天正 (1573年~1592年)、慶長 (1596年~1615年)年間 (室町時代)に最も栄えた時期、また文政 (1818年~1830年) 13年7月の火災、明治4年12月の廃寺、明治16年10月の再興といった盛衰の時期を経 (へ)ている。
 昭和26年9月に専門の仏師により、修復塗替を行っているが、ちょっとの毀損 (きそん、傷をつけること。)もなく、慈光に輝く尊容をととのえている。 なお薬師三尊は鎌倉初期に彫刻されたものと推定されるが、作風は平安時代の彫刻技法を用いたものと思える。
昭和47年9月 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真CU: 「種別 有形重要文化財 (彫刻) 名称 木造薬師如来及び両脇侍像」の説明板です。
指定年月日 昭和19年9月5日 国指定
 王楽寺の御本尊薬師三尊は中央に、薬師如来を置き、左脇侍に日光菩薩 右脇侍に月光菩薩を置いている。
 この薬師三尊は、王楽寺が12支院をようし、天正 (1573年~1592年)、慶長 (1596年~1615年)年間 (室町時代)に最も栄えた時期、また文政 (1818年~1830年) 13年7月の火災、明治4年12月の廃寺、明治16年10月の再興といった盛衰の時期を経 (へ)ている。
 昭和26年9月に専門の仏師により、修復塗替を行っているが、ちょっとの毀損 (きそん、傷をつけること。)もなく、慈光に輝く尊容をととのえている。 なお薬師三尊は鎌倉初期に彫刻されたものと推定されるが、作風は平安時代の彫刻技法を用いたものと思える。
昭和47年9月 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真CV: 「種別 有形重要文化財 (彫刻) 名称 木造薬師如来及び両脇侍像」の説明板。
指定年月日 昭和19年9月5日 国指定
 王楽寺の御本尊薬師三尊は中央に、薬師如来を置き、左脇侍に日光菩薩 右脇侍に月光菩薩を置いている。
 この薬師三尊は、王楽寺が12支院をようし、天正 (1573年~1592年)、慶長 (1596年~1615年)年間 (室町時代)に最も栄えた時期、また文政 (1818年~1830年) 13年7月の火災、明治4年12月の廃寺、明治16年10月の再興といった盛衰の時期を経 (へ)ている。
 昭和26年9月に専門の仏師により、修復塗替を行っているが、ちょっとの毀損 (きそん、傷をつけること。)もなく、慈光に輝く尊容をととのえている。 なお薬師三尊は鎌倉初期に彫刻されたものと推定されるが、作風は平安時代の彫刻技法を用いたものと思える。
昭和47年9月 宮崎市教育委員会
と書かれています。



写真CW: そばにある墓地の水道蛇口 (じゃぐち)、手ぬぐい、バケツなどです。 黄色のツワブキの花が見えます。



写真CX: 「竹篠 (しの)山 王楽寺」の掲示板です。 「一隅を照らす者が 国の宝だ。」、「叱 (しか)られた 恩を忘れず 墓参り。」と書いてあります。 ツワブキの花が満開でした。



