舞鶴城 (桜祭り、舞鶴公園) (高鍋城跡、財部城、三角点 (標高 73.5 m)、高鍋町歴史総合資料館、舞鶴神社、県立 高鍋農業高校)  (宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江)







<標高、位置>  高鍋城(舞鶴城)の本丸跡は
標高 約50 m
 北緯32度07分22秒  東経131度30分04秒

<標高、位置>  舞鶴城の敷地内にある高鍋町歴史総合資料館は
標高 約10 m
 北緯32度07分20秒  東経131度30分09秒

<標高、位置>  宮崎県立 高鍋農業高校は
標高 数 m
 北緯32度07分25秒  東経131度30分15秒


 「高鍋城跡(舞鶴城跡、舞鶴公園)」は宮崎県児湯郡高鍋町大字上江1345にあります。
高鍋城跡(舞鶴城跡、舞鶴公園)では桜祭りが開かれます。 園内の桜は約1000本のソメイヨシノと山桜があり、城の石垣 (いしがき)、階段などと調和して見事な景観を楽しめます。
高鍋城は説明板から、
「沿革」
  もと財部城といったが、後、高鍋城に改め通常は舞鶴城と呼ばれている。
 平安時代中期(斉衛年間 854年-857年)土持氏の所有となり、在来の山城を補修し、ここにおることおよそ600年に及んだ。
 長禄元年(1457年)伊東氏の所有となり、その48城の一つとして、武将 落合民部これを守った。 およそ120年の後、天正5年伊東氏を破り島津氏の所有となった。 後 天正15年(1587年)島津氏は豊臣秀吉に降伏し、同年7月秋月氏の居城となり約280年、明治の廃藩に至るまで続いた。
 寛文9年(1669年)6月、秋月氏3代藩主種信「財部」を「高鍋」と改め居城の修復に着手、岩坂門、石垣、城堀、大手門、本丸など数年を要して完成、近世の城の様式を備えるに至った。
「構造」
 天然の要害を巧みに利用し丘の中腹に心臓部の本丸を設け一段下がった平地を二の丸とし、更に下ったところを三の丸とし、北、南、東を堀で区切り、西は背後の山に野首掘切りを設けた。
「史跡」
 旧城内は、現在舞鶴公園として整備せられ、舞鶴公園、護国神社、石垣、堀、国指定の天然記念物の「高鍋大楠(くすのき)」をはじめ、次のような社寺や建造物の跡、各種記念碑など史跡が多い。
天然記念物1、社寺跡8、歌碑2、建造物の跡12、各種記念碑11 合計34。
 「高鍋藩 (秋月藩)」は1代は種長、2代は種春、3代は種信、4代は種政、5代は種弘、6代は種美、7代は種茂、8代は種徳、9代は種任、10代は種殷です。 高鍋藩 (秋月藩)は宮崎県児湯郡の東部 (高鍋町、木城町、川南町、都農町、日向市の美々津)と串間市、宮崎市 (瓜生野、倉岡の1部)、国富町 (木脇)を持っていました。 外様 (とざま)です。 藩庁は高鍋城 (舞鶴城、高鍋町)で高鍋は初期は財部 (たからべ)と呼 (よ)ばれていました。 秋月は福岡県の筑前国を領有していました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)のときに島津とともに秀吉軍と戦いましたが、その後、秀吉に恭順 (きょうじゅん)して、日向国 串間 (3万石)に移封されました。 1600年 (慶長5年)関ヶ原の戦いのとき秋月種長は西軍に属して大垣城を守っていましたが、9月15日の関ヶ原の戦いの本戦で、西軍が負けると東軍に属しました。 それで所領を安堵 (あんど)されました。 1604年 (慶長9年)に居城を串間から財部城 (高鍋城)に移しました。 3代秋月種信は1673年に財部 (たからべ)から高鍋に地名を変えました。 4代種政は1689年に弟 (種封)に3000石を分け与えたため、以後高鍋藩は2万7000石となりました。 江戸中期に6代種美の次男は米沢藩 (上杉 氏)に入り、名君 上杉鷹山 (ようざん)となりました。 その兄の7代種茂も高鍋藩の名君となり、1778年 (安永7年)に藩校 明倫堂 (めいりんどう)を開校しました。 秋月は10代のときに明治時代になりました。 1871年 (明治4年)に廃藩置県で高鍋県となりました。 その後に美々津県、宮崎県、鹿児島県、宮崎県になりました。

