新田原古墳群、春日神社 (国指定史跡 新田原古墳群、にゅうたばるこふんぐん、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)、百足塚古墳 ((新田原58号墳)、むかでづかこふん)、弥吾郎塚、59号墳、水神塚、大久保塚、埴輪 (はにわ)、新田原古墳群公園、祇園原地区集会所、春日神社 祖霊殿、新田神楽 (にゅうたかぐら)、畜魂 やすらかに (口蹄疫)の記念碑、江戸時代の佐土原藩の新田原牧場跡 (土塁 (どるい)が春日神社の東端にあります。)、新田原台地)  (宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田)







<標高、位置>  新富町の春日神社は
標高 約70 m
 北緯32度05分51秒  東経131度25分12秒

<標高、位置>  春日神社 祖霊殿は
標高 約70 m
 北緯32度05分57秒  東経131度25分13秒

<標高、位置>  新田原古墳群は
標高 約70 m
 北緯32度05分53秒  東経131度25分38秒


 「春日神社」は宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 字春日 13867 にあります。
昭和50年10月に現在の場所に移りました。 旧社格は村社です。
春日神社のパンフレットから、
ご祭神
春日大神ーーー 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)、比売神 (ひめがみ)、経津主命 (ふつぬしのみこと)、武甕槌命 (たけみかづちのみこと)
ご神徳
 古事記によると神代の昔、天照大御神が天岩戸にお隠れになったとき、ご祭神 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)は祝詞 (のりと)を奏上して祭典を執行される。 同時に天鈿女命が神楽 (かぐら)を舞われ、手力雄命が天岩戸を開かれた。 これによって大御神のご出現があり再び清明の世界がもたらされる。 つまり、当神社のご祭神は、八百万神の中でも特に神事・神職の宗源にあたる神である。 また、他の春日大神とともに藤原 氏の氏神、学問、武道、交通安全、家内安全等の守護神でもある。
ご由緒 (ゆいしょ)
 当神社は奈良市の春日大社のご分社として、鎌倉時代 (建保2年)に本部宮内左衛門定兵が創建したと伝えられる。 のち、都於郡城主 (とのこおりじょうしゅ)の伊東 氏、佐土原城主の島津 氏は供田を献 (けん)じ、氏神として篤 (あつ)く崇敬した。 昭和50年10月には社地を現在の地に移し、平成26年11月にはご創建800年祭を斎行 (さいこう)、藤原 氏の総氏神として、また、近郷近在の鎮守の神としてご神威はますます高まっている。
年中祭祀
1月1日 歳旦祭、3月13日 祈年祭、旧6月14日 夏祭 (だごおつや)、旧9月14日 秋祭 (にぎりめしおつや)、11月15日 例祭。
鎮座地
宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 字春日

 新富町指定無形文化財の「新田神楽 (にゅうたかぐら)」が春日神社に伝わっています。

 「春日神社祖霊殿」は神道の儀式により、ご祖先様の御霊をお祀 (まつ)りしています。 春、秋の祖霊祭を斎行し、年祭、50日祭などもご奉仕いたします。

 「新田原牧場跡 (にゅうたばるまきばあと)」 春日神社の境内 (けいだい)の東端に旧佐土原藩2代藩主 島津忠興 公が、寛永4年に牧場を設 (もう)けた際の土塁 (どるい、土手)が残っている。 島津忠興 公が自 (みずか)ら竹杖 (たけつえ)を執 (と)って工事を指揮し築造1日にして完成、母馬80頭を長園牧場より移し小川覚兵衛に管理させたと伝えられる。

 「新田原古墳群 (にゅうたばるこふんぐん)」は宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 にあります。
新田原古墳群にある百足塚古墳 (むかでづかこふん)からの多数の埴輪群 (はにわぐん)は大阪府 高槻市 (たかつきし)にある今城塚古墳 (継体天皇の墓とする説が有力です。)の埴輪群と共通性が高いとして注目されています。 弥吾郎塚古墳は古墳時代後期では南九州最大のもので、全長94 m の前方後円墳です。 百足塚古墳は全長約80 m 、後円部の高さ約9 m 、前方部の高さ約8.5 m の前方後円墳です。 百足塚古墳の周辺では約1000個の円筒埴輪、人物、鳥形、家形、柵形 (さくがた)などの約60個の形象埴輪が発見されました。
「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」の説明板から、
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
 「新田原古墳群 国指定史跡 (昭和19年12月19日指定)」の説明板から、
一ツ瀬川と小丸川流域の古墳群
 宮崎県の一ツ瀬川と小丸川流域には、今から1400年から1600年前に造られた首長達の墓が多数残されています。
 両河川の流域は、宮崎県でも最も古墳群が集中的に分布しており、その数は800基以上を数 (かぞ)えます。
 特に一ツ瀬川流域の西都原古墳群には311基が、新田原古墳群には207基の古墳があり、全国的にも著名な群集墳となっています。
古墳の造られた時代
 日本列島の各地域の首長達の多くは「前方後円墳」と呼 (よ)ばれる特徴的な形の古墳に埋葬 (まいそう)され、その大きさなどで権力の強さを誇 (ほこ)ったものと考えられます。 この時代を「古墳時代」と呼んでおり、まさに日本が中央集権国家に移り変わろうとする時期で、おおよそ300年続きました。
 一ツ瀬川流域の古墳が造られた時期を、発見された出土品などにより推測すると、右のような図ができます。
 これによると、前半には西都原古墳群に有力な首長の墓が多数あり、後半になると新田原古墳群にたくさんの古墳が造られるようになったと考えられます。
 首長の権力が移り変わったのか、古墳を造る場所が変わったのか、興味深い古墳の分布を示しています。
新田原 (にゅうたばる)と祇園原 (ぎおんばる)
 「新田原古墳群」とは昭和19年に旧新田村にあった古墳をすべて国の指定史跡とした時の名称で、実際は東から「塚原」「石船」「山之坊」「祇園原」という、4つの古墳群に分けることができます。
 このうち祇園原古墳群には154基の古墳があり、古墳時代中期から後期にかけて首長たちの墓が残されています。
 特に古墳時代後期には宮崎県内でも最大の首長の墓が連続して造られており、その代表が59号墳、百足塚古墳、弥吾郎塚古墳です。

 「国史跡 新田原古墳群 百足塚古墳 (新田原58号墳)」の説明板から、
百足塚古墳 (むかでづかこふん)の概要
 祇園原古墳群のなかでも4番目に大きい百足塚古墳は、墳長約80 m 、後円部の高さ約6 m の前方後円墳です。 後円部、前方部ともに2段で、墳丘の周辺には盾形 (たてがた)の周溝と周堤が巡 (めぐ)ります。 出土品などの特徴から古墳時代後期前半に造られたと推測されています。
 日向地方 (現在の宮崎県と鹿児島県 大隅半島一帯)では、古墳時代後期の前方後円墳としては最大規模のもので、横穴式石室の採用や多量の形象埴輪 (はにわ)の配置など、後期前半に活躍した首長の姿が彷彿 (ほうふつ)とされます。
 平成9年度から発掘調査され、平成22年から24年度に復元整備を行いました。
横穴式石室
 首長を埋葬 (まいそう)したところは、後円部第1段に配置された横穴式石室でした。 石室は、天井部を1段目のテラスの位置に配置し、古墳の裾部 (すそぶ)からスロープ状に侵入するような墓道があります。 内部は未調査ですが、横穴式石室を採用する古墳の少ない宮崎県域でも最初に造られた例であると考えられます。
多量の円筒埴輪 (はにわ)列と形象埴輪群の配置
 墳丘の各段 (墳頂とテラス)と周堤には円筒埴輪が並べられ、その数は1000本におよびました。 墳丘の要所と周堤の要所には、それぞれ盾形 (たてがた)と盾持ち人形の埴輪がおかれ、古墳に近づく邪悪 (じゃあく)な魂 (たましい)を退 (しりぞ)ける役割を期待したものと思われます。
 墳丘の西側周堤には多量の形象埴輪が配置されていました。 その数は現在確認できるだけでも60点以上あります。

 「形象埴輪群の配置」の説明板から、
形象埴輪の発見
 平成10年度に行った発掘調査で、墳丘の西側から多量の埴輪片が出土しました。 これらはすべて、百足塚古墳が造られたときに周堤上に整然と配置されたもので、周溝や外周堀に転落した状態で発見されました。 復元の結果、確認できる形象埴輪の個体数は60以上で、発見されたものとしては、西日本でも有数の数と種類となりました。
種類とその配置の目的
 その種類は、人物や建物のほか、鶏 (とり)・犬・鹿・馬などの動物、甲冑 (かっちゅう)や太鼓 (たいこ)などがあり、神がかりして性器を見せる女性など、全国的にも出土例の少ないものもあります。
 出土状況を整理すると、配置された当初の様子 (ようす)は「人物と建物の空間」から、「人物と動物の空間」へ変化していることが想像されます。 形象埴輪群を並べる目的にはさまざま説があり、埋葬 (まいそう)された人物の生前の生活を再現するという説や、埋葬された人物の財産などを誇示 (こじ)するという説などがあります。

 「209号墳の調査」の説明板から、
 209号墳は百足塚古墳の周堤の確認調査中に発見された円墳です。 墳丘はすでに無くなっているため、人を埋葬 (まいそう)した主体部などは不明ですが、直径は12 m あることがわかりました。 墳丘周囲には幅2 m の周溝が巡 (めぐ)り、その底面付近からは、大量の須恵器 (すえき)が見つかりました。
 その種類は、杯身・杯蓋や有蓋高杯・無蓋高杯などがあり、多くが百足塚古墳側の周溝西側で見つかっています。
 この古墳も、62号墳や63号墳と同様に、百足塚古墳の陪塚 (ばいつか)と考えられますが、出土須恵器の特徴から、百足塚古墳のあと、6世紀後半の築造と予想されます。
209号墳の復元
 すでに墳丘が失われていたため、墳丘の復元には、その存在が判断できる程度としています。
 実際に造られた当時はもっと墳丘が高かったかもしれません。

 「62号墳・63号墳の調査」の説明板、
62号墳の調査
 百足塚古墳の北西側に造られた直径 15 m の円墳です。 人を埋葬 (まいそう)する主体部は調査していないため不明です。
 墳丘の周囲には幅 2 m ほどの周溝が巡 (めぐ)っており、ここからたくさんの埴輪 (はにわ)が見つかりました。 もともと墳丘の上に立てられていたものが、転落して埋 (う)まったと考えられ、その種類には円筒埴輪、朝顔形円筒埴輪、盾形 (たてがた)埴輪があります。 このうち円筒埴輪は百足塚古墳と同様のものを使っており、2つの古墳はほぼ同時期に造られたと考えられます。
63号墳の調査
 直径 28 m の円墳で、墳丘は2段に造られ、周囲には幅 3 m の周溝が、北東の一部には2重目の周溝が見つかりました。
 円墳としての規模は大きいですが、埴輪は立てられず、百足塚古墳や62号墳よりも後に造られたと推測できます。
 62号墳や63号墳のように大きな前方後円墳などの近くに造られた古墳のことを「陪塚 (ばいつか)」とか「陪家」と呼 (よ)びます。 前方後円墳に埋葬 (まいそう)された首長の近親者の墓と考えられます。
周溝部の調査状況の写真、周堤の周辺で発見された多量の形象埴輪片の写真、周溝で発見された多量の埴輪片、復元できた円筒埴輪、付近の地図なども載 (の)っています。


写真A: 県道312号です。 北を見たものです。 「春日神社」の大きな看板 (かんばん)があります。 右に春日神社があります。
「春日神社」は宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 字大古 13867 にあります。