写真CY: 「竹篠山 王楽寺」、「一隅を照らす者が 国の宝だ。」、「叱 (しか)られた 恩を忘れず 墓参り。」と書いてあります。



写真CZ: 「一隅を照らす者が 国の宝だ。」、「叱 (しか)られた 恩を忘れず 墓参り。」と書いてあります。



写真DA: 南を見たものです。 王楽寺の墓地のトイレです。 ツワブキの花があります。



写真DB: 奥に墓地の墓石があります。



写真DC: 西を見たものです。 右は王楽寺の境内 (けいだい)です。 紅葉したカエデ、黄色のツワブキの花が見えます。



写真DD: 王楽寺の紅葉したカエデです。



写真DE: カエデの紅葉です。



写真DF: 東を見たものです。 左に木造薬師如来及び両脇侍像の説明板があります。 右奥に駐車場があります。



写真DG: 王楽寺の石段と木造薬師如来及び両脇侍像の説明板です。 北を見たものです。



写真DH: 王楽寺の鐘つき堂です。



写真DI: 鐘つき堂の中部です。



写真DJ: 王楽寺の鐘 (かね)です。



写真DK: 「竹篠山・・・、平成4年春再鋳」と王楽寺の鐘 (かね)に書いてあります。



写真DL: 鐘 (かね)の下方です。



写真DM: 鐘つき堂の柱などです。 駐車場の車が見えます。



写真DN: 鐘つき堂から見下 (お)ろしたものです。 石段、松明 (たいまつ)を載せる鉄製のもの、石灯籠 (いしどうろう)も見えます。



写真DO: 石灯籠 (いしどうろう)の上部です。



写真DP: 石灯籠 (いしどうろう)の下部です。



写真DQ: 王楽寺の石灯籠 (いしどうろう)です。 石灯籠にツワブキの花が咲いています。 王楽寺には多くのツワブキがあります。



写真DR: 石灯籠 (いしどうろう)の下部です。



写真DS: 境内 (けいだい)の南端にある墓石です。 円筒形の墓石は和尚 (おしょう)さんの墓です。



写真DT: 円筒形の墓に「文政 (江戸時代後期、1818年~1830年) 3」と彫 (ほ)ってあります。



写真DU: 円筒形の墓に「天保 (江戸時代後期、1830年~1844年) 7年10月」と彫 (ほ)ってあります。



写真DV: 満開のツワブキの花の間に歩道があります。 西を見たものです。 王楽寺。



写真DW: 王楽寺の大きな木です。



写真DX: 境内 (けいだい)の小路 (こみち)です。 黄色のツワブキの花がたくさん咲いていました。 北を見たものです。



写真DY: 「サザンカ 宮崎市 指定番号 第178号 昭和51年3月1日」と書いてある標柱が王楽寺にあります。



写真DZ: 「サザンカ 宮崎市 指定番号 第178号 昭和51年3月1日」と書いてある標柱。



写真EA: 中央は王楽寺のサザンカの木です。



写真EB: 王楽寺のサザンカの木です。



写真EC: 王楽寺のサザンカの木の上部です。



写真ED: 王楽寺のサザンカの木の上部。



写真EE: 王楽寺の境内 (けいだい)です。 南西を見たもの。



写真EF: 王楽寺の境内 (けいだい)。 北西を見たもの。



写真EG: 「千両 (せんりょう)の実」です。 赤い実があります。



写真EH: 赤いサザンカの花が咲いていました。 地面に花びらが落ちています。 王楽寺。



写真EI: 王楽寺です。



写真EJ: 西を見たものです。



写真EK: 王楽寺の境内 (けいだい)の小道です。



写真EL: 王楽寺の南端にある円筒形の墓と大きなサザンカの木です。 東を見たものです。



写真EM: 王楽寺の南端の墓です。 奥に鐘 (かね)つき堂が見えます。



写真EN: サザンカの花びらが地面に散っていました。



写真EO: 王楽寺の本堂です。 外灯もあります。 本堂の右に大きなイチョウの木が見えます。



写真EP: 王楽寺の「寺紋 (もん)」が見えます。 鬼瓦 (おにがわら)、屋根の彫刻もあります。



写真EQ: 王楽寺の南端の墓石です。 球の上に載 (の)っています。



写真ER: 王楽寺の手水舎 (ちょうずや)と左端は本堂です。



写真ES: 「天台宗 竹篠山 王楽寺」と書いてあります。 王楽寺の本堂です。 右奥に大きなイチョウの木があります。
「王楽寺」は宮崎県 宮崎市 大字瓜生野 1068 にあります。
王楽寺は天台宗で、竹篠山 西方院 王楽寺と称 (しょう)します。 比叡山 (ひえいざん) 延暦寺 (えんりゃくじ)の末寺です。 伝道大師 (最澄 (さいちょう))の開山と言われます。 別の説では養老年間 (奈良時代、717年~724年)の創建とも言われます。 ホオリノミコト (山幸彦)がここで生まれ育ちました。 ニニギノミコトがこの地は「朝日、夕日が当たり良い所 (王道楽土)。」と言われたことにちなんで王楽寺という名前になりました。 竹篠山は山上に山幸彦ゆかりの高屋山稜 (峯原古墳)があり、山腹には横穴古墳が多くあります。 王楽寺は山岳仏教、修験道の本山として栄えました。 天正 (1573年~1592年)・慶長 (1596年~1615年)時代には12支院を持っていました。 今は地区の人たちが管理している久保観音堂、竹原田薬師堂、平松弥勒堂は元は王楽寺の境外 (けいがい)仏堂でした。 慶長5年 (1600年)池内の宮崎城が清武の稲津掃部助 (いなづかもんのすけ)によって落城して以来、王楽寺は衰退して、元は大伽藍 (だいがらん)があったものが、現在は王楽寺だけになりました。 宮崎城は王楽寺から谷で隔 (へだ)てた東約 1 km の山の上にあります。 王楽寺と宮崎城は親密な関係がありました。 王楽寺は文政13年 (江戸時代後期、1830年)に火災になりました。 明治4年12月27日に廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく)で廃寺になりましたが、明治16年12月24日に再興されました。 国指定 重要文化財の薬師如来、日光菩薩、月光菩薩があります。



