池内町の町並み、宮崎みたま園、川上神社 (公園墓地、宮崎市北部工業団地、地金池、宮崎城跡、宮崎県宮崎北高等学校、古賀総合病院、いけうちゴルフ (エグゼクティブ サンゴルフ、練習場))  (宮崎県 宮崎市 池内町)







<標高、位置>  「川上神社」は
標高 約20 m
 北緯31度58分10秒  東経131度24分51秒

<標高、位置>  「池内 (いけうち)交差点 (県道44号線の交差点)」は
標高 約30 m
 北緯31度58分09秒  東経131度24分47秒

<標高、位置>  「宮崎みたま園 (公園墓地)」は
標高 約70 m
 北緯31度58分16秒  東経131度25分32秒

<標高、位置>   「宮崎城本丸跡」は
標高 約90 m
 北緯31度57分59秒  東経131度24分34秒

<標高、位置>  「古賀総合公園」は
標高 約30 m
 北緯31度58分17秒  東経131度24分40秒

<標高、位置>  「いけうちゴルフ (エグゼクティブ サンゴルフ、練習場)」は
標高 約50 m
 北緯31度58分27秒  東経131度24分52秒

<標高、位置>  「地金池 (溜池 (ためいけ))」は
標高 約30 m
 北緯31度58分12秒  東経131度25分13秒


 「宮崎城跡」は池内城跡あるいは龍峰城跡、目曳城跡(めびきじょうあと)とも言われます。 宮崎県宮崎市 池内町にあります。
 標高 約90 m の山城です。 近くに満願寺跡があります。 丘陵の尾根に曲輪(くるわ、平らなところ)がいくつかある大規模な城郭で、南北700m、東西500mにおよびます。 南には、大淀川が西から東に曲がって流れ、天然の濠(ほり)になっていました。
 初めに、南北朝時代の図師六郎入道慈円が宮崎城を造った。 次いで伊東の日向48城の一つとして、都於郡城の後に佐土原城などと同じく整備され、伊東の豊後(大分県)落ちの後、島津の城になりました。 豊臣秀吉の九州征服の後は延岡の高橋の城となり、関ヶ原の戦いの直後に、清武城主の伊東の家臣 稲津重昌(稲津掃部助重政)により攻められ、高橋藩の家老で宮崎城主の権藤種盛など約100名で防戦しましたが、数倍の兵の稲津に破れ、1600年10月1日に城主以下討ち死にし、落城しました。 *[「稲津掃部助重政の墓」は清武町にあります。 稲津掃部助重政は若年より初代飫肥藩主 伊東祐兵(いとうすけたけ)の小姓となり、元来 勇気知謀に長(た)けていたため朝鮮出兵時は19歳ながら祐兵に重用され、さらに25歳にして地頭職を給(たま)わり清武城主となった人物である。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦にあたり、参戦したものの大阪で病に倒れた主君  祐兵の功績にと、稲津掃部助は延岡藩高橋氏の宮崎城(現 宮崎市池内)を攻め落とし、城主 権藤種盛を討ち取った。 しかしこのとき石田方(豊臣方)と思われていた高橋氏は徳川方に寝返っており、結果的に同士討ちとなってしまった。 さらに伊東祐兵もそのまま病死し、跡を継いだ祐慶(すけのり)が幼少であったことから、これまで稲津掃部助の重用を疎(うと)ましく思っていた藩の重臣らがこの責任を稲津掃部助 一人に負わせるなどしたため伊東祐慶は切腹を言い渡すこととなった。
 これに納得できない稲津掃部助は清武城に立てこもるが伊東祐慶の派兵を受けてついに自刃(じじん)し、29年の生涯を閉じた (稲津の乱)。 
 またこの時、稲津掃部助の妻 雪江もわずか15歳ながら退去の勧めを退(しりぞ)けて稲津掃部助と運命を共にしている。]*
 1615年江戸幕府の一国一城令で、宮崎城は当時 延岡藩の城でしたが、廃城になりました。
 2000年10月に落城400年祭が行われました。

 「古賀総合病院」は宮崎県 宮崎市 池内町 数太木 1749-1 にあります。
古賀総合病院は敷地面積が54839平方メートルで、急性期疾患を対象にした総合病院です。 平成6年9月に古賀総合病院は池内町に新築移転しました。

 「宮崎みたま園 (公園墓地)」は宮崎県 宮崎市 池内町 天神面 3901 にあります。
宮崎みたま園は宮崎市営で11050区画の墓地があり、広さは約341300 平方メートルです。 桜やツツジもあります。 シンボルゾーン、多目的広場が2箇所、駐車場が16箇所、トイレ、水飲み場、東屋 (あずまや)、ベンチ、調整池が3箇所、管理事務所などがあります。