写真B: 春日神社の赤い鳥居 (とりい)が木の間に見えます。 東を見たものです。



写真C: 右に、東に向かう道があります。 左に2つの鳥居 (とりい)があります。 石垣 (いしがき)も見えます。 春日神社です。 道を奥 (東)に進むと新田原古墳群の百足塚古墳 (むかでづかこふん)、弥吾郎塚、水神塚などがあります。



写真D: 春日神社の西隣 (とな)りに春日地区集会所があります。 左にプールがあります。 北を見たものです。



写真E: 「春日地区集会所」と玄関 (げんかん)の上に書いてあります。



写真F: 「この地区集会所は防衛施設庁の特定防衛施設周辺整備調整交付金 (法第9条)により建設されたものです。 昭和60年3月25日吉日 新富町」と春日地区集会所に書いてあります。



写真G: 春日地区集会所の西隣 (とな)りにプールがあります。 奥に県道312号のガードレールが見えます。



写真H: プール関係の施設です。 水道の蛇口 (じゃぐち)が並 (なら)んでいます。 西を見たものです。



写真I: プールの敷地です。



写真J: 「プール使用上のやくそく、わたしたちは次のことをよく守ります。 1.目、ひふなどの、他人にめいわくをかける病気のときは、およぎません。 1.準備、整理うんどうを、必ずします。 1.プールにはいるまえに、必ず用便をすませます。 1.消毒槽にはいり、つねに体を清潔にします。 1.おぼれたまねや、いたずら、じょうだんなどはしません。 1.つづけておよがず、休みをじゅうぶんとります。 1.機械などにはさわりません。 1.監視員の言いつけを守り、楽しくおよぎます。 1.監視員のいないときは、およぎません。 1.プールをたいせつにし、からだをきたえ、よい子になります。」
と金網のところに書いてあります。



写真K: 春日地区集会所の敷地から東を見たものです。 赤い鳥居 (とりい)が見えます。



写真L: 春日神社の鎮守 (ちんじゅ)の森が見えます。



写真M: 春日神社の鎮守 (ちんじゅ)の森と左の春日地区集会所です。



写真N: 右に境内 (けいだい)に行く坂道が見えます。 春日神社の石垣 (いしがき)、看板 (かんばん)、掲示板 (けいじばん)、石碑 (せきひ)、石段、赤い2つの鳥居 (とりい)があります。
「春日神社」は宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 字大古 13867 にあります。
昭和50年10月に現在の場所に移りました。 旧社格は村社です。



写真O: 春日神社の石碑 (せきひ)、掲示板 (けいじばん)、赤い2つの鳥居 (とりい)、石段、石垣 (いしがき)、森が見えます。 北を見たものです。



写真P: 奥に、左右に県道312号があります。



写真Q: 西を見たものです。



写真R: 児湯郡 新富町 大字新田にある春日神社です。



写真S: 「春日神社」と書いてある額 (がく)が一の鳥居 (とりい)にあります。



写真T: 「春日神社祖霊殿、春日神社、地図」が載 (の)っているポスターがあります。 春日神社の掲示板 (けいじばん)です。



写真U: 「春日神社」と彫 (ほ)ってある石碑 (せきひ)があります。 両側に石灯籠 (いしどうろう)があります。 右にソテツの木があります。



写真V: 奥に二の鳥居 (とりい)が見えます。



写真W: 「春日神社 案内記」があります。



写真X: 「春日神社 案内記」です。
ご祭神
春日大神ーーー 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)、比売神 (ひめがみ)、経津主命 (ふつぬしのみこと)、武甕槌命 (たけみかづちのみこと)
ご神徳
 古事記によると神代の昔、天照大御神が天岩戸にお隠れになったとき、ご祭神 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)は祝詞 (のりと)を奏上して祭典を執行される。 同時に天鈿女命が神楽 (かぐら)を舞われ、手力雄命が天岩戸を開かれた。 これによって大御神のご出現があり再び清明の世界がもたらされる。 つまり、当神社のご祭神は、八百万神の中でも特に神事・神職の宗源にあたる神である。 また、他の春日大神とともに藤原 氏の氏神、学問、武道、交通安全、家内安全等の守護神でもある。
ご由緒 (ゆいしょ)
 当神社は奈良市の春日大社のご分社として、鎌倉時代 (建保2年)に本部宮内左衛門定兵が創建したと伝えられる。 のち、都於郡城主 (とのこおりじょうしゅ)の伊東 氏、佐土原城主の島津 氏は供田を献 (けん)じ、氏神として篤 (あつ)く崇敬した。 昭和50年10月には社地を現在の地に移し、平成26年11月にはご創建800年祭を斎行 (さいこう)、藤原 氏の総氏神として、また、近郷近在の鎮守の神としてご神威はますます高まっている。
年中祭祀
1月1日 歳旦祭、3月13日 祈年祭、旧6月14日 夏祭 (だごおつや)、旧9月14日 秋祭 (にぎりめしおつや)、11月15日 例祭。
鎮座地
宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 字春日

 新富町指定無形文化財の「新田神楽 (にゅうたかぐら)」が春日神社に伝わっています。

 「春日神社祖霊殿」は神道の儀式により、ご祖先様の御霊をお祀 (まつ)りしています。 春、秋の祖霊祭を斎行し、年祭、50日祭などもご奉仕いたします。

 「新田原牧場跡 (にゅうたばるまきばあと)」 春日神社の境内 (けいだい)の東端に旧佐土原藩2代藩主 島津忠興 公が、寛永4年に牧場を設 (もう)けた際の土塁 (どるい、土手)が残っている。 島津忠興 公が自 (みずか)ら竹杖 (たけつえ)を執 (と)って工事を指揮し築造1日にして完成、母馬80頭を長園牧場より移し小川覚兵衛に管理させたと伝えられる。
(春日神社のパンフレットから。)



写真Y: 「春日神社 案内記」です。
ご祭神
春日大神ーーー 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)、比売神 (ひめがみ)、経津主命 (ふつぬしのみこと)、武甕槌命 (たけみかづちのみこと)
ご神徳
 古事記によると神代の昔、天照大御神が天岩戸にお隠れになったとき、ご祭神 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)は祝詞 (のりと)を奏上して祭典を執行される。 同時に天鈿女命が神楽 (かぐら)を舞われ、手力雄命が天岩戸を開かれた。 これによって大御神のご出現があり再び清明の世界がもたらされる。 つまり、当神社のご祭神は、八百万神の中でも特に神事・神職の宗源にあたる神である。 また、他の春日大神とともに藤原 氏の氏神、学問、武道、交通安全、家内安全等の守護神でもある。
ご由緒 (ゆいしょ)
 当神社は奈良市の春日大社のご分社として、鎌倉時代 (建保2年)に本部宮内左衛門定兵が創建したと伝えられる。 のち、都於郡城主 (とのこおりじょうしゅ)の伊東 氏、佐土原城主の島津 氏は供田を献 (けん)じ、氏神として篤 (あつ)く崇敬した。 昭和50年10月には社地を現在の地に移し、平成26年11月にはご創建800年祭を斎行 (さいこう)、藤原 氏の総氏神として、また、近郷近在の鎮守の神としてご神威はますます高まっている。
年中祭祀
1月1日 歳旦祭、3月13日 祈年祭、旧6月14日 夏祭 (だごおつや)、旧9月14日 秋祭 (にぎりめしおつや)、11月15日 例祭。
鎮座地
宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 字春日

 新富町指定無形文化財の「新田神楽 (にゅうたかぐら)」が春日神社に伝わっています。

 「春日神社祖霊殿」は神道の儀式により、ご祖先様の御霊をお祀 (まつ)りしています。 春、秋の祖霊祭を斎行し、年祭、50日祭などもご奉仕いたします。

 「新田原牧場跡 (にゅうたばるまきばあと)」 春日神社の境内 (けいだい)の東端に旧佐土原藩2代藩主 島津忠興 公が、寛永4年に牧場を設 (もう)けた際の土塁 (どるい、土手)が残っている。 島津忠興 公が自 (みずか)ら竹杖 (たけつえ)を執 (と)って工事を指揮し築造1日にして完成、母馬80頭を長園牧場より移し小川覚兵衛に管理させたと伝えられる。
(春日神社のパンフレットから。)



写真Z: 西を見たものです。 奥に春日地区集会所、プールがあります。 県道312号のガードレールも見えます。 右は一の鳥居 (とりい)です。



写真AA: 南を見たものです。 見えている道を左 (東)に進むと新田原古墳群の百足塚古墳 (むかでづかこふん)、弥吾郎塚、水神塚などがあります。 手前は春日神社です。



写真AB: 春日神社の二の鳥居 (とりい)、手水舎 (ちょうずや)、石段などがあります。 北を見たものです。



写真AC: 石灯籠 (いしどうろう)、石碑 (せきひ)、看板 (かんばん)があります。



写真AD: 「七五三の参道、七五三の数字は、我国古来よりめでたい陽数とされ、また子供が3歳、5歳、7歳になると、ご神前に詣 (もう)でて無事成長を祈 (いの)る信仰があります。 これに因 (ちな)み当神社では、昭和50年より七五三の参道を設 (もう)けています。 どうぞ皆様がこの階段を1歩1歩踏 (ふ)みしめてご参拝されることにより、ますますの生成発展をお祈り申し上げます。」
と書いてある看板 (かんばん)です。



写真AE: 階段から見下 (お)ろした一の鳥居 (いちのとりい)です。 新富町にある春日神社です。
この「七五三の階段」は下方から7段、5段、3段に分 (わ)かれています。 間には踊り場 (おどりば、階段の中途を広くして、足休めとした所。)があります。



写真AF: 右に御手洗 (みたらい)、石灯籠 (いしどうろう)などがあります。



写真AG: 左は御手洗 (みたらい)、右は「遷宮之碑 (ひ)」です。 南西を見たものです。



写真AH: 春日神社の「遷宮之碑 (ひ)」です。



写真AI: 「畜魂 やすらかに」と書いてある記念碑 (ひ)です。 牛の像もいくつかあります。 「鎮魂」と書いてある石碑 (せきひ)もあります。 左端は「遷宮之碑 (ひ)」です。



写真AJ: 「鎮魂、松尾正雄 39頭、吉田・・・」と書いてある石碑 (せきひ)です。



写真AK: 「畜魂 やすらかに」と書いてある記念碑の裏に「口蹄疫 (こうていえき)の犠牲 (ぎせい)となる牛566頭の御魂を祀 (まつ)る。 平成22年8月吉日」と彫 (ほ)ってあります。 春日神社。



写真AL: 奥に拝殿、本殿、石灯籠 (いしどうろう)の並 (なら)び、社務所、左端は手水舎 (ちょうずや)です。 春日神社の境内 (けいだい)です。 右に外灯もあります。 北を見たものです。



写真AM: 春日神社の手水舎 (ちょうずや)です。



写真AN: 御手洗 (みたらい)です。 柄杓 (ひしゃく)も5本見えます。



写真AO: 春日神社の社務所、拝殿、本殿、参道、石灯籠 (いしどうろう)です。



写真AP: 「社務所」と書いてあります。 横木に彫刻 (ちょうこく)があります。



写真AQ: 社務所の中で「長寿御箸 (はし) 春日神社」と書いてあるもの、木札などを販売しています。



写真AR: 右は拝殿、左は社務所です。



写真AS: 宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 字春日にある春日神社です。 大きなしめ縄もあります。