写真ET: 本堂の上部です。



写真EU: 「天台宗 竹篠山 王楽寺」と書いてあります。



写真EV: 扇形 (おうぎがた)の御手洗 (みたらい)が本堂のそばにあります。 黄色のツワブキの花が咲いています。



写真EW: 本堂の左部です。 小型の鐘 (かね)をつってあります。



写真EX: 本堂の左部。



写真EY: 本堂にある小型の鐘 (かね)です。



写真EZ: 提灯 (ちょうちん)が本堂にあります。



写真FA: ロウソクを立てるところ、線香をたく所です。



写真FB: 「浄財」と書いてあるお賽銭箱 (さいせんばこ)、鈴の紐 (ひも)もあります。



写真FC: 本堂です。



写真FD: 鈴が見えます。



写真FE: 本堂の屋根の下です。 蛍光灯があります。



写真FF: 横木に象の彫 (ほ)り物があります。



写真FG: 本堂の屋根です。 横木に彫刻 (ちょうこく)があります。



写真FH: 鈴、幕 (まく)があります。



写真FI: 本堂の階段です。



写真FJ: 本堂の柱などです。



写真FK: 横木に象の彫刻 (ちょうこく)があります。



写真FL: 「奉納 一薬師本尊 病難 厄除 御札、一薬師本尊 御守、一交通安全 薬師御守、一水子供養 地蔵御守、右各志納金 500円、一念儒珠 800円、竹篠山 王楽寺」と書いてあります。



写真FM: 「奉納 一薬師本尊 病難 厄除 御札、一薬師本尊 御守、一交通安全 薬師御守、一水子供養 地蔵御守、右各志納金 500円、一念儒珠 800円、竹篠山 王楽寺」と書いてあります。