 「高鍋城本丸政庁、奥御殿跡」の説明板から、
 高鍋城本丸、奥御殿は第3代藩主、種信公の延宝4年(1676年)に完成した。 長峰御門(本丸北側)を過ぎると本丸の玄関があり、玄関を上がると藩士の集まる大広間がある。 その他藩主が藩臣とお逢いになる御書院、家老や奉行が藩政をとりおこなう家老所、奉行所などがあった。
 奥御殿が完成すると同時に藩主は二の丸の仮住居から転居され本格的な藩政の充実と発展に向かって邁進なされた。

 「高鍋町歴史総合資料館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字南高鍋 6937-2 にあります。
舞鶴城の敷地内にあり、高鍋町の文化財や民俗資料を展示しています。

 「宮崎県立 高鍋農業高等学校」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 1339-2 にあります。
1903年4月に児湯郡立 高鍋農業校として設立されました。 校訓は研学修技、勤労興産、礼節敬愛、感恩報謝です。 過去の名称は児湯郡立高鍋農業校、宮崎県立高鍋農業校、宮崎県立高鍋高等学校農業部でした。


写真A: 宮崎県 高鍋町にある舞鶴城の桜祭りです。 ぼんぼりに「高鍋町 桜まつり」と書いてあります。 ソメイヨシノの花も咲いています。
舞鶴公園の園内の桜は約1000本のソメイヨシノと山桜があり、城の石垣 (いしがき)、階段などと調和して見事な景観を楽しめます。



写真B: 高鍋城 (舞鶴城、財部城)の桜の花です。 満開でした。



写真C: 北を見たものです。 右端に県立 高鍋農業高校が見えます。 左に舞鶴城の駐車場があります。 石垣 (いしがき)も見えます。 「←舞鶴公園」と書いてある標識があります。 溝 (みぞ)のそばに小型の石灯籠 (いしどうろう)が多く並 (なら)んでいます。



写真D: 左に桜並木 (さくらなみき)、右に高鍋農業高校が見えます。
「宮崎県立 高鍋農業高等学校」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 1339-2 にあります。
1903年4月に児湯郡立 高鍋農業校として設立されました。 校訓は研学修技、勤労興産、礼節敬愛、感恩報謝です。 過去の名称は児湯郡立高鍋農業校、宮崎県立高鍋農業校、宮崎県立高鍋高等学校農業部でした。



写真E: 「←舞鶴公園 Maizuru Park」と書いてある標識が桜並木のそばにあります。 右端に高鍋農業高校があります。 北を見たものです。



写真F: 舞鶴城の駐車場です。  左にも桜の花が見えます。 石垣 (いしがき)、大きな木もあります。 北を見たものです。



写真G: 提灯 (ちょうちん)が桜の花のそばにあります。



写真H: 「高鍋町歴史総合資料館」と書いてあります。 石垣 (いしがき)と石段の奥に桜の花が見えます。 高鍋町歴史総合資料館も見えます。 西を見たものです。
「高鍋町歴史総合資料館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字南高鍋 6937-2 にあります。
舞鶴城の敷地内にあり、高鍋町の文化財や民俗資料を展示しています。



写真I: 石垣の上の桜の花が美しい。 左の石垣に「舞鶴公園」と書いてあります。 北西を見たものです。



写真J: 「舞鶴公園」と書いてあります。



写真K: 「舞鶴公園 宮日新観光地百景、昭和52年7月 主催 宮崎日日新聞社 宮崎県 宮崎県観光協会 市町村観光協会、協賛 高鍋町」と彫 (ほ)ってある石碑(せきひ)があります。