写真AT: 拝殿の右に絵馬 (えま)を掛 (か)ける所があります。 石垣 (いしがき)もあります。



写真AU: 右奥は江戸時代に佐土原藩の新田原牧場 (にゅうたばるまきば)があったころの土塁 (どるい、土手)です。 車祓 (はらい)所の白い看板 (かんばん)もあります。



写真AV: 国旗掲揚 (けいよう)ポールがあります。



写真AW: 拝殿の上部です。 避雷針も見えます。



写真AX: 拝殿の鈴と紐 (ひも)です。 しめ縄と御幣 (ごへい)もあります。 奥に本殿が見えます。



写真AY: お賽銭箱 (さいせんばこ)、鈴の紐 (ひも)、本殿に行く石段もあります。



写真AZ: 拝殿にある記帳台です。 おみくじ、パンフレット、記帳ノート、絵馬 (えま)などが見えます。 下に椅子 (いす)もあります。



写真BA: おみくじ、絵馬 (えま)を掛 (か)ける所です。 神棚 (かみだな)もあります。 春日神社。



写真BB: 絵馬 (えま)です。



写真BC: 奥に本殿、手前に拝殿と石灯籠 (いしどうろう)があります。



写真BD: 拝殿から本殿に上る石段もあります。



写真BE: 新富町 大字新田 字春日にある春日神社の本殿です。 横木に象などの彫 (ほ)り物があります。



写真BF: 本殿の下部です。 石灯籠 (いしどうろう)があります。



写真BG: 春日神社の本殿です。



写真BH: 春日神社の屋根に外切りの千木 (ちぎ)と2つの鰹木 (かつおぎ)があります。 避雷針も見えます。 右は拝殿です。 4つの石灯籠 (いしどうろう)が見えます。



写真BI: 春日神社の本殿です。 拝殿より一段高いところにあります。



写真BJ: 本殿に榊 (さかき)を供 (そな)えてあります。



写真BK: 境内 (けいだい)に「車祓 (はらい)所」と書いてあります。 右奥は江戸時代 佐土原藩の新田原牧場の土塁 (どるい)が残っているものです。



写真BL: 春日神社の境内 (けいだい)です。 南を見たものです。



写真BM: 社務所も見えます。



写真BN: 右に拝殿、左に社務所があります。 西を見たものです。



写真BO: 「新田原牧場 (にゅうたばるまきば)の跡」の説明板があります。
春日神社の境内 (けいだい)の東端に旧佐土原藩2代藩主 島津忠興 公が、寛永4年に牧場を設 (もう)けた際の土塁 (どるい、土手)が残っている。 島津忠興 公が自 (みずか)ら竹杖 (たけつえ)を執 (と)って工事を指揮し築造1日にして完成、母馬80頭を長園牧場より移し小川覚兵衛に管理させたと伝えられる。



写真BP: 見えている土手 (どて)が江戸時代 佐土原藩の新田原牧場の土塁 (どるい)です。 春日神社の境内 (けいだい)にあります。



写真BQ: 佐土原藩の新田原牧場の土塁 (どるい)です。 ここは江戸時代には佐土原藩の新田原牧場がありました。



写真BR: 新田原牧場の土塁 (どるい)です。 江戸時代の牧場 (まきば)の跡です。 説明板が見えます。 東を見たものです。



写真BS: 左は石垣 (いしがき)、右は牧場跡の土塁 (どるい)です。 北東を見たものです。



写真BT: 北を見たものです。 拝殿、国旗掲揚 (けいよう)ポール、車祓所の看板 (かんばん)、石垣 (いしがき)があります。



写真BU: 春日神社の境内 (けいだい)です。



写真BV: モウソウダケの竹林もあります。



写真BW: 春日神社から東に行く道です。 この道を進むと新田原古墳群の百足塚古墳 (むかでづかこふん)、弥吾郎塚、水神塚などがあります。



写真BX: 北を見たものです。 竹林もあります。



写真BY: 西を見たものです。 右奥に春日神社があります。



写真BZ: 県道312号です。 北を見たものです。 先に進むと春日神社祖霊殿があります。



写真CA: 県道312号です。 北を見たものです。



写真CB: 東を見たものです。 奥に春日神社の社務所、拝殿など、右に春日地区集会所があります。



写真CC: プールがあります。 その奥は春日地区集会所、左は春日神社の社務所です。 県道312号から見たものです。



写真CD: 南を見たものです。 県道312号とプールが見えます。



写真CE: 県道312号。 南を見たものです。



写真CF: 県道312号沿 (ぞ)いに石があります。



写真CG: 屋根の下に7体の仏像が県道312号沿いにあります。 お賽銭箱 (さいせんばこ)、お供 (そな)えもあります。



写真CH: 7体の仏像です。



写真CI: コスモスの花が咲いていました。 県道312号です。 北を見たものです。



写真CJ: 「ピンクのコスモスの花」です。



写真CK: 「蕎麦 (そば)の花」です。



写真CL: 県道312号沿 (ぞ)いの蕎麦 (そば)畑です。 南を見たものです。



写真CM: 「春日神社祖霊殿」の白い看板 (かんばん)が見えてきました。 ピンク、白、黄色のコスモスの花が咲いています。 北を見たものです。



写真CN: 「コスモスの花」 です。



写真CO: 「橙色 (だいだいいろ)のコスモスの花」です。



写真CP: 「春日神社祖霊殿」の看板 (かんばん)のそばに黄色のコスモスの花が咲いていました。



写真CQ: 「黄色のコスモスの花」です。



写真CR: 祖霊殿の社殿が見えます。 東を見たものです。



写真CS: 北を見たものです。



写真CT: 祖霊殿への参道です。 東を見たものです。



写真CU: 祖霊殿の建物が奥に見えます。



写真CV: 祖霊殿の境内 (けいだい)です。 石灯籠 (いしどうろう)、石もあります。



写真CW: 春日神社祖霊殿です。 石灯籠 (いしどうろう)、石もあります。



写真CX: 宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田 字春日にある春日神社祖霊殿です。 国旗掲揚 (けいよう)ポールもあります。



写真CY: 新富町にある春日神社祖霊殿。



写真CZ: 祖霊殿の近くです。



写真DA: 春日神社祖霊殿です。 東を見たものです。



写真DB: 「祖霊殿」と書いてあります。



写真DC: 新しい石灯籠 (いしどうろう)があります。



写真DD: 西を見たものです。 右は祖霊殿の境内 (けいだい)です。



写真DE: 祖霊殿の境内 (けいだい)。



写真DF: 春日神社祖霊殿です。



写真DG: 祖霊殿です。



写真DH: 左は祖霊殿の境内 (けいだい)です。



写真DI: 東を見たものです。



写真DJ: 県道312号沿 (ぞ)いに焼き鶏 (とり)屋さんがあります。 北東を見たものです。



写真DK: 焼き鶏屋さんのそばに古墳 (こふん)があります。



写真DL: これも新田原古墳群の1つの円墳 (えんふん)です。 1本の木が古墳にあります。 県道312号の東側です。 東を見たものです。



写真DM: 南東を見たものです。 左端は古墳 (こふん)です。



写真DN: これは旧道の名残 (なご)りと思われます。 右に県道312号が見えます。



写真DO: 春日神社から東に進み初めの十字路を北に少し行った所です。 円墳の古墳 (こふん)があります。 北を見たものです。



写真DP: 新田原古墳群の円墳です。 草を刈 (か)ってあります。



写真DQ: これも古墳と思われます。



写真DR: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 南を見たものです。



写真DS: 南東を見たものです。



写真DT: 東を見たものです。 新田原 (にゅうたばる)台地です。 右に農家も見えます。



写真DU: 北東を見たものです。 新田原 (にゅうたばる)です。



写真DV: 北を見たものです。



写真DW: 円墳のそばに蕎麦畑 (そばばたけ)があります。 新田原古墳群の3つの古墳が見えます。 北西を見たものです。



写真DX: 西を見たものです。 古墳と蕎麦畑 (そばばたけ)などが見えます。



写真DY: 南西を見たものです。 蕎麦畑 (そばばたけ)が広がっています。 電柱と電線もあります。



写真DZ: 南を見たものです。 建物もあります。



写真EA: 遠くにいくつかの古墳 (こふん)が見えます。 北を見たものです。 新田原 (にゅうたばる)の台地です。



写真EB: 前方後円墳の弥吾郎塚が見えます。 北東を見たものです。 民家もあります。 新田原台地にある新田原古墳群の古墳です。
新田原古墳群にある百足塚古墳 (むかでづかこふん)からの多数の埴輪群 (はにわぐん)は大阪府 高槻市 (たかつきし)にある今城塚古墳 (継体天皇の墓とする説が有力です。)の埴輪群と共通性が高いとして注目されています。 弥吾郎塚古墳は古墳時代後期では南九州最大のもので、全長94 m の前方後円墳です。 百足塚古墳は全長約80 m 、後円部の高さ約9 m 、前方部の高さ約8.5 m の前方後円墳です。 百足塚古墳の周辺では約1000個の円筒埴輪、人物、鳥形、家形、柵形 (さくがた)などの約60個の形象埴輪が発見されました。



写真EC: ここは十字路になっています。 奥に弥吾郎塚が見えます。 北東を見たものです。



写真ED: 北を見たものです。 前方後円墳の水神塚も見えています。 新田原古墳群です。 白い建物は牛舎と思われます。 左に尾鈴山 (標高 1405 m )が見えます。



写真EE: 九州中央山地が新田原台地から美しく見えます。 右から尾鈴山 (標高 1405 m )、鹿遊連山 (かなすみれんざん)、大瀬内山 (標高 978.6 m )、稗畑山 (標高 853.4 m )、猪田山 (標高 741 m)などが見えます。
古墳 (こふん)が造られた古墳時代と現在とでは山々の形はほとんど変わっていないと思われます。 この山々の景色と同じものを古墳時代の人々も見ていたことでしょう。



写真EF: 西を見たものです。 左に農業用ビニールハウスの骨組みがあります。



写真EG: 南を見たものです。 農家の建物もあります。



写真EH: 北東を見たものです。 前方後円墳の弥吾郎塚、その右に畜舎と思われる長い建物もあります。 新田原台地です。



写真EI: 中央に水神塚が見えます。 北を見たものです。



写真EJ: 畑の中に古墳と思われるものがあります。



写真EK: 西を見たものです。 畑が広がっています。



写真EL: 前方後円墳の弥吾郎塚が見えます。



写真EM: 茶畑が左にあります。



写真EN: 「昼顔 (ひるがお)の花」が咲いています。



写真EO: 新田原古墳群にある前方後円墳の弥吾郎塚です。 民家もあります。



写真EP: 野草の「セイタカアワダチソウの花」です。



写真EQ: 前方後円墳の弥吾郎塚です。 新田原古墳群。



写真ER: 東を見たものです。 左は弥吾郎塚です。



写真ES: 北を見たものです。 弥吾郎塚です。 手前にススキが見えます。



写真ET: 野草の「アキノノゲシの花」が咲いていました。



写真EU: 前方後円墳の弥吾郎塚です。



写真EV: 左は弥吾郎塚です。



写真EW: 近くから見た前方後円墳の弥吾郎塚です。 新田原古墳群。
弥吾郎塚古墳は古墳時代後期では南九州最大のもので、全長94 m の前方後円墳です。



写真EX: 西を見たものです。 九州中央山地が見えます。 右から大瀬内山 (標高 978.6 m )、稗畑山 (標高 853.4 m )、猪田山 (標高 741 m)などが見えます。