写真FN: 「開運 おみくじ」販売機です。



写真FO: 王楽寺の本堂の中です。



写真FP: 王楽寺の本堂の中。



写真FQ: 本堂の側面です。



写真FR: 本堂の屋根です。



写真FS: 西を見たものです。 左端は手水舎 (ちょうずや)です。



写真FT: 手水舎 (ちょうずや)と本堂の間です。



写真FU: 境内 (けいだい)の東端に古い墓が並 (なら)んでいます。 奥は福智神社の竹林です。 東を見たものです。



写真FV: 本堂の東に並 (なら)んでいる古い墓です。



写真FW: 像が彫 (ほ)ってあります。



写真FX: 「永禄 (戦国時代、1558年~1570年) 8」と彫 (ほ)ってあります。



写真FY: 王楽寺の石塔の奥に隣 (とな)りの福智神社の社殿と竹林が見えます。



写真FZ: 王楽寺の大きなイチョウの木です。 本堂の東にあります。



写真GA: 大きなイチョウの木の中部です。



写真GB: 王楽寺の大きなイチョウの木の上部です。 右上は本堂です。



写真GC: 王楽寺の石塔です。



写真GD: 「享保 (江戸時代中期、1716年~1736年)」と彫 (ほ)ってあります。



写真GE: 王楽寺の本堂の東にある古い墓の並 (なら)びです。



写真GF: 墓の並 (なら)びです。



写真GG: 本堂の東にある古い墓です。



写真GH: 「鵜戸神宮 (うどじんぐう) 第34代別当 實誉僧正の墓」と書いてある墓です。



写真GI: 「鵜戸神宮 (うどじんぐう) 第34代別当 實誉僧正の墓」と書いてあります。



写真GJ: 本堂の東側の墓です。 左右に円盤型の墓もあります。



写真GK: 円盤型の墓に仏像を彫 (ほ)ってあります。



写真GL: 本堂の東にある墓です。 シキミの枝を供 (そな)えてあります。
「十輪院聖瑜法印の墓、聖瑜法印は綾城 地頭 長倉狭守の弟に当たる 若狭守は稲津越前守のざん訴により切腹の身となる。 更 (さら)に若年の2人の子供まで殺害される。 聖瑜法印 大 (おお)いに立腹し、霧島御池に3、7日間の呪詛 (じゅそ)の立行に入る。 呪詛 (じゅそ)の障碍 (しょうがい)により稲津 家も断絶となる。 聖瑜法印はその後 高野山に居住す。 伊東義祐 公の再々にわたる 国の勧めにも応ぜず、名大 (みょうだい、代理のこと。)として實誉僧正を下し給 (たま)う。 實誉僧正 鵜戸大権現社 第34代別当となる。 聖瑜法印 晩年 山王楽寺にて遷化 (うつりかわること。)す。 (日向記巻の5に詳述)」
と書いてあります。



写真GM: シキミの枝を供 (そな)えてあります。
「十輪院聖瑜法印の墓、聖瑜法印は綾城 地頭 長倉狭守の弟に当たる 若狭守は稲津越前守のざん訴により切腹の身となる。 更 (さら)に若年の2人の子供まで殺害される。 聖瑜法印 大 (おお)いに立腹し、霧島御池に3、7日間の呪詛 (じゅそ)の立行に入る。 呪詛 (じゅそ)の障碍 (しょうがい)により稲津 家も断絶となる。 聖瑜法印はその後 高野山に居住す。 伊東義祐 公の再々にわたる 国の勧めにも応ぜず、名大 (みょうだい、代理のこと。)として實誉僧正を下し給 (たま)う。 實誉僧正 鵜戸大権現社 第34代別当となる。 聖瑜法印 晩年 山王楽寺にて遷化 (うつりかわること。)す。 (日向記巻の5に詳述)」
と書いてあります。



写真GN: 「十輪院聖瑜法印の墓、聖瑜法印は綾城 地頭 長倉狭守の弟に当たる 若狭守は稲津越前守のざん訴により切腹の身となる。 更 (さら)に若年の2人の子供まで殺害される。 聖瑜法印 大 (おお)いに立腹し、霧島御池に3、7日間の呪詛 (じゅそ)の立行に入る。 呪詛 (じゅそ)の障碍 (しょうがい)により稲津 家も断絶となる。 聖瑜法印はその後 高野山に居住す。 伊東義祐 公の再々にわたる 国の勧めにも応ぜず、名大 (みょうだい、代理のこと。)として實誉僧正を下し給 (たま)う。 實誉僧正 鵜戸大権現社 第34代別当となる。 聖瑜法印 晩年 山王楽寺にて遷化 (うつりかわること。)す。 (日向記巻の5に詳述)」
と書いてあります。



写真GO: 「十輪院聖瑜法印の墓、聖瑜法印は綾城 地頭 長倉狭守の弟に当たる 若狭守は稲津越前守のざん訴により切腹の身となる。 更 (さら)に若年の2人の子供まで殺害される。 聖瑜法印 大 (おお)いに立腹し、霧島御池に3、7日間の呪詛 (じゅそ)の立行に入る。 呪詛 (じゅそ)の障碍 (しょうがい)により稲津 家も断絶となる。 聖瑜法印はその後 高野山に居住す。 伊東義祐 公の再々にわたる 国の勧めにも応ぜず、名大 (みょうだい、代理のこと。)として實誉僧正を下し給 (たま)う。 實誉僧正 鵜戸大権現社 第34代別当となる。 聖瑜法印 晩年 山王楽寺にて遷化 (うつりかわること。)す。 (日向記巻の5に詳述)」
と書いてあります。