写真L: 「舞鶴公園 宮日新観光地百景、昭和52年7月 主催 宮崎日日新聞社 宮崎県 宮崎県観光協会 市町村観光協会、協賛 高鍋町」と彫 (ほ)ってある石碑(せきひ)があります。



写真M: 大きなパラソルもあります。 南西を見たものです。 桜の花が満開でした。



写真N: 幅の広い石段と石垣 (いしがき)です。 満開の桜の花が見事です。 西を見たものです。 舞鶴城です。
園内の桜は約1000本のソメイヨシノと山桜があり、城の石垣 (いしがき)、階段などと調和して見事な景観を楽しめます。
「高鍋藩 (秋月藩)」は1代は種長、2代は種春、3代は種信、4代は種政、5代は種弘、6代は種美、7代は種茂、8代は種徳、9代は種任、10代は種殷です。 高鍋藩 (秋月藩)は宮崎県児湯郡の東部 (高鍋町、木城町、川南町、都農町、日向市の美々津)と串間市、宮崎市 (瓜生野、倉岡の1部)、国富町 (木脇)を持っていました。 外様 (とざま)です。 藩庁は高鍋城 (舞鶴城、高鍋町)で高鍋は初期は財部 (たからべ)と呼 (よ)ばれていました。 秋月は福岡県の筑前国を領有していました。 豊臣秀吉の九州征伐 (せいばつ)のときに島津とともに秀吉軍と戦いましたが、その後、秀吉に恭順 (きょうじゅん)して、日向国 串間 (3万石)に移封されました。 1600年 (慶長5年)関ヶ原の戦いのとき秋月種長は西軍に属して大垣城を守っていましたが、9月15日の関ヶ原の戦いの本戦で、西軍が負けると東軍に属しました。 それで所領を安堵 (あんど)されました。 1604年 (慶長9年)に居城を串間から財部城 (高鍋城)に移しました。 3代秋月種信は1673年に財部 (たからべ)から高鍋に地名を変えました。 4代種政は1689年に弟 (種封)に3000石を分け与えたため、以後高鍋藩は2万7000石となりました。 江戸中期に6代種美の次男は米沢藩 (上杉 氏)に入り、名君 上杉鷹山 (ようざん)となりました。 その兄の7代種茂も高鍋藩の名君となり、1778年 (安永7年)に藩校 明倫堂 (めいりんどう)を開校しました。 秋月は10代のときに明治時代になりました。 1871年 (明治4年)に廃藩置県で高鍋県となりました。 その後に美々津県、宮崎県、鹿児島県、宮崎県になりました。



写真O: 石垣の上にも桜の花があります。



写真P: 北を見たものです。 手前は駐車場です。



写真Q: 提灯 (ちょうちん)、テーブル、椅子 (いす)もあります。



写真R: 「舞鶴神社 例祭 氏子中 平成20年10月吉日」と書いてある幟 (のぼり)があります。 舞台 (ぶたい)、ぼんぼり、提灯 (ちょうちん)、外灯、カラーコーンもあります。 桜の花の下の舞台です。 南を見たものです。



写真S: 舞鶴城に舞台 (ぶたい)が出来ています。



写真T: 舞鶴城の満開の桜の花です。



写真U: ソメイヨシノ (桜)の花です。



写真V: 桜の花の下に石段があります。 西を見たものです。 左に石碑 (せきひ)、灯明 (とうみょう)、ぼんぼり、右に建物もあります。
舞鶴公園の園内の桜は約1000本のソメイヨシノと山桜があり、城の石垣 (いしがき)、階段などと調和して見事な景観を楽しめます。



写真W: 石段の両側に小型の石灯籠 (いしどうろう)が多く並 (なら)んでいます。 提灯 (ちょうちん)、ぼんぼりも見えます。 西を見たものです。 舞鶴城跡です。