写真EY: 左は弥吾郎塚です。



写真EZ: 西を見たものです。 弥吾郎塚です。



写真FA: 右から鹿遊連山 (かなすみれんざん)、大瀬内山 (標高 978.6 m )などが見えます。 右の白い屋根は畜舎と思われます。



写真FB: 左の前方後円墳は52号墳です。 右から大瀬内山 (標高 978.6 m )、稗畑山 (標高 853.4 m )、地蔵岳(標高 1089 m)、猪田山 (標高 741 m)などが見えます。 手前に黄色のセイタカアワダチソウの花があります。



写真FC: 左端は弥吾郎塚です。



写真FD: 新田原古墳群にある弥吾郎塚です。 弥吾郎塚古墳は古墳時代後期では南九州最大のもので、全長94 m の前方後円墳です。



写真FE: 弥吾郎塚。 西を見たものです。 弥吾郎塚古墳は古墳時代後期では南九州最大のもので、全長94 m の前方後円墳です。



写真FF: 弥吾郎塚です。 弥吾郎塚古墳は古墳時代後期では南九州最大のもので、全長94 m の前方後円墳です。



写真FG: 南を見たものです。



写真FH: 北東を見たものです。 畜舎と思われる建物があります。



写真FI: 北を見たものです。 前方後円墳の52号墳が見えます。



写真FJ: 左の木は弥吾郎塚の近くにあるもので、右の木は52号墳のそばの木です。 右端は52号墳です。



写真FK: 弥吾郎塚と木です。



写真FL: 新田原古墳群 (にゅうたばるこふんぐん)にある弥吾郎塚です。



写真FM: 南を見たものです。



写真FN: 近くの様子 (ようす)です。



写真FO: 東を見たものです。



写真FP: 北東を見たものです。



写真FQ: 弥吾郎塚の近くです。



写真FR: 左寄りに円墳の古墳があります。



写真FS: 左は前方後円墳の52号墳、右は円墳です。 北を見たものです。



写真FT: 畑を耕 (たがや)してあります。



写真FU: 左は前方後円墳の弥吾郎塚、その右に円墳も見えます。 新田原古墳群です。



写真FV: 弥吾郎塚です。 左は来た道です。



写真FW: 南を見たものです。



写真FX: 新田原古墳群にある52号墳です。 前方後円墳です。
52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。 52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)と考えられています。



写真FY: 近くにある円墳です。



写真FZ: 古墳が見えます。 奥は水神塚です。



写真GA: 古墳のそばは畑になっています。 左は52号墳です。
52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。 52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)と考えられています。



写真GB: 前方後円墳です。 52号墳。
52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。 52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)と考えられています。



写真GC: 畑を耕 (たがや)してあります。 52号墳です。
52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。 52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)と考えられています。



写真GD: 弥吾郎塚を振 (ふ)り返ったものです。



写真GE: 南を見たものです。



写真GF: まわりの様子 (ようす)です。



写真GG: 円墳です。



写真GH: 野草の「エノコログサの穂」です。



写真GI: 前方後円墳です。 水神塚です。



写真GJ: 左は前方後円墳の百足塚古墳 (むかでづかこふん)です。 右に白い牛舎があります。 高い竹を立ててあり、綱 (つな)を張 (は)ってあります。



写真GK: 新田原古墳群公園です。 手前は広場になっています。 奥は百足塚古墳 (むかでづかこふん)です。 新田原古墳群です。



写真GL: 右に百足塚古墳のそばにあるトイレなどの建物が小さく見えます。 北を見たものです。



写真GM: 前方後円墳です。



写真GN: 前方後円墳とまわりの様子 (ようす)です。



写真GO: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。 奥に弥吾郎塚、手前に水神塚があります。 南を見たものです。



写真GP: 新田原古墳群公園の広場にベンチがあります。 奥に白い牛舎があります。 左奥は百足塚古墳 (むかでづかこふん)です。 東を見たものです。



写真GQ: 新田原古墳群公園です。 こちらにもベンチがあります。 道路の脇 (わき)に木製の短い棒 (ぼう)が多くあります。 右は百足塚古墳です。 左奥にトイレなどの建物や駐車場があります。 北を見たものです。



写真GR: 百足塚古墳の近くから北を見たものです。



写真GS: 北西を見たものです。



写真GT: 西を見たものです。 2つの古墳が見えます。 左は水神塚です。 新富町にある新田原古墳群です。



写真GU: 南西を見たものです。 水神塚です。



写真GV: 来た道を振り返ったものです。 百足塚古墳の広場です。 高い竹竿 (たけざお)、ベンチ、道路の脇 (わき)の木製の短い円筒型のものなどが見えます。



写真GW: 宮崎県 児湯郡 新富町の新田原古墳群にある百足塚古墳 (むかでづかこふん)です。 東を見たものです。 右は牛舎です。 この古墳の手前に埴輪 (はにわ)を多く並 (なら)べてあるのが見えます。 その左に白い説明板があります。
新田原古墳群にある百足塚古墳 (むかでづかこふん)からの多数の埴輪群 (はにわぐん)は大阪府 高槻市 (たかつきし)にある今城塚古墳 (継体天皇の墓とする説が有力です。)の埴輪群と共通性が高いとして注目されています。



写真GX: 右に多くの並 (なら)んだ埴輪 (はにわ)、2つの説明板、ベンチもあります。 前方後円墳の百足塚古墳 (むかでづかこふん)です。 左奥に59号墳が見えます。 東を見たものです。



写真GY: 新富町にある新田原古墳群公園の施設が見えます。 トイレ、休憩所 (きゅうけいしょ)、建物、看板 (かんばん)、駐車場などがあります。 その右にも円墳があります。 右は百足塚古墳の広場です。



写真GZ: 新富町の新田原古墳群にある新田原古墳群公園の施設です。



写真HA: 百足塚古墳の近くから見たものです。 こちらにも古墳があります。



写真HB: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」の説明板があります。



写真HC: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」です。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真HD: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真HE: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真HF: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真HG: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真HH: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真HI: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」です。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真HJ: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」です。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真HK: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」です。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真KL: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真KM: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」です。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真KN: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真KO: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」です。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真KP: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真KQ: 「祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)の案内」。
 新田原古墳群は新富町 大字新田から西都市 右松にある国指定史跡です。
 その分布は一ツ瀬川左岸 (下流を見て左。)台地上で、4つの地区に集中しているため、それぞれ塚原古墳群 (つかばるこふんぐん)、石船古墳群 (いわふねこふんぐん)、山之坊古墳群 (やまのぼうこふんぐん)、祇園原古墳群 (ぎおんばるこふんぐん)と呼 (よ)んでいます。
祇園原古墳群には前方後円墳14基、方墳1基、円墳139基の合計154基の古墳があり、古墳の多くは6世紀 (古墳時代後期)に造られています。
 発掘調査はあまり行われていませんが、平成9年度から始まった百足塚古墳 (むかでづか古墳)の調査では周溝 (古墳のまわりの堀)に転落していた埴輪 (はにわ)が多数発見され、宮崎県でもめずらしい人物、鳥形、家形、柵形 (さくけい)などの埴輪が復元されています。
平成4年度にはBグループで円墳の周溝から地下式横穴墓や馬の埋葬穴などが発見されています。
52号墳から発見された大刀の単龍環状柄頭は当時の中央政権から配布された威信具 (権力を表したもの)でしょう。
 祇園原古墳群の前方後円墳の多くは6世紀において日向地方最大であり、当時の首長達の墓であろうと考えられています。
新田原古墳群の分布、祇園原古墳群の古墳分布、祇園原古墳群の様子 (ようす)、Bグループで発見された円墳群などの説明図。
 百足塚古墳で発見された埴輪 (はにわ)は周溝の外にある周堤上に配置されていたようです。 埋葬された人物の生前の世界などを表現したものともいわれています。
 52号墳では戦時中に掘り出された穴から大刀の柄 (え)の部分につけられた柄頭が残されています。 柄頭は龍の頭部の周 (まわ)りに体が取り巻く様子 (ようす)を表しています。
百足塚古墳の埴輪 (はにわ)出土状態、百足塚古墳の埴輪、52号墳、単龍環状柄頭、地下式横穴墓に埋葬された女性の人骨、馬の埋葬穴の写真もあります。
平成15年3月31日 新富町教育委員会
と書かれています。



写真KR: 新田原古墳群公園の近くの休憩所 (きゅうけいしょ)、トイレ、駐車場、円形ベンチ、説明板などです。 北を見たものです。



写真KS: 「新田原古墳群 国指定史跡 (昭和19年12月19日指定)」の説明板があります。



写真KT: 「新田原古墳群 国指定史跡 (昭和19年12月19日指定)」の説明板です。
一ツ瀬川と小丸川流域の古墳群
 宮崎県の一ツ瀬川と小丸川流域には、今から1400年から1600年前に造られた首長達の墓が多数残されています。
 両河川の流域は、宮崎県でも最も古墳群が集中的に分布しており、その数は800基以上を数 (かぞ)えます。
 特に一ツ瀬川流域の西都原古墳群には311基が、新田原古墳群には207基の古墳があり、全国的にも著名な群集墳となっています。
古墳の造られた時代
 日本列島の各地域の首長達の多くは「前方後円墳」と呼 (よ)ばれる特徴的な形の古墳に埋葬 (まいそう)され、その大きさなどで権力の強さを誇 (ほこ)ったものと考えられます。 この時代を「古墳時代」と呼んでおり、まさに日本が中央集権国家に移り変わろうとする時期で、おおよそ300年続きました。
 一ツ瀬川流域の古墳が造られた時期を、発見された出土品などにより推測すると、右のような図ができます。
 これによると、前半には西都原古墳群に有力な首長の墓が多数あり、後半になると新田原古墳群にたくさんの古墳が造られるようになったと考えられます。
 首長の権力が移り変わったのか、古墳を造る場所が変わったのか、興味深い古墳の分布を示しています。
新田原 (にゅうたばる)と祇園原 (ぎおんばる)
 「新田原古墳群」とは昭和19年に旧新田村にあった古墳をすべて国の指定史跡とした時の名称で、実際は東から「塚原」「石船」「山之坊」「祇園原」という、4つの古墳群に分けることができます。
 このうち祇園原古墳群には154基の古墳があり、古墳時代中期から後期にかけて首長たちの墓が残されています。
 特に古墳時代後期には宮崎県内でも最大の首長の墓が連続して造られており、その代表が59号墳、百足塚古墳、弥吾郎塚古墳です。



写真KU: 「新田原古墳群 国指定史跡 (昭和19年12月19日指定)」の説明板。
一ツ瀬川と小丸川流域の古墳群
 宮崎県の一ツ瀬川と小丸川流域には、今から1400年から1600年前に造られた首長達の墓が多数残されています。
 両河川の流域は、宮崎県でも最も古墳群が集中的に分布しており、その数は800基以上を数 (かぞ)えます。
 特に一ツ瀬川流域の西都原古墳群には311基が、新田原古墳群には207基の古墳があり、全国的にも著名な群集墳となっています。
古墳の造られた時代
 日本列島の各地域の首長達の多くは「前方後円墳」と呼 (よ)ばれる特徴的な形の古墳に埋葬 (まいそう)され、その大きさなどで権力の強さを誇 (ほこ)ったものと考えられます。 この時代を「古墳時代」と呼んでおり、まさに日本が中央集権国家に移り変わろうとする時期で、おおよそ300年続きました。
 一ツ瀬川流域の古墳が造られた時期を、発見された出土品などにより推測すると、右のような図ができます。
 これによると、前半には西都原古墳群に有力な首長の墓が多数あり、後半になると新田原古墳群にたくさんの古墳が造られるようになったと考えられます。
 首長の権力が移り変わったのか、古墳を造る場所が変わったのか、興味深い古墳の分布を示しています。
新田原 (にゅうたばる)と祇園原 (ぎおんばる)
 「新田原古墳群」とは昭和19年に旧新田村にあった古墳をすべて国の指定史跡とした時の名称で、実際は東から「塚原」「石船」「山之坊」「祇園原」という、4つの古墳群に分けることができます。
 このうち祇園原古墳群には154基の古墳があり、古墳時代中期から後期にかけて首長たちの墓が残されています。
 特に古墳時代後期には宮崎県内でも最大の首長の墓が連続して造られており、その代表が59号墳、百足塚古墳、弥吾郎塚古墳です。