写真GP: 「鵜戸神宮 第28代別当 舜偏僧正の墓」と書いてあります。



写真GQ: 「鵜戸神宮 第28代別当 舜偏僧正の墓」と書いてあります。



写真GR: 古い墓が並 (なら)んでいます。 王楽寺。



写真GS: 王楽寺の本堂の東にある墓です。 奥にサーフィンボードが見えます。 右田船舶 (せんぱく)です。 東を見たものです。



写真GT: 古い墓です。 右上は本堂です。 南西を見たものです。



写真GU: 南を見たものです。 右に王楽寺の大きなイチョウの木があります。 左は福智神社の竹林です。 奥に駐車場が見えます。



写真GV: 王楽寺の本堂、イチョウの木、紅葉が見えます。 左端は福智神社の竹林です。



写真GW: 王楽寺です。 南西を見たものです。



写真GX: 西を見たものです。 王楽寺の建物があります。



写真GY: 北西を見たものです。 広場があります。



写真GZ: 北を見たものです。



写真HA: 3艘 (そう)の船を置いてあります。 右田船舶 (せんぱく)です。 東北東を見たもの。



写真HB: サーフィンボードもあります。 右田船舶 (せんぱく)です。



写真HC: 右奥は福智神社の竹林です。



写真HD: 南を見たものです。



写真HE: 北西を見たものです。



写真HF: 王楽寺の2つの建物です。 左は本堂。 左端はイチョウの木です。



写真HG: 中央にイチョウの木が見えます。 右は本堂です。



写真HH: 「南天 (なんてん)の赤い実」がありました。



写真HI: 王楽寺の建物です。



写真HJ: 王楽寺の本堂と古い墓です。



写真HK: 本堂です。 南西を見たものです。



写真KL: 本堂の北の部分です。 北にある建物に渡る通路があります。



写真KM: 本堂の北の部分の屋根です。 彫刻 (ちょうこく)、鬼瓦 (おにがわら)もあります。



写真KN: 本堂 (左)と北の建物の間に階段があります。 西を見たものです。



写真KO: 「奉納 南無薬師如来」と書いてある幟 (のぼり)が見えます。



写真KP: 「奉納 南無薬師如来」と書いてある幟 (のぼり)があります。



写真KQ: 本堂の北にある建物です。



写真KR: 階段、幟 (のぼり)もあります。



写真KS: 北を見たものです。



写真KT: 建物の下部です。



写真KU: 北西を見たもの。



写真KV: 西を見たものです。 左端は本堂です。



写真KW: 手前は本堂です。



写真KX: 左は本堂の北の建物です。



写真KY: 「時季外 (はず)れの桜の花」が咲いていました。



写真KZ: 東南東を見たものです。 右田船舶 (せんぱく)です。



写真LA: 東を見たものです。 左はみかん畑です。



写真LB: 黄色のミカンの実が見えます。



写真LC: 左の木の上に携帯電話の基地局アンテナが見えます。



写真LD: 西を見たものです。



写真LE: 南西を見たものです。



写真LF: 南を見たものです。 王楽寺の建物、大きなイチョウの木、左は福智神社の竹林です。



写真LG: 南東を見たものです。



写真LH: 王楽寺の北にあるみかん畑です。 ネットを張 (は)ってあります。



写真LI: みかん畑です。



写真LJ: みかん畑のみかんです。



写真LK: 「カンナの花」が咲いていました。 西を見たものです。



写真LL: 王楽寺の近く (北西)にある携帯電話の基地局アンテナです。



写真LM: 南を見たものです。



写真LN: 中央左に王楽寺のイチョウの木が見えます。 南東を見たものです。



写真LO: 東を見たものです。 左にミカン園があります。



写真LP: 北東を見たものです。



写真LQ: 左は携帯電話の基地局アンテナの下部です。 北を見たものです。



写真LR: 北西を見たもの。 民家もあります。



写真LS: 西を見たものです。 人家があります。
地名の「瓜生野 (うりゅうの)」は第12代 景行天皇がここで休息された時に「ここは良い瓜 (うり)の生 (は)える土地だ。」と言われたことに由来 (ゆらい)しています。