写真X: 舞鶴城跡の石段と左右に石垣 (いしがき)があります。 手前にも小型の石灯籠 (いしどうろう)があります。



写真Y: 石段を登ります。 舞鶴城。



写真Z: 石段の上から登ってきた石段を見下 (お)ろしたものです。 桜の花も見えます。 東を見たものです。



写真AA: 広場の先程 (さきほど)の舞台が桜の花の奥に見えます。 東を見たものです。



写真AB: 本丸跡です。



写真AC: 高鍋城の本丸跡地です。 南を見たものです。 桜の花が咲いていました。 手前に小型の石灯籠 (いしどうろう)があります。 奥にトイレその右の方に「高鍋城本丸政庁、奥御殿跡」の説明板が見えます。



写真AD: 「高鍋城本丸政庁、奥御殿跡」の説明板があります。
 高鍋城本丸、奥御殿は第3代藩主、種信公の延宝4年(1676年)に完成した。 長峰御門(本丸北側)を過ぎると本丸の玄関があり、玄関を上がると藩士の集まる大広間がある。 その他藩主が藩臣とお逢いになる御書院、家老や奉行が藩政をとりおこなう家老所、奉行所などがあった。
 奥御殿が完成すると同時に藩主は二の丸の仮住居から転居され本格的な藩政の充実と発展に向かって邁進なされた。
平成24年3月31日 高鍋町教育委員会 特定非営利活動法人 高鍋町観光協会
と書かれています。