写真KV: 「新田原古墳群 国指定史跡 (昭和19年12月19日指定)」の説明板です。
一ツ瀬川と小丸川流域の古墳群
 宮崎県の一ツ瀬川と小丸川流域には、今から1400年から1600年前に造られた首長達の墓が多数残されています。
 両河川の流域は、宮崎県でも最も古墳群が集中的に分布しており、その数は800基以上を数 (かぞ)えます。
 特に一ツ瀬川流域の西都原古墳群には311基が、新田原古墳群には207基の古墳があり、全国的にも著名な群集墳となっています。
古墳の造られた時代
 日本列島の各地域の首長達の多くは「前方後円墳」と呼 (よ)ばれる特徴的な形の古墳に埋葬 (まいそう)され、その大きさなどで権力の強さを誇 (ほこ)ったものと考えられます。 この時代を「古墳時代」と呼んでおり、まさに日本が中央集権国家に移り変わろうとする時期で、おおよそ300年続きました。
 一ツ瀬川流域の古墳が造られた時期を、発見された出土品などにより推測すると、右のような図ができます。
 これによると、前半には西都原古墳群に有力な首長の墓が多数あり、後半になると新田原古墳群にたくさんの古墳が造られるようになったと考えられます。
 首長の権力が移り変わったのか、古墳を造る場所が変わったのか、興味深い古墳の分布を示しています。
新田原 (にゅうたばる)と祇園原 (ぎおんばる)
 「新田原古墳群」とは昭和19年に旧新田村にあった古墳をすべて国の指定史跡とした時の名称で、実際は東から「塚原」「石船」「山之坊」「祇園原」という、4つの古墳群に分けることができます。
 このうち祇園原古墳群には154基の古墳があり、古墳時代中期から後期にかけて首長たちの墓が残されています。
 特に古墳時代後期には宮崎県内でも最大の首長の墓が連続して造られており、その代表が59号墳、百足塚古墳、弥吾郎塚古墳です。



写真KW: 「新田原古墳群 国指定史跡 (昭和19年12月19日指定)」の説明板です。
一ツ瀬川と小丸川流域の古墳群
 宮崎県の一ツ瀬川と小丸川流域には、今から1400年から1600年前に造られた首長達の墓が多数残されています。
 両河川の流域は、宮崎県でも最も古墳群が集中的に分布しており、その数は800基以上を数 (かぞ)えます。
 特に一ツ瀬川流域の西都原古墳群には311基が、新田原古墳群には207基の古墳があり、全国的にも著名な群集墳となっています。
古墳の造られた時代
 日本列島の各地域の首長達の多くは「前方後円墳」と呼 (よ)ばれる特徴的な形の古墳に埋葬 (まいそう)され、その大きさなどで権力の強さを誇 (ほこ)ったものと考えられます。 この時代を「古墳時代」と呼んでおり、まさに日本が中央集権国家に移り変わろうとする時期で、おおよそ300年続きました。
 一ツ瀬川流域の古墳が造られた時期を、発見された出土品などにより推測すると、右のような図ができます。
 これによると、前半には西都原古墳群に有力な首長の墓が多数あり、後半になると新田原古墳群にたくさんの古墳が造られるようになったと考えられます。
 首長の権力が移り変わったのか、古墳を造る場所が変わったのか、興味深い古墳の分布を示しています。
新田原 (にゅうたばる)と祇園原 (ぎおんばる)
 「新田原古墳群」とは昭和19年に旧新田村にあった古墳をすべて国の指定史跡とした時の名称で、実際は東から「塚原」「石船」「山之坊」「祇園原」という、4つの古墳群に分けることができます。
 このうち祇園原古墳群には154基の古墳があり、古墳時代中期から後期にかけて首長たちの墓が残されています。
 特に古墳時代後期には宮崎県内でも最大の首長の墓が連続して造られており、その代表が59号墳、百足塚古墳、弥吾郎塚古墳です。



写真KX: 「新田原古墳群 国指定史跡 (昭和19年12月19日指定)」の説明板です。
一ツ瀬川と小丸川流域の古墳群
 宮崎県の一ツ瀬川と小丸川流域には、今から1400年から1600年前に造られた首長達の墓が多数残されています。
 両河川の流域は、宮崎県でも最も古墳群が集中的に分布しており、その数は800基以上を数 (かぞ)えます。
 特に一ツ瀬川流域の西都原古墳群には311基が、新田原古墳群には207基の古墳があり、全国的にも著名な群集墳となっています。
古墳の造られた時代
 日本列島の各地域の首長達の多くは「前方後円墳」と呼 (よ)ばれる特徴的な形の古墳に埋葬 (まいそう)され、その大きさなどで権力の強さを誇 (ほこ)ったものと考えられます。 この時代を「古墳時代」と呼んでおり、まさに日本が中央集権国家に移り変わろうとする時期で、おおよそ300年続きました。
 一ツ瀬川流域の古墳が造られた時期を、発見された出土品などにより推測すると、右のような図ができます。
 これによると、前半には西都原古墳群に有力な首長の墓が多数あり、後半になると新田原古墳群にたくさんの古墳が造られるようになったと考えられます。
 首長の権力が移り変わったのか、古墳を造る場所が変わったのか、興味深い古墳の分布を示しています。
新田原 (にゅうたばる)と祇園原 (ぎおんばる)
 「新田原古墳群」とは昭和19年に旧新田村にあった古墳をすべて国の指定史跡とした時の名称で、実際は東から「塚原」「石船」「山之坊」「祇園原」という、4つの古墳群に分けることができます。
 このうち祇園原古墳群には154基の古墳があり、古墳時代中期から後期にかけて首長たちの墓が残されています。
 特に古墳時代後期には宮崎県内でも最大の首長の墓が連続して造られており、その代表が59号墳、百足塚古墳、弥吾郎塚古墳です。



写真KY: 「新田原古墳群 国指定史跡 (昭和19年12月19日指定)」の説明板です。
一ツ瀬川と小丸川流域の古墳群
 宮崎県の一ツ瀬川と小丸川流域には、今から1400年から1600年前に造られた首長達の墓が多数残されています。
 両河川の流域は、宮崎県でも最も古墳群が集中的に分布しており、その数は800基以上を数 (かぞ)えます。
 特に一ツ瀬川流域の西都原古墳群には311基が、新田原古墳群には207基の古墳があり、全国的にも著名な群集墳となっています。
古墳の造られた時代
 日本列島の各地域の首長達の多くは「前方後円墳」と呼 (よ)ばれる特徴的な形の古墳に埋葬 (まいそう)され、その大きさなどで権力の強さを誇 (ほこ)ったものと考えられます。 この時代を「古墳時代」と呼んでおり、まさに日本が中央集権国家に移り変わろうとする時期で、おおよそ300年続きました。
 一ツ瀬川流域の古墳が造られた時期を、発見された出土品などにより推測すると、右のような図ができます。
 これによると、前半には西都原古墳群に有力な首長の墓が多数あり、後半になると新田原古墳群にたくさんの古墳が造られるようになったと考えられます。
 首長の権力が移り変わったのか、古墳を造る場所が変わったのか、興味深い古墳の分布を示しています。
新田原 (にゅうたばる)と祇園原 (ぎおんばる)
 「新田原古墳群」とは昭和19年に旧新田村にあった古墳をすべて国の指定史跡とした時の名称で、実際は東から「塚原」「石船」「山之坊」「祇園原」という、4つの古墳群に分けることができます。
 このうち祇園原古墳群には154基の古墳があり、古墳時代中期から後期にかけて首長たちの墓が残されています。
 特に古墳時代後期には宮崎県内でも最大の首長の墓が連続して造られており、その代表が59号墳、百足塚古墳、弥吾郎塚古墳です。



写真KZ: 右は休憩所 (きゅうけいしょ)、左はトイレ、奥は駐車場です。 北を見たものです。



写真LA: 右にも建物があります。



写真LB: 右は百足塚古墳、左は円墳、奥にも前方後円墳 (59号墳)があります。



写真LC: 新田原古墳群にある百足塚古墳、説明板、ベンチ、左端に59号墳が見えます。 東を見たものです。



写真LD: 百足塚古墳です。 右に埴輪 (はにわ)を多数並 (なら)べてあります。 この円筒埴輪 (えんとうはにわ)はレプリカで、近くの小学生たちが作ったものだそうです。 2つの説明板、ベンチもあります。 南東を見たものです。