写真LT: 野草の「力芝 (ちからしば)」が生 (は)えていました。



写真LU: 南を見たものです。



写真LV: 「温州 (うんしゅう)みかんの実」が付いています。



写真LW: 「山芋 (やまいも)の葉」です。



写真LX: 西を見たものです。



写真LY: 農業用水を溜 (た)めてあります。



写真LZ: 右田船舶 (せんぱく)です。



写真MA: 「右田船舶 (せんぱく)」と建物に書いてあります。



写真MB: 南を見たものです。



写真MC: 西を見たものです。



写真MD: 王楽寺の本堂です。 左はイチョウの木です。



写真ME: 中央に王楽寺の鐘 (かね)つき堂があります。 左奥に駐車場と現在の墓地が見えます。 南を見たものです。



写真MF: 王楽寺のイチョウの木です。



写真MG: イチョウの木の上部です。



写真MH: 王楽寺の本堂の屋根です。



写真MI: 王楽寺の墓地に仏像があります。



写真MJ: 「竹篠 (しの)山 王楽寺霊園」と書いてある石碑 (せきひ)があります。



写真MK: 北を見たものです。 王楽寺の鐘 (かね)つき堂、イチョウの木、右に福智神社の竹林が見えます。 右端は墓地の仏像です。



写真ML: 右にイチョウの木、本堂があります。 左は墓地の墓石です。 北西を見たもの。



写真MM: 西を見たものです。 「竹篠 (しの)山 王楽寺霊園」です。



写真MN: 王楽寺の墓地です。 南西を見たものです。



写真MO: 南を見たものです。 王楽寺の墓地。



写真MP: 南東を見たものです。 王楽寺の墓地。



写真MQ: 屋根の下にテーブル、椅子 (いす)があります。 花が咲いています。



写真MR: 「コスモスの花」が咲いていました。



写真MS: 東を見たものです。 左は王楽寺です。



写真MT: 王楽寺の境内 (けいだい)です。 北東を見たものです。



写真MU: 北を見たものです。



写真MV: 「須田工務店」と書いてある看板 (かんばん)があります。 西を見たものです。 これから久保千手観音の方に行きます。



写真MW: 王楽寺の北の方に進んだところです。 右の建物は上村自治公民館です。 久保千手観音の近くです。



写真MX: 右の階段を上ると久保千手観音があります。 左は上村自治公民館です。



写真MY: 上村自治公民館です。



写真MZ: 先の方に先程 (さきほど)の王楽寺があります。 南西を見たものです。 右は上村自治公民館。



写真NA: 「上村自治公民館」と書いてあります。 しめ縄、椅子 (いす)もあります。



写真NB: 久保千手観音のお堂が見えます。 西を見たものです。
久保観音堂にある「岩坂小原観音 由来記」の説明板から、
 通称「久保千手観音」と称す。
 奈良朝時代の名僧 行基菩薩、一刀三礼の御作といわれまた、平家の武将 藤原景清 (ふじわらかげきよ)公 (俗に悪七兵衛景清)の守り本尊として有名である。
自 (みずか)ら両眼を抉 (えぐ)り抜 (ぬ)いて盲目となり、恩讐 (おんしゅう)を超えて、仏門に帰依 (きえ)し、ひたすら平家一門の菩提 (ぼだい)を弔 (とむら)うため念仏三昧 (ねんぶつざんまい)に余生を送った景清 公である。
 文治2年 (1186年) 日向勾頭 (こうとり)として下向 (げこう)の砌 (みぎり、時の意味です。)、守り本尊として遥々 (はるばる)、鎌倉より背負 (せお)い来られ、当山に鎮座申し上げたと伝えられている。
下北の景清廟 (びょう)、生目の生目神社ともども豪勇無双の生目義士 景清 公ゆかりの由緒ある霊山である。