写真AE: 桜の花が咲いています。 ベンチ、小型の石灯籠 (いしどうろう)、提灯 (ちょうちん)、トイレも見えます。



写真AF: 高鍋城本丸政庁、奥御殿跡です。 広場になっています。



写真AG: 中央で桜の花見の宴会 (えんかい)準備が行われています。 南東を見たものです。



写真AH: 東を見たものです。 桜の花と大きな木があります。 高鍋城本丸政庁、奥御殿跡です。



写真AI: 北東を見たものです。 白く提灯 (ちょうちん)も見えます。 桜の花が満開でした。



写真AJ: ぼんぼり、提灯 (ちょうちん)、小型の石灯籠 (いしどうろう)、ベンチ、桜の花が見えます。 北を見たものです。 高鍋城本丸政庁、奥御殿跡。



写真AK: 上に登る舗装 (ほそう)された坂道があります。 これからここを登ります。



写真AL: 花見の宴会 (えんかい)のブルーシート、椅子 (いす)、などが見えます。 高鍋城本丸政庁、奥御殿跡。



写真AM: 野草の「キランソウの花」が咲いていました。



写真AN: 登ってきた坂道を振 (ふ)り返ったものです。 先程 (さきほど)の広場が見えます。 桜の花も見えます。



写真AO: 見下 (お)ろした高鍋城本丸政庁、奥御殿跡の広場です。 花見宴会 (えんかい)の準備も見えます。



写真AP: 「落石注意」と書いてあります。 ここにも桜の花があります。



写真AQ: 「ヤブツバキの花」が地面に落ちていました。



写真AR: 球形の遊具があります。 奥に満開の桜の花が咲いています。 舞鶴城です。



写真AS: 桜の花の下に石段も見えます。



写真AT: 石垣 (いしがき)と桜の花です。 舞鶴城。



写真AU: 舞鶴城の桜の花です。 奥に石垣 (いしがき)もあります。



写真AV: 「→ 物見台」と書いてある木の標識があります。



写真AW: 美しい苔 (こけ)が生 (は)えていました。 舞鶴城。



写真AX: 立木に植物が生 (は)えています。



写真AY: 舞鶴城の物見台が見えてきました。 柵 (さく)も見えます。



写真AZ: 舞鶴城の物見台にベンチ、柵 (さく)があります。 椿 (つばき)の花が地面に落ちていました。



写真BA: 物見台からの景色です。



写真BB: 舞鶴城の物見台から見たものです。 NTTの赤と白の大きなアンテナ、建物、民家も見えます。



写真BC: 舞鶴城の石段です。



写真BD: 梅の木と思われるものが何本もあります。



写真BE: 「ツツジの花」が咲いていました。



写真BF: 野草の「ウマノアシガタ (キンポウゲ)の花」が咲いていました。



写真BG: 野草の「スミレの花」が咲いていました。



写真BH: 野草の「キランソウの花」です。



写真BI: ベンチもあります。



写真BJ: 大きな木の下にベンチがあります。 舞鶴城です。



写真BK: ベンチも見えます。



写真BL: 「山桜の花」が咲いていました。
舞鶴公園の園内の桜は約1000本のソメイヨシノと山桜があり、城の石垣 (いしがき)、階段などと調和して見事な景観を楽しめます。



写真BM: 舞鶴城の「山桜の花」です。



写真BN: 石段があります。



写真BO: 広場があります。 左の木の中に三角点があります。



写真BP: 右の木の中に三角点があります。



写真BQ: まわりに高い木があります。



写真BR: 上の方の四角の石が三角点 (標高 73.5 m)です。十字を彫 (ほ)ってあります。 そばに「三角点 基本測量 大切にしましょう三角点 国土地理院」と書いてある棒 (ぼう)があります。



写真BS: 舞鶴城にある三角点 (標高 73.5 m)です。 上面に十字を彫 (ほ)ってあります。



写真BT: 「三角点 基本測量 大切にしましょう三角点 国土地理院」と書いてある棒 (ぼう)があります。



写真BU: 「三角点 基本測量 大切にしましょう三角点 国土地理院」と書いてある棒 (ぼう)。



写真BV: 「三角点 基本測量 大切にしましょう三角点 国土地理院」と書いてある棒 (ぼう)があります。



写真BW: 高鍋城跡の高い所にある三角点 (標高 73.5 m)はこの手前の木の中にあります。



写真BX: 三角点 (標高 73.5 m)がある背の低い木立とまわりの広場です。



写真BY: 三角点のある高い所から下方を見たものです。 柵 (さく)も見えます。



写真BZ: 石造物が三角点の近くにあります。



写真CA: これは古いベンチでしょうか。 三角点の近くです。



写真CB: 三角点のある高い所から下方を見たものです。 石柱がまとまってあります。 舞鶴城です。



写真CC: 三角点のある高い所から見た石柱群です。 約13本あります。



写真CD: 石柱群の近くに来ました。



写真CE: 舞鶴城にある石柱群です。



写真CF: 奥にベンチがあります。



写真CG: 「ノイバラの花」が咲いていました。



写真CH: 登ってきた舗装 (ほそう)された坂道を下 (くだ)ります。 先に高鍋城本丸政庁、奥御殿跡が見えます。



写真CI: 桜の花がきれいです。 舞鶴城です。



写真CJ: 高鍋町歴史総合資料館があります。 南を見たものです。
「高鍋町歴史総合資料館」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字南高鍋 6937-2 にあります。
舞鶴城の敷地内にあり、高鍋町の文化財や民俗資料を展示しています。



写真CK: 高鍋町歴史総合資料館の近くです。 南東を見たものです。 右に高鍋町歴史総合資料館があります。



写真CL: 赤いツツジの花が見えます。 奥に高鍋農業高校のグラウンドがあります。 北東を見たものです。



写真CM: 石垣 (いしがき)とツツジの花です。 右奥は駐車場です。



写真CN: 舞鶴城の「ツツジの花」です。



写真CO: 左の石垣 (いしがき)のそばに小型の石灯籠 (いしどうろう)があります。 駐車場に降りる石段があります。 奥は県立 高鍋農業高校です。 北東を見たものです。
「宮崎県立 高鍋農業高等学校」は宮崎県 児湯郡 高鍋町 大字上江 1339-2 にあります。
1903年4月に児湯郡立 高鍋農業校として設立されました。 校訓は研学修技、勤労興産、礼節敬愛、感恩報謝です。 過去の名称は児湯郡立高鍋農業校、宮崎県立高鍋農業校、宮崎県立高鍋高等学校農業部でした。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)