 「いけうちゴルフ (練習場)」は宮崎県 宮崎市 池内町 3535 にあります。


写真A: 宮崎県 宮崎市 池内町 天神面 3901 にある宮崎市の「宮崎みたま園」が見えます。 これは公園墓地です。



写真B: みたま園の車道です。



写真C: 「公園墓地 宮崎みたま園 東入口」と書いてあります。



写真D: 「宮崎市北部工業団地」、「北部工業団地」と書いてある看板 (かんばん)があります。 上に北部工業団地の建物が見えます。



写真E: 宮崎市北部工業団地のそばの車道です。



写真F: 車道です。



写真G: 「ツワブキの花」が咲いていました。



写真H: 車道に「宮崎県宮崎北高等学校」と書いてあります。



写真I: 岩に「宮崎みたま園」と書いてあります。



写真J: 宮崎市 池内町にある公園墓地の宮崎みたま園です。



写真K: 奥に公園墓地の柵 (さく)が見えます。 公園墓地に上 (あ)がる道のガードレールもあります。



写真L: 「公園墓地 宮崎みたま園 南入口」と書いてあります。



写真M: 宮崎県 宮崎市 池内町にある「宮崎みたま園」です。 山を切り開いて公園墓地が出来ています。
「宮崎みたま園 (公園墓地)」は宮崎県 宮崎市 池内町 天神面 3901 にあります。
宮崎みたま園は宮崎市営で11050区画の墓地があり、広さは約341300 平方メートルです。 桜やツツジもあります。 シンボルゾーン、多目的広場が2箇所、駐車場が16箇所、トイレ、水飲み場、東屋 (あずまや)、ベンチ、調整池が3箇所、管理事務所などがあります。



写真N: 「公園墓地 宮崎みたま園 中央入口」と書いてあります。



写真O: 右上に墓石が見えます。 東屋 (あずまや)、看板 (かんばん)、建物、飲料水の自動販売機、駐車場などもあります。



写真P: 左は車道です。 奥に進むと宮崎市 池内町の県道44号線との交差点「池内」に行きます。 手前に進むと宮崎市 大字新名爪 (にいなづめ)に行きます。 右は宮崎みたま園の建物 (管理事務所と思われます。)です。



写真Q: みたま園の駐車場です。



写真R: 「公園墓地 宮崎みたま園」の説明板があります。 公園墓地の地図も載 (の)っています。



写真S: 「ヘチマの実」が付いています。 公園墓地です。



写真T: 「石のまえだ」と書いてあります。 墓石などを製作する所です。



写真U: 「高瀬石材店」と書いてあります。 このあたりは下り坂になっています。



写真V: 左に溜池 (ためいけ)の水面が見えます。



写真W: 「土石流 危険 渓流 (けいりゅう)」、「急傾斜地崩壊危険区域 元神南地区」の看板 (かんばん)があります。



写真X: 民家が見えます。



写真Y: 奥の山に送電線鉄塔が見えます。 そこは宮崎城跡です。



写真Z: 近くの様子 (ようす)です。



写真AA: 看板 (かんばん)があります。



写真AB: 「赤いケイトウの花」が咲いていました。



写真AC: 左奥に「地金池」の堤防 (ていぼう)が見えます。 これは溜池 (ためいけ)です。 「花、野菜」、「蘭 (らん)直売 楠木洋蘭園」の看板 (かんばん)と店があります。 宮崎市 池内町です。