写真LE: 南を見たものです。 左に百足塚古墳の埴輪 (はにわ)の列、遠くに弥吾郎塚、右に水神塚が見えます。



写真LF: 中央にも古墳が見えます。 左端は水神塚です。 手前は百足塚古墳の広場です。 南西を見たものです。



写真LG: 西を見たものです。 立木、トイレ、看板 (かんばん)があります。



写真LH: 新田原古墳群公園の施設です。



写真LI: 円墳です。 右端は59号墳です。 北東を見たものです。



写真LJ: 右から百足塚古墳、59号墳、円墳です。



写真LK: 「国史跡 新田原古墳群 百足塚古墳 (新田原58号墳)」の説明板があります。



写真LL: 百足塚古墳のそばです。 東を見たものです。



写真LM: 「国史跡 新田原古墳群 百足塚古墳 (新田原58号墳)」の説明板です。
百足塚古墳 (むかでづかこふん)の概要
 祇園原古墳群のなかでも4番目に大きい百足塚古墳は、墳長約80 m 、後円部の高さ約6 m の前方後円墳です。 後円部、前方部ともに2段で、墳丘の周辺には盾形 (たてがた)の周溝と周堤が巡 (めぐ)ります。 出土品などの特徴から古墳時代後期前半に造られたと推測されています。
 日向地方 (現在の宮崎県と鹿児島県 大隅半島一帯)では、古墳時代後期の前方後円墳としては最大規模のもので、横穴式石室の採用や多量の形象埴輪 (はにわ)の配置など、後期前半に活躍した首長の姿が彷彿 (ほうふつ)とされます。
 平成9年度から発掘調査され、平成22年から24年度に復元整備を行いました。
横穴式石室
 首長を埋葬 (まいそう)したところは、後円部第1段に配置された横穴式石室でした。 石室は、天井部を1段目のテラスの位置に配置し、古墳の裾部 (すそぶ)からスロープ状に侵入するような墓道があります。 内部は未調査ですが、横穴式石室を採用する古墳の少ない宮崎県域でも最初に造られた例であると考えられます。
多量の円筒埴輪 (はにわ)列と形象埴輪群の配置
 墳丘の各段 (墳頂とテラス)と周堤には円筒埴輪が並べられ、その数は1000本におよびました。 墳丘の要所と周堤の要所には、それぞれ盾形 (たてがた)と盾持ち人形の埴輪がおかれ、古墳に近づく邪悪 (じゃあく)な魂 (たましい)を退 (しりぞ)ける役割を期待したものと思われます。
 墳丘の西側周堤には多量の形象埴輪が配置されていました。 その数は現在確認できるだけでも60点以上あります。
百足塚古墳および周辺施設の地図、古墳各部の呼び方の図、発掘調査前の百足塚古墳 (昭和50年代)の写真、整備中の百足塚古墳の写真、横穴式石室の入口の写真
も載 (の)っています。
平成25年3月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真LN: 「国史跡 新田原古墳群 百足塚古墳 (新田原58号墳)」の説明板です。
百足塚古墳 (むかでづかこふん)の概要
 祇園原古墳群のなかでも4番目に大きい百足塚古墳は、墳長約80 m 、後円部の高さ約6 m の前方後円墳です。 後円部、前方部ともに2段で、墳丘の周辺には盾形 (たてがた)の周溝と周堤が巡 (めぐ)ります。 出土品などの特徴から古墳時代後期前半に造られたと推測されています。
 日向地方 (現在の宮崎県と鹿児島県 大隅半島一帯)では、古墳時代後期の前方後円墳としては最大規模のもので、横穴式石室の採用や多量の形象埴輪 (はにわ)の配置など、後期前半に活躍した首長の姿が彷彿 (ほうふつ)とされます。
 平成9年度から発掘調査され、平成22年から24年度に復元整備を行いました。
横穴式石室
 首長を埋葬 (まいそう)したところは、後円部第1段に配置された横穴式石室でした。 石室は、天井部を1段目のテラスの位置に配置し、古墳の裾部 (すそぶ)からスロープ状に侵入するような墓道があります。 内部は未調査ですが、横穴式石室を採用する古墳の少ない宮崎県域でも最初に造られた例であると考えられます。
多量の円筒埴輪 (はにわ)列と形象埴輪群の配置
 墳丘の各段 (墳頂とテラス)と周堤には円筒埴輪が並べられ、その数は1000本におよびました。 墳丘の要所と周堤の要所には、それぞれ盾形 (たてがた)と盾持ち人形の埴輪がおかれ、古墳に近づく邪悪 (じゃあく)な魂 (たましい)を退 (しりぞ)ける役割を期待したものと思われます。
 墳丘の西側周堤には多量の形象埴輪が配置されていました。 その数は現在確認できるだけでも60点以上あります。
百足塚古墳および周辺施設の地図、古墳各部の呼び方の図、発掘調査前の百足塚古墳 (昭和50年代)の写真、整備中の百足塚古墳の写真、横穴式石室の入口の写真
も載 (の)っています。
平成25年3月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真LO: 「国史跡 新田原古墳群 百足塚古墳 (新田原58号墳)」の説明板。
百足塚古墳 (むかでづかこふん)の概要
 祇園原古墳群のなかでも4番目に大きい百足塚古墳は、墳長約80 m 、後円部の高さ約6 m の前方後円墳です。 後円部、前方部ともに2段で、墳丘の周辺には盾形 (たてがた)の周溝と周堤が巡 (めぐ)ります。 出土品などの特徴から古墳時代後期前半に造られたと推測されています。
 日向地方 (現在の宮崎県と鹿児島県 大隅半島一帯)では、古墳時代後期の前方後円墳としては最大規模のもので、横穴式石室の採用や多量の形象埴輪 (はにわ)の配置など、後期前半に活躍した首長の姿が彷彿 (ほうふつ)とされます。
 平成9年度から発掘調査され、平成22年から24年度に復元整備を行いました。
横穴式石室
 首長を埋葬 (まいそう)したところは、後円部第1段に配置された横穴式石室でした。 石室は、天井部を1段目のテラスの位置に配置し、古墳の裾部 (すそぶ)からスロープ状に侵入するような墓道があります。 内部は未調査ですが、横穴式石室を採用する古墳の少ない宮崎県域でも最初に造られた例であると考えられます。
多量の円筒埴輪 (はにわ)列と形象埴輪群の配置
 墳丘の各段 (墳頂とテラス)と周堤には円筒埴輪が並べられ、その数は1000本におよびました。 墳丘の要所と周堤の要所には、それぞれ盾形 (たてがた)と盾持ち人形の埴輪がおかれ、古墳に近づく邪悪 (じゃあく)な魂 (たましい)を退 (しりぞ)ける役割を期待したものと思われます。
 墳丘の西側周堤には多量の形象埴輪が配置されていました。 その数は現在確認できるだけでも60点以上あります。
百足塚古墳および周辺施設の地図、古墳各部の呼び方の図、発掘調査前の百足塚古墳 (昭和50年代)の写真、整備中の百足塚古墳の写真、横穴式石室の入口の写真
も載 (の)っています。
平成25年3月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真LP: 「国史跡 新田原古墳群 百足塚古墳 (新田原58号墳)」の説明板です。
百足塚古墳 (むかでづかこふん)の概要
 祇園原古墳群のなかでも4番目に大きい百足塚古墳は、墳長約80 m 、後円部の高さ約6 m の前方後円墳です。 後円部、前方部ともに2段で、墳丘の周辺には盾形 (たてがた)の周溝と周堤が巡 (めぐ)ります。 出土品などの特徴から古墳時代後期前半に造られたと推測されています。
 日向地方 (現在の宮崎県と鹿児島県 大隅半島一帯)では、古墳時代後期の前方後円墳としては最大規模のもので、横穴式石室の採用や多量の形象埴輪 (はにわ)の配置など、後期前半に活躍した首長の姿が彷彿 (ほうふつ)とされます。
 平成9年度から発掘調査され、平成22年から24年度に復元整備を行いました。
横穴式石室
 首長を埋葬 (まいそう)したところは、後円部第1段に配置された横穴式石室でした。 石室は、天井部を1段目のテラスの位置に配置し、古墳の裾部 (すそぶ)からスロープ状に侵入するような墓道があります。 内部は未調査ですが、横穴式石室を採用する古墳の少ない宮崎県域でも最初に造られた例であると考えられます。
多量の円筒埴輪 (はにわ)列と形象埴輪群の配置
 墳丘の各段 (墳頂とテラス)と周堤には円筒埴輪が並べられ、その数は1000本におよびました。 墳丘の要所と周堤の要所には、それぞれ盾形 (たてがた)と盾持ち人形の埴輪がおかれ、古墳に近づく邪悪 (じゃあく)な魂 (たましい)を退 (しりぞ)ける役割を期待したものと思われます。
 墳丘の西側周堤には多量の形象埴輪が配置されていました。 その数は現在確認できるだけでも60点以上あります。
百足塚古墳および周辺施設の地図、古墳各部の呼び方の図、発掘調査前の百足塚古墳 (昭和50年代)の写真、整備中の百足塚古墳の写真、横穴式石室の入口の写真
も載 (の)っています。
平成25年3月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真LQ: 「国史跡 新田原古墳群 百足塚古墳 (新田原58号墳)」の説明板。
百足塚古墳 (むかでづかこふん)の概要
 祇園原古墳群のなかでも4番目に大きい百足塚古墳は、墳長約80 m 、後円部の高さ約6 m の前方後円墳です。 後円部、前方部ともに2段で、墳丘の周辺には盾形 (たてがた)の周溝と周堤が巡 (めぐ)ります。 出土品などの特徴から古墳時代後期前半に造られたと推測されています。
 日向地方 (現在の宮崎県と鹿児島県 大隅半島一帯)では、古墳時代後期の前方後円墳としては最大規模のもので、横穴式石室の採用や多量の形象埴輪 (はにわ)の配置など、後期前半に活躍した首長の姿が彷彿 (ほうふつ)とされます。
 平成9年度から発掘調査され、平成22年から24年度に復元整備を行いました。
横穴式石室
 首長を埋葬 (まいそう)したところは、後円部第1段に配置された横穴式石室でした。 石室は、天井部を1段目のテラスの位置に配置し、古墳の裾部 (すそぶ)からスロープ状に侵入するような墓道があります。 内部は未調査ですが、横穴式石室を採用する古墳の少ない宮崎県域でも最初に造られた例であると考えられます。
多量の円筒埴輪 (はにわ)列と形象埴輪群の配置
 墳丘の各段 (墳頂とテラス)と周堤には円筒埴輪が並べられ、その数は1000本におよびました。 墳丘の要所と周堤の要所には、それぞれ盾形 (たてがた)と盾持ち人形の埴輪がおかれ、古墳に近づく邪悪 (じゃあく)な魂 (たましい)を退 (しりぞ)ける役割を期待したものと思われます。
 墳丘の西側周堤には多量の形象埴輪が配置されていました。 その数は現在確認できるだけでも60点以上あります。
百足塚古墳および周辺施設の地図、古墳各部の呼び方の図、発掘調査前の百足塚古墳 (昭和50年代)の写真、整備中の百足塚古墳の写真、横穴式石室の入口の写真
も載 (の)っています。
平成25年3月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真LR: 「国史跡 新田原古墳群 百足塚古墳 (新田原58号墳)」の説明板です。
百足塚古墳 (むかでづかこふん)の概要
 祇園原古墳群のなかでも4番目に大きい百足塚古墳は、墳長約80 m 、後円部の高さ約6 m の前方後円墳です。 後円部、前方部ともに2段で、墳丘の周辺には盾形 (たてがた)の周溝と周堤が巡 (めぐ)ります。 出土品などの特徴から古墳時代後期前半に造られたと推測されています。
 日向地方 (現在の宮崎県と鹿児島県 大隅半島一帯)では、古墳時代後期の前方後円墳としては最大規模のもので、横穴式石室の採用や多量の形象埴輪 (はにわ)の配置など、後期前半に活躍した首長の姿が彷彿 (ほうふつ)とされます。
 平成9年度から発掘調査され、平成22年から24年度に復元整備を行いました。
横穴式石室
 首長を埋葬 (まいそう)したところは、後円部第1段に配置された横穴式石室でした。 石室は、天井部を1段目のテラスの位置に配置し、古墳の裾部 (すそぶ)からスロープ状に侵入するような墓道があります。 内部は未調査ですが、横穴式石室を採用する古墳の少ない宮崎県域でも最初に造られた例であると考えられます。
多量の円筒埴輪 (はにわ)列と形象埴輪群の配置
 墳丘の各段 (墳頂とテラス)と周堤には円筒埴輪が並べられ、その数は1000本におよびました。 墳丘の要所と周堤の要所には、それぞれ盾形 (たてがた)と盾持ち人形の埴輪がおかれ、古墳に近づく邪悪 (じゃあく)な魂 (たましい)を退 (しりぞ)ける役割を期待したものと思われます。
 墳丘の西側周堤には多量の形象埴輪が配置されていました。 その数は現在確認できるだけでも60点以上あります。
百足塚古墳および周辺施設の地図、古墳各部の呼び方の図、発掘調査前の百足塚古墳 (昭和50年代)の写真、整備中の百足塚古墳の写真、横穴式石室の入口の写真
も載 (の)っています。
平成25年3月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真LS: 「国史跡 新田原古墳群 百足塚古墳 (新田原58号墳)」の説明板。
百足塚古墳 (むかでづかこふん)の概要
 祇園原古墳群のなかでも4番目に大きい百足塚古墳は、墳長約80 m 、後円部の高さ約6 m の前方後円墳です。 後円部、前方部ともに2段で、墳丘の周辺には盾形 (たてがた)の周溝と周堤が巡 (めぐ)ります。 出土品などの特徴から古墳時代後期前半に造られたと推測されています。
 日向地方 (現在の宮崎県と鹿児島県 大隅半島一帯)では、古墳時代後期の前方後円墳としては最大規模のもので、横穴式石室の採用や多量の形象埴輪 (はにわ)の配置など、後期前半に活躍した首長の姿が彷彿 (ほうふつ)とされます。
 平成9年度から発掘調査され、平成22年から24年度に復元整備を行いました。
横穴式石室
 首長を埋葬 (まいそう)したところは、後円部第1段に配置された横穴式石室でした。 石室は、天井部を1段目のテラスの位置に配置し、古墳の裾部 (すそぶ)からスロープ状に侵入するような墓道があります。 内部は未調査ですが、横穴式石室を採用する古墳の少ない宮崎県域でも最初に造られた例であると考えられます。
多量の円筒埴輪 (はにわ)列と形象埴輪群の配置
 墳丘の各段 (墳頂とテラス)と周堤には円筒埴輪が並べられ、その数は1000本におよびました。 墳丘の要所と周堤の要所には、それぞれ盾形 (たてがた)と盾持ち人形の埴輪がおかれ、古墳に近づく邪悪 (じゃあく)な魂 (たましい)を退 (しりぞ)ける役割を期待したものと思われます。
 墳丘の西側周堤には多量の形象埴輪が配置されていました。 その数は現在確認できるだけでも60点以上あります。
百足塚古墳および周辺施設の地図、古墳各部の呼び方の図、発掘調査前の百足塚古墳 (昭和50年代)の写真、整備中の百足塚古墳の写真、横穴式石室の入口の写真
も載 (の)っています。
平成25年3月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真LT: 「国史跡 新田原古墳群 百足塚古墳 (新田原58号墳)」の説明板です。
百足塚古墳 (むかでづかこふん)の概要
 祇園原古墳群のなかでも4番目に大きい百足塚古墳は、墳長約80 m 、後円部の高さ約6 m の前方後円墳です。 後円部、前方部ともに2段で、墳丘の周辺には盾形 (たてがた)の周溝と周堤が巡 (めぐ)ります。 出土品などの特徴から古墳時代後期前半に造られたと推測されています。
 日向地方 (現在の宮崎県と鹿児島県 大隅半島一帯)では、古墳時代後期の前方後円墳としては最大規模のもので、横穴式石室の採用や多量の形象埴輪 (はにわ)の配置など、後期前半に活躍した首長の姿が彷彿 (ほうふつ)とされます。
 平成9年度から発掘調査され、平成22年から24年度に復元整備を行いました。
横穴式石室
 首長を埋葬 (まいそう)したところは、後円部第1段に配置された横穴式石室でした。 石室は、天井部を1段目のテラスの位置に配置し、古墳の裾部 (すそぶ)からスロープ状に侵入するような墓道があります。 内部は未調査ですが、横穴式石室を採用する古墳の少ない宮崎県域でも最初に造られた例であると考えられます。
多量の円筒埴輪 (はにわ)列と形象埴輪群の配置
 墳丘の各段 (墳頂とテラス)と周堤には円筒埴輪が並べられ、その数は1000本におよびました。 墳丘の要所と周堤の要所には、それぞれ盾形 (たてがた)と盾持ち人形の埴輪がおかれ、古墳に近づく邪悪 (じゃあく)な魂 (たましい)を退 (しりぞ)ける役割を期待したものと思われます。
 墳丘の西側周堤には多量の形象埴輪が配置されていました。 その数は現在確認できるだけでも60点以上あります。
百足塚古墳および周辺施設の地図、古墳各部の呼び方の図、発掘調査前の百足塚古墳 (昭和50年代)の写真、整備中の百足塚古墳の写真、横穴式石室の入口の写真
も載 (の)っています。
平成25年3月 新富町教育委員会
と書かれています。