写真NC: このあたりは坂道になっています。 右は久保千手観音です。 南を見たものです。



写真ND: 北を見たものです。 送電線鉄塔、農業用ビニールハウスがあります。



写真NE: 「久保観音堂 入口」と書いてあります。 左は観音堂の建物です。



写真NF: 久保観音堂の入り口です。



写真NG: 久保観音堂です。 高い木もあります。



写真NH: 久保観音堂のそばの車道です。 左に進むと垂水公園 (だるみずこうえん)に行きます。



写真NI: 「久保観音堂 入口、北地区振興会 建立 平成18年3月」と書いてあります。



写真NJ: 久保観音堂の境内 (けいだい)です。 左に手水舎 (ちょうずや)と奥にアンテナがあります。



写真NK: 久保観音堂です。 手水舎 (ちょうずや)、説明板、石碑 (せきひ)、お堂があります。



写真NL: 久保観音堂の手水舎 (ちょうずや)、説明板、石碑 (せきひ)が見えます。



写真NM: 左から久保観音堂、石碑 (せきひ)、ソテツの木、説明板があります。



写真NN: 久保観音堂です。



写真NO: 入り口方向を振 (ふ)り返ったものです。



写真NP: 久保観音堂は高台にあります。 上村地区の民家、近くの山、鰐塚山 (標高 1119 m )が見えます。



写真NQ: 左に平地に降りる車道が見えます。 久保観音堂の境内 (けいだい)から見たものです。



写真NR: 遠くに霧島連山も見えます。 手前は上村自治公民館です。 久保観音堂から西を見たものです。



写真NS: 久保観音堂の参道です。 下 (くだ)ると上村自治公民館のそばに出ます。



写真NT: 遠くに鰐塚山 (標高 1119 m )も見えます。 久保観音堂から。



写真NU: 久保観音堂の参道です。 階段、柵 (さく)もあります。 車道も見えます。 東を見たものです。



写真NV: 久保観音堂の手水舎 (ちょうずや)です。 御手洗 (みたらい)に「奉納」と書いてあります。 水道の蛇口 (じゃぐち)、石灯籠 (いしどうろう)もあります。



写真NW: 御手洗 (みたらい)です。



写真NX: 久保観音堂の参道です。 手前に石灯籠 (いしどうろう)があります。



写真NY: 「岩坂山小原観音 由来 (ゆらい)記」の説明板があります。 左に石碑 (せきひ)があります。



写真NZ: 石造物が並 (なら)んでいます。 ソテツの木もあります。



写真OA: 久保観音堂です。 東を見たものです。



写真OB: 境内 (けいだい)です。



写真OC: 手水舎 (ちょうずや)と境内 (けいだい)です。



写真OD: 「岩坂小原観音 由来記」の説明板があります。
 通称「久保千手観音」と称す。
 奈良朝時代の名僧 行基菩薩、一刀三礼の御作といわれまた、平家の武将 藤原景清 (ふじわらかげきよ)公 (俗に悪七兵衛景清)の守り本尊として有名である。
自 (みずか)ら両眼を抉 (えぐ)り抜 (ぬ)いて盲目となり、恩讐 (おんしゅう)を超えて、仏門に帰依 (きえ)し、ひたすら平家一門の菩提 (ぼだい)を弔 (とむら)うため念仏三昧 (ねんぶつざんまい)に余生を送った景清 公である。
 文治2年 (1186年) 日向勾頭 (こうとり)として下向 (げこう)の砌 (みぎり、時の意味です。)、守り本尊として遥々 (はるばる)、鎌倉より背負 (せお)い来られ、当山に鎮座申し上げたと伝えられている。
下北の景清廟 (びょう)、生目の生目神社ともども豪勇無双の生目義士 景清 公ゆかりの由緒ある霊山である。
久保千手観音 奉賛会
と書かれています。



写真OE: 「岩坂小原観音 由来記」の説明板です。
 通称「久保千手観音」と称す。
 奈良朝時代の名僧 行基菩薩、一刀三礼の御作といわれまた、平家の武将 藤原景清 (ふじわらかげきよ)公 (俗に悪七兵衛景清)の守り本尊として有名である。
自 (みずか)ら両眼を抉 (えぐ)り抜 (ぬ)いて盲目となり、恩讐 (おんしゅう)を超えて、仏門に帰依 (きえ)し、ひたすら平家一門の菩提 (ぼだい)を弔 (とむら)うため念仏三昧 (ねんぶつざんまい)に余生を送った景清 公である。
 文治2年 (1186年) 日向勾頭 (こうとり)として下向 (げこう)の砌 (みぎり、時の意味です。)、守り本尊として遥々 (はるばる)、鎌倉より背負 (せお)い来られ、当山に鎮座申し上げたと伝えられている。
下北の景清廟 (びょう)、生目の生目神社ともども豪勇無双の生目義士 景清 公ゆかりの由緒ある霊山である。
久保千手観音 奉賛会
と書かれています。



写真OF: 「岩坂小原観音 由来記」の説明板。
 通称「久保千手観音」と称す。
 奈良朝時代の名僧 行基菩薩、一刀三礼の御作といわれまた、平家の武将 藤原景清 (ふじわらかげきよ)公 (俗に悪七兵衛景清)の守り本尊として有名である。
自 (みずか)ら両眼を抉 (えぐ)り抜 (ぬ)いて盲目となり、恩讐 (おんしゅう)を超えて、仏門に帰依 (きえ)し、ひたすら平家一門の菩提 (ぼだい)を弔 (とむら)うため念仏三昧 (ねんぶつざんまい)に余生を送った景清 公である。
 文治2年 (1186年) 日向勾頭 (こうとり)として下向 (げこう)の砌 (みぎり、時の意味です。)、守り本尊として遥々 (はるばる)、鎌倉より背負 (せお)い来られ、当山に鎮座申し上げたと伝えられている。
下北の景清廟 (びょう)、生目の生目神社ともども豪勇無双の生目義士 景清 公ゆかりの由緒ある霊山である。
久保千手観音 奉賛会
と書かれています。