写真AD: 右奥に「地金池」の堤防 (ていぼう)があります。



写真AE: しっかりした造りの納屋 (なや)があります。



写真AF: 農業用ビニールハウスがあります。



写真AG: サザンカの花、キンカンの実、菊 (きく)の花があります。



写真AH: しっかりした納屋 (なや)。



写真AI: モウソウダケの竹林、杉林、崖 (がけ)なども見えます。



写真AJ: 中央奥に古賀総合病院、左に携帯電話の基地局アンテナ、右に農業用ビニールハウスがあります。



写真AK: 宮崎城跡のある山が見えます。 山の手前に、左右に県道44号線が通っています。



写真AL: 田園風景が広がっています。 送電線鉄塔、農業用ビニールハウスがあります。



写真AM: 南を見たものです。



写真AN: 来た道を振 (ふ)り返ったものです。



写真AO: 宮崎市 池内町にある「宮崎城跡」です。 山の上の送電線鉄塔が目印 (めじるし)になります。
宮崎城跡は池内城跡あるいは龍峰城跡、目曳城跡(めびきじょうあと)とも言われます。 宮崎県宮崎市 池内町にあります。
 標高 約90 m の山城です。 近くに満願寺跡があります。 丘陵の尾根に曲輪(くるわ、平らなところ)がいくつかある大規模な城郭で、南北700m、東西500mにおよびます。 南には、大淀川が西から東に曲がって流れ、天然の濠(ほり)になっていました。
 初めに、南北朝時代の図師六郎入道慈円が宮崎城を造った。 次いで伊東の日向48城の一つとして、都於郡城の後に佐土原城などと同じく整備され、伊東の豊後(大分県)落ちの後、島津の城になりました。 豊臣秀吉の九州征服の後は延岡の高橋の城となり、関ヶ原の戦いの直後に、清武城主の伊東の家臣 稲津重昌(稲津掃部助重政)により攻められ、高橋藩の家老で宮崎城主の権藤種盛など約100名で防戦しましたが、数倍の兵の稲津に破れ、1600年10月1日に城主以下討ち死にし、落城しました。 *[「稲津掃部助重政の墓」は清武町にあります。 稲津掃部助重政は若年より初代飫肥藩主 伊東祐兵(いとうすけたけ)の小姓となり、元来 勇気知謀に長(た)けていたため朝鮮出兵時は19歳ながら祐兵に重用され、さらに25歳にして地頭職を給(たま)わり清武城主となった人物である。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦にあたり、参戦したものの大阪で病に倒れた主君  祐兵の功績にと、稲津掃部助は延岡藩高橋氏の宮崎城(現 宮崎市池内)を攻め落とし、城主 権藤種盛を討ち取った。 しかしこのとき石田方(豊臣方)と思われていた高橋氏は徳川方に寝返っており、結果的に同士討ちとなってしまった。 さらに伊東祐兵もそのまま病死し、跡を継いだ祐慶(すけのり)が幼少であったことから、これまで稲津掃部助の重用を疎(うと)ましく思っていた藩の重臣らがこの責任を稲津掃部助 一人に負わせるなどしたため伊東祐慶は切腹を言い渡すこととなった。
 これに納得できない稲津掃部助は清武城に立てこもるが伊東祐慶の派兵を受けてついに自刃(じじん)し、29年の生涯を閉じた (稲津の乱)。 
 またこの時、稲津掃部助の妻 雪江もわずか15歳ながら退去の勧めを退(しりぞ)けて稲津掃部助と運命を共にしている。]*
 1615年江戸幕府の一国一城令で、宮崎城は当時 延岡藩の城でしたが、廃城になりました。
 2000年10月に落城400年祭が行われました。



写真AP: 橋に「新別府川」と書いてあります。



写真AQ: 宮崎市 池内町にある新別府川の橋です。 南を見たものです。



写真AR: 新別府川の上流方向 (北)を見たものです。 葦 (あし)、ススキなどが川に生 (は)えています。 左に古賀総合病院が見えます。



写真AS: 古賀総合病院です。 「古賀総合病院」は宮崎県 宮崎市 池内町 数太木 1749-1 にあります。
古賀総合病院は敷地面積が54839平方メートルで、急性期疾患を対象にした総合病院です。 平成6年9月に古賀総合病院は池内町に新築移転しました。



写真AT: 車道のそばにある「川上神社」です。 宮崎県 宮崎市 池内町にあります。 鳥居 (とりい)にしめ縄 (なわ)、「川上神社」と書いてある額 (がく)があります。 奥に社殿が見えます。 北を見たものです。



写真AU: 川上神社の鳥居 (とりい)の下部と境内 (けいだい)です。



写真AV: 石碑 (せきひ)が2つ見えます。 左の石碑には「在郷軍人・・・」と書いてあります。 川上神社です。



写真AW: 約8個の石があります。 しめ縄を巻いてある石もあります。 川上神社の境内 (けいだい)です。 宮崎市 池内町の田んぼ、農業用ビニールハウス、民家、山なども見えます。



写真AX: 消防団の建物があります。 1階に赤い消防自動車があります。 このような消防団の建物は各地にあります。



写真AY: 西を見たものです。 左奥に県道44号線との交差点が見えます。 左右に県道44号線が通っています。 右角 (かど)に商店があります。



写真AZ: 「造花、大野酒店、花」と書いてあります。 みかん、花などが見えています。



写真BA: 北西を見たものです。 「さかな屋、たばこ屋」、「服部商店」と書いてあります。 県道44号線です。 奥に進むと古賀総合病院、宮崎市 佐土原町 那珂 (なか)に行きます。 手前に進むと宮崎神宮などに行きます。



写真BB: 「服部商店、コカコーラ」、「さかな屋」、「たばこ屋」と書いてあります。 赤い郵便ポスト、飲料水の自動販売機なども見えます。



写真BC: 南を見たものです。 山の上に送電線鉄塔があります。 その山が「宮崎城跡」です。 ガソリンスタンド、農業用ビニールハウスもあります。



写真BD: 「池内 Ikeuchi」、「半感応式信号」と信号機に書いてあります。 県道44号線の池内交差点です。



写真BE: 「花、大野酒店」、「大石石材店→」と書いてある看板 (かんばん)があります。 その右に「いけうちゴルフ (エグゼクティブ サンゴルフ、練習場)の高いネットが見えます。 農業用ビニールハウスもあります。 北を見たものです。



写真BF: 東を見たものです。 この道路を奥からこちらに来ました。 奥に進むと「宮崎みたま園 (公園墓地)」、宮崎市 大字新名爪に行きます。



写真BG: 「pepsi NEX ZERO」を飲みました。



写真BH: 山水が流れ出ています。 そばにシダが生 (は)えています。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)