写真LU: 「形象埴輪 (はにわ)群の配置」の説明板があります。



写真LV: 「形象埴輪群の配置」の説明板です。
形象埴輪 (はにわ)の発見
 平成10年度に行った発掘調査で、墳丘の西側から多量の埴輪片が出土しました。 これらはすべて、百足塚古墳が造られたときに周堤上に整然と配置されたもので、周溝や外周堀に転落した状態で発見されました。 復元の結果、確認できる形象埴輪の個体数は60以上で、発見されたものとしては、西日本でも有数の数と種類となりました。
種類とその配置の目的
 その種類は、人物や建物のほか、鶏 (とり)・犬・鹿・馬などの動物、甲冑 (かっちゅう)や太鼓 (たいこ)などがあり、神がかりして性器を見せる女性など、全国的にも出土例の少ないものもあります。
 出土状況を整理すると、配置された当初の様子 (ようす)は「人物と建物の空間」から、「人物と動物の空間」へ変化していることが想像されます。 形象埴輪群を並べる目的にはさまざま説があり、埋葬 (まいそう)された人物の生前の生活を再現するという説や、埋葬された人物の財産などを誇示 (こじ)するという説などがあります。



写真LW: 「形象埴輪群の配置」の説明板です。
形象埴輪の発見
 平成10年度に行った発掘調査で、墳丘の西側から多量の埴輪片が出土しました。 これらはすべて、百足塚古墳が造られたときに周堤上に整然と配置されたもので、周溝や外周堀に転落した状態で発見されました。 復元の結果、確認できる形象埴輪の個体数は60以上で、発見されたものとしては、西日本でも有数の数と種類となりました。
種類とその配置の目的
 その種類は、人物や建物のほか、鶏 (とり)・犬・鹿・馬などの動物、甲冑 (かっちゅう)や太鼓 (たいこ)などがあり、神がかりして性器を見せる女性など、全国的にも出土例の少ないものもあります。
 出土状況を整理すると、配置された当初の様子 (ようす)は「人物と建物の空間」から、「人物と動物の空間」へ変化していることが想像されます。 形象埴輪群を並べる目的にはさまざま説があり、埋葬 (まいそう)された人物の生前の生活を再現するという説や、埋葬された人物の財産などを誇示 (こじ)するという説などがあります。



写真LX: 「形象埴輪群の配置」の説明板。
形象埴輪の発見
 平成10年度に行った発掘調査で、墳丘の西側から多量の埴輪片が出土しました。 これらはすべて、百足塚古墳が造られたときに周堤上に整然と配置されたもので、周溝や外周堀に転落した状態で発見されました。 復元の結果、確認できる形象埴輪の個体数は60以上で、発見されたものとしては、西日本でも有数の数と種類となりました。
種類とその配置の目的
 その種類は、人物や建物のほか、鶏 (とり)・犬・鹿・馬などの動物、甲冑 (かっちゅう)や太鼓 (たいこ)などがあり、神がかりして性器を見せる女性など、全国的にも出土例の少ないものもあります。
 出土状況を整理すると、配置された当初の様子 (ようす)は「人物と建物の空間」から、「人物と動物の空間」へ変化していることが想像されます。 形象埴輪群を並べる目的にはさまざま説があり、埋葬 (まいそう)された人物の生前の生活を再現するという説や、埋葬された人物の財産などを誇示 (こじ)するという説などがあります。



写真LY: 「形象埴輪群の配置」の説明板。
形象埴輪の発見
 平成10年度に行った発掘調査で、墳丘の西側から多量の埴輪片が出土しました。 これらはすべて、百足塚古墳が造られたときに周堤上に整然と配置されたもので、周溝や外周堀に転落した状態で発見されました。 復元の結果、確認できる形象埴輪の個体数は60以上で、発見されたものとしては、西日本でも有数の数と種類となりました。
種類とその配置の目的
 その種類は、人物や建物のほか、鶏 (とり)・犬・鹿・馬などの動物、甲冑 (かっちゅう)や太鼓 (たいこ)などがあり、神がかりして性器を見せる女性など、全国的にも出土例の少ないものもあります。
 出土状況を整理すると、配置された当初の様子 (ようす)は「人物と建物の空間」から、「人物と動物の空間」へ変化していることが想像されます。 形象埴輪群を並べる目的にはさまざま説があり、埋葬 (まいそう)された人物の生前の生活を再現するという説や、埋葬された人物の財産などを誇示 (こじ)するという説などがあります。



写真LZ: 北を見たものです。



写真MA: 左奥に59号墳が見えます。 右手前は百足塚古墳です。 北東を見たものです。



写真MB: 百足塚古墳。 東を見たものです。



写真MC: 南東を見たものです。 埴輪 (はにわ)を多く並 (なら)べてあります。 この円筒埴輪 (えんとうはにわ)はレプリカで、近くの小学生たちが作ったものだそうです。 百足塚古墳。
新田原古墳群にある百足塚古墳 (むかでづかこふん)からの多数の埴輪群 (はにわぐん)は大阪府 高槻市 (たかつきし)にある今城塚古墳 (継体天皇の墓とする説が有力です。)の埴輪群と共通性が高いとして注目されています。



写真MD: 宮崎県 児湯郡 新富町 大字新田にある百足塚古墳 (むかでづかこふん)の埴輪 (はにわ)です。
上部と側面に穴のある円筒形をしていて、周囲に4つの盛 (も)り上がったリングが見えます。 この円筒埴輪 (えんとうはにわ)はレプリカで、近くの小学生たちが作ったものだそうです。



写真ME: 新田原古墳群の百足塚古墳の埴輪 (はにわ)の列です。 この円筒埴輪 (えんとうはにわ)はレプリカで、近くの小学生たちが作ったものだそうです。
新田原古墳群にある百足塚古墳 (むかでづかこふん)からの多数の埴輪群 (はにわぐん)は大阪府 高槻市 (たかつきし)にある今城塚古墳 (継体天皇の墓とする説が有力です。)の埴輪群と共通性が高いとして注目されています。



写真MF: 近くにモグラの土盛りがありました。



写真MG: 百足塚古墳です。 右に牛舎が見えます。



写真MH: 北を見たものです。 右の百足塚古墳、堀 (溝)、堤 (つつみ)が見えます。 堤の上に多くの埴輪 (はにわ)が並んでいます。 左に新田原古墳群公園のトイレなどの施設があります。



写真MI: 北西を見たものです。 右の堤 (つつみ)の上に埴輪が並んでいます。 近くの車道も見えます。



写真MJ: 南から見た百足塚古墳です。



写真MK: 東を見たものです。 白い牛舎があります。 左端は百足塚古墳。



写真ML: 百足塚古墳のそばの牛舎。 和牛が見えます。



写真MM: 奥に59号墳が見えます。 左側に百足塚古墳があります。 北を見たものです。



写真MN: 右端は59号墳です。 左は百足塚古墳です。



写真MO: 百足塚古墳。



写真MP: 西を見たものです。 別の古墳が見えます。 高い竹竿 (たけざお)も見えます。



写真MQ: 南を見たものです。 牛舎があります。



写真MR: 右端は百足塚古墳です。 南を見たものです。



写真MS: 百足塚古墳です。



写真MT: 百足塚古墳。 西を見たものです。



写真MU: 右に59号墳が見えます。 左遠くに68号墳、左端に百足塚古墳があります。 北を見たものです。



写真MV: 「209号墳の調査」の説明板があります。



写真MW: 「209号墳の調査」の説明板です。
 209号墳は百足塚古墳の周堤の確認調査中に発見された円墳です。 墳丘はすでに無くなっているため、人を埋葬 (まいそう)した主体部などは不明ですが、直径は12 m あることがわかりました。 墳丘周囲には幅2 m の周溝が巡 (めぐ)り、その底面付近からは、大量の須恵器 (すえき)が見つかりました。
 その種類は、杯身・杯蓋や有蓋高杯・無蓋高杯などがあり、多くが百足塚古墳側の周溝西側で見つかっています。
 この古墳も、62号墳や63号墳と同様に、百足塚古墳の陪塚 (ばいつか)と考えられますが、出土須恵器の特徴から、百足塚古墳のあと、6世紀後半の築造と予想されます。
209号墳の復元
 すでに墳丘が失われていたため、墳丘の復元には、その存在が判断できる程度としています。
 実際に造られた当時はもっと墳丘が高かったかもしれません。
209号墳の検出状況の写真、出土した須恵器の写真、復元作業中の209号墳の写真、付近の地図も載 (の)っています。