写真OG: 「岩坂小原観音 由来記」の説明板があります。
 通称「久保千手観音」と称す。
 奈良朝時代の名僧 行基菩薩、一刀三礼の御作といわれまた、平家の武将 藤原景清 (ふじわらかげきよ)公 (俗に悪七兵衛景清)の守り本尊として有名である。
自 (みずか)ら両眼を抉 (えぐ)り抜 (ぬ)いて盲目となり、恩讐 (おんしゅう)を超えて、仏門に帰依 (きえ)し、ひたすら平家一門の菩提 (ぼだい)を弔 (とむら)うため念仏三昧 (ねんぶつざんまい)に余生を送った景清 公である。
 文治2年 (1186年) 日向勾頭 (こうとり)として下向 (げこう)の砌 (みぎり、時の意味です。)、守り本尊として遥々 (はるばる)、鎌倉より背負 (せお)い来られ、当山に鎮座申し上げたと伝えられている。
下北の景清廟 (びょう)、生目の生目神社ともども豪勇無双の生目義士 景清 公ゆかりの由緒ある霊山である。
久保千手観音 奉賛会
と書かれています。



写真OH: 「岩坂小原観音 由来記」の説明板。
 通称「久保千手観音」と称す。
 奈良朝時代の名僧 行基菩薩、一刀三礼の御作といわれまた、平家の武将 藤原景清 (ふじわらかげきよ)公 (俗に悪七兵衛景清)の守り本尊として有名である。
自 (みずか)ら両眼を抉 (えぐ)り抜 (ぬ)いて盲目となり、恩讐 (おんしゅう)を超えて、仏門に帰依 (きえ)し、ひたすら平家一門の菩提 (ぼだい)を弔 (とむら)うため念仏三昧 (ねんぶつざんまい)に余生を送った景清 公である。
 文治2年 (1186年) 日向勾頭 (こうとり)として下向 (げこう)の砌 (みぎり、時の意味です。)、守り本尊として遥々 (はるばる)、鎌倉より背負 (せお)い来られ、当山に鎮座申し上げたと伝えられている。
下北の景清廟 (びょう)、生目の生目神社ともども豪勇無双の生目義士 景清 公ゆかりの由緒ある霊山である。
久保千手観音 奉賛会
と書かれています。



写真OI: 石碑 (せきひ)の文字です。



写真OJ: シキミの枝を供 (そな)えてあります。



写真OK: 久保観音堂の石碑 (せきひ)です。 南を見たものです。



写真OL: 石碑 (せきひ)があります。



写真OM: ソテツの木もあります。



写真ON: 遠くに送電線鉄塔があります。 久保観音堂の側面です。



写真OO: 久保観音堂の下部です。



写真OP: 久保観音堂。



写真OQ: お賽銭箱 (おさいせんばこ)も見えます。



写真OR: お堂の横木に象の彫刻 (ちょうこく)があります。



写真OS: 鈴の紐 (ひも)、お賽銭箱 (さいせんばこ)があります。



写真OT: 鈴です。



写真OU: お堂の天井 (てんじょう)です。 蛍光灯もあります。



写真OV: 久保観音堂の中です。



写真OW: 久保観音堂の中。



写真OX: 境内 (けいだい)の高い木です。



写真OY: 高い木とお堂の屋根です。



写真OZ: 鈴の紐 (ひも)の下部です。 「奉納」と書いてあります。 右はお賽銭箱 (おさいせんばこ)です。



写真PA: 久保観音堂です。



写真PB: 境内 (けいだい)です。 東を見たものです。



写真PC: お堂の裏です。



写真PD: 石造物があります。



写真PE: 「千手観世音参道」と書いてあります。 古い看板 (かんばん)です。



写真PF: 久保千手観音の入り口に戻 (もど)って来ました。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)