写真MX: 「209号墳の調査」の説明板です。
 209号墳は百足塚古墳の周堤の確認調査中に発見された円墳です。 墳丘はすでに無くなっているため、人を埋葬 (まいそう)した主体部などは不明ですが、直径は12 m あることがわかりました。 墳丘周囲には幅2 m の周溝が巡 (めぐ)り、その底面付近からは、大量の須恵器 (すえき)が見つかりました。
 その種類は、杯身・杯蓋や有蓋高杯・無蓋高杯などがあり、多くが百足塚古墳側の周溝西側で見つかっています。
 この古墳も、62号墳や63号墳と同様に、百足塚古墳の陪塚 (ばいつか)と考えられますが、出土須恵器の特徴から、百足塚古墳のあと、6世紀後半の築造と予想されます。
209号墳の復元
 すでに墳丘が失われていたため、墳丘の復元には、その存在が判断できる程度としています。
 実際に造られた当時はもっと墳丘が高かったかもしれません。
209号墳の検出状況の写真、出土した須恵器の写真、復元作業中の209号墳の写真、付近の地図も載 (の)っています。



写真MY: 「209号墳の調査」の説明板です。
 209号墳は百足塚古墳の周堤の確認調査中に発見された円墳です。 墳丘はすでに無くなっているため、人を埋葬 (まいそう)した主体部などは不明ですが、直径は12 m あることがわかりました。 墳丘周囲には幅2 m の周溝が巡 (めぐ)り、その底面付近からは、大量の須恵器 (すえき)が見つかりました。
 その種類は、杯身・杯蓋や有蓋高杯・無蓋高杯などがあり、多くが百足塚古墳側の周溝西側で見つかっています。
 この古墳も、62号墳や63号墳と同様に、百足塚古墳の陪塚 (ばいつか)と考えられますが、出土須恵器の特徴から、百足塚古墳のあと、6世紀後半の築造と予想されます。
209号墳の復元
 すでに墳丘が失われていたため、墳丘の復元には、その存在が判断できる程度としています。
 実際に造られた当時はもっと墳丘が高かったかもしれません。
209号墳の検出状況の写真、出土した須恵器の写真、復元作業中の209号墳の写真、付近の地図も載 (の)っています。



写真MZ: 59号墳が見えます。



写真NA: 東を見たものです。



写真NB: 牛舎も見えます。



写真NC: 左は百足塚古墳、中央奥に68号墳が見えます。



写真ND: 百足塚古墳です。 西を見たものです。



写真NE: 59号墳です。



写真NF: 「209号墳」と書いてあります。



写真NG: 左寄りに百足塚古墳のトイレ、休憩所 (きゅうけいしょ)などの施設、左端に百足塚古墳が見えます。 円墳も2つ見えます。 北西を見たものです。



写真NH: 百足塚古墳です。 南西を見たものです。



写真NI: 南を見たものです。 牛舎が見えます。 その手前に209号墳があります。 右は百足塚古墳です。



写真NJ: 手前に「209号墳」と書いてある短い円柱形の標識が見えます。 その右奥に209号墳 (円墳)が見えます。 南を見たものです。



写真NK: 南を見たものです。 中央奥に209号墳が見えます。 右端は百足塚古墳。



写真NL: 百足塚古墳です。 南を見たものです。



写真NM: 右端に円墳 (63号墳)、その左が62号墳があります。 左端に百足塚古墳、その右に水神塚、別の古墳なども見えます。 南西を見たものです。



写真NN: 北から見た百足塚古墳。



写真NO: 左端に百足塚古墳、水神塚、説明板、埴輪 (はにわ)の列も見えます。 南を見たものです。



写真NP: 西を見たものです。 中央に円墳 (62号墳)、説明板があります。 右端も円墳 (63号墳)です。 百足塚古墳の施設も見えます。



写真NQ: 「62号墳・63号墳の調査」の説明板があります。



写真NR: 「62号墳・63号墳の調査」の説明板です。
62号墳の調査
 百足塚古墳の北西側に造られた直径 15 m の円墳です。 人を埋葬 (まいそう)する主体部は調査していないため不明です。
 墳丘の周囲には幅 2 m ほどの周溝が巡 (めぐ)っており、ここからたくさんの埴輪 (はにわ)が見つかりました。 もともと墳丘の上に立てられていたものが、転落して埋 (う)まったと考えられ、その種類には円筒埴輪、朝顔形円筒埴輪、盾形 (たてがた)埴輪があります。 このうち円筒埴輪は百足塚古墳と同様のものを使っており、2つの古墳はほぼ同時期に造られたと考えられます。
63号墳の調査
 直径 28 m の円墳で、墳丘は2段に造られ、周囲には幅 3 m の周溝が、北東の一部には2重目の周溝が見つかりました。
 円墳としての規模は大きいですが、埴輪は立てられず、百足塚古墳や62号墳よりも後に造られたと推測できます。
 62号墳や63号墳のように大きな前方後円墳などの近くに造られた古墳のことを「陪塚 (ばいつか)」とか「陪家」と呼 (よ)びます。 前方後円墳に埋葬 (まいそう)された首長の近親者の墓と考えられます。



写真NS: 「62号墳・63号墳の調査」の説明板。
62号墳の調査
 百足塚古墳の北西側に造られた直径 15 m の円墳です。 人を埋葬 (まいそう)する主体部は調査していないため不明です。
 墳丘の周囲には幅 2 m ほどの周溝が巡 (めぐ)っており、ここからたくさんの埴輪 (はにわ)が見つかりました。 もともと墳丘の上に立てられていたものが、転落して埋 (う)まったと考えられ、その種類には円筒埴輪、朝顔形円筒埴輪、盾形 (たてがた)埴輪があります。 このうち円筒埴輪は百足塚古墳と同様のものを使っており、2つの古墳はほぼ同時期に造られたと考えられます。
63号墳の調査
 直径 28 m の円墳で、墳丘は2段に造られ、周囲には幅 3 m の周溝が、北東の一部には2重目の周溝が見つかりました。
 円墳としての規模は大きいですが、埴輪は立てられず、百足塚古墳や62号墳よりも後に造られたと推測できます。
 62号墳や63号墳のように大きな前方後円墳などの近くに造られた古墳のことを「陪塚 (ばいつか)」とか「陪家」と呼 (よ)びます。 前方後円墳に埋葬 (まいそう)された首長の近親者の墓と考えられます。



写真NT: 「62号墳・63号墳の調査」の説明板です。
62号墳の調査
 百足塚古墳の北西側に造られた直径 15 m の円墳です。 人を埋葬 (まいそう)する主体部は調査していないため不明です。
 墳丘の周囲には幅 2 m ほどの周溝が巡 (めぐ)っており、ここからたくさんの埴輪 (はにわ)が見つかりました。 もともと墳丘の上に立てられていたものが、転落して埋 (う)まったと考えられ、その種類には円筒埴輪、朝顔形円筒埴輪、盾形 (たてがた)埴輪があります。 このうち円筒埴輪は百足塚古墳と同様のものを使っており、2つの古墳はほぼ同時期に造られたと考えられます。
63号墳の調査
 直径 28 m の円墳で、墳丘は2段に造られ、周囲には幅 3 m の周溝が、北東の一部には2重目の周溝が見つかりました。
 円墳としての規模は大きいですが、埴輪は立てられず、百足塚古墳や62号墳よりも後に造られたと推測できます。
 62号墳や63号墳のように大きな前方後円墳などの近くに造られた古墳のことを「陪塚 (ばいつか)」とか「陪家」と呼 (よ)びます。 前方後円墳に埋葬 (まいそう)された首長の近親者の墓と考えられます。
周溝部の調査状況の写真、周堤の周辺で発見された多量の形象埴輪片の写真、周溝で発見された多量の埴輪片、復元できた円筒埴輪、付近の地図なども載 (の)っています。



写真NU: 「62号墳・63号墳の調査」の説明板です。
62号墳の調査
 百足塚古墳の北西側に造られた直径 15 m の円墳です。 人を埋葬 (まいそう)する主体部は調査していないため不明です。
 墳丘の周囲には幅 2 m ほどの周溝が巡 (めぐ)っており、ここからたくさんの埴輪 (はにわ)が見つかりました。 もともと墳丘の上に立てられていたものが、転落して埋 (う)まったと考えられ、その種類には円筒埴輪、朝顔形円筒埴輪、盾形 (たてがた)埴輪があります。 このうち円筒埴輪は百足塚古墳と同様のものを使っており、2つの古墳はほぼ同時期に造られたと考えられます。
63号墳の調査
 直径 28 m の円墳で、墳丘は2段に造られ、周囲には幅 3 m の周溝が、北東の一部には2重目の周溝が見つかりました。
 円墳としての規模は大きいですが、埴輪は立てられず、百足塚古墳や62号墳よりも後に造られたと推測できます。
 62号墳や63号墳のように大きな前方後円墳などの近くに造られた古墳のことを「陪塚 (ばいつか)」とか「陪家」と呼 (よ)びます。 前方後円墳に埋葬 (まいそう)された首長の近親者の墓と考えられます。
周溝部の調査状況の写真、周堤の周辺で発見された多量の形象埴輪片の写真、周溝で発見された多量の埴輪片、復元できた円筒埴輪、付近の地図なども載 (の)っています。



写真NV: 62号墳です。 円墳です。



写真NW: 63号墳です。 これも円墳です。 この後、北北西にある少し離 (はな)れた大きな前方後円墳の「大久保塚」の方に行きます。



写真NX: 大久保塚に行く途中 (とちゅう)に「→新田原古墳群公園 160 m 」と書いてある標識があります。 新田原古墳群公園とは先程 (さきほど)の百足塚古墳のそばの公園です。



写真NY: 新田原古墳群公園の標識の近くの様子 (ようす)です。



写真NZ: 祇園原地区集会所があります。 北を見たものです。



写真OA: 「祇園原地区集会所 (ぎおんばるちくしゅうかいしょ)」と書いてあります。



写真OB: 前方後円墳の大久保塚が見えて来ました。 北東を見たものです。



写真OC: 県道312号から見た大久保塚です。 前方後円墳です。 南東を見たものです。



写真OD: 大久保塚と県道312号です。



写真OE: 南西を見たものです。 県道312号。



写真OF: 北東を見たものです。 大久保塚の近くです。



写真OG: 新田原古墳群の大久保塚です。 前方後円墳。



写真OH: 前方後円墳の大久保塚です。



写真OI: 大久保塚とその近くです。



写真OJ: はじめの所が奥にあります。 南を見たものです。



写真OK: 近くの様子 (ようす)です。 畑の中にいくつかの古墳が見えます。 時々、航空自衛隊 新田原基地のジェット戦闘機の大きなエンジン音が聞こえます。 南東を見たものです。



写真OL: 畑の中に古墳があります。 東を見たものです。



写真OM: 北東を見たものです。



写真ON: 北を見たものです。 こちらから歩いて来ました。



写真OO: 西を見たものです。
古墳 (こふん)が造られた古墳時代と現在とでは山々の形はほとんど変わっていないと思われます。 この山々の景色と同じものを古墳時代の人々も見ていたことでしょう。



写真OP: 南西を見たものです。



写真OQ: 南を見たものです。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)