本町 稲荷神社 (宮崎市 佐土原町 上田島の庚申塔 (こうしんとう)、稲荷大明神)、憩梅庵薬師之跡 (鯨羊羹 (くじらようかん)の安田屋、元 佐土原町役場(今は佐土原地区公民館)、だんじりの手入れ (整備)、本町地区自治公民館、追手地区コミュニティセンター、武家屋敷 解体見学会 (佐土原町 上田島の元 武家屋敷)、国指定史跡 佐土原城跡 歴史資料館、セレモニーホール佐土原)  (宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島)







<標高、位置>  本町 稲荷神社 (稲荷大明神)と本町地区自治公民館は
標高 数 m
 北緯32度03分05秒  東経131度25分45秒

<標高、位置>  憩梅庵薬師之跡は
標高 約10 m
 北緯32度02分47秒  東経131度25分45秒


 「本町 稲荷神社 (稲荷大明神)」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島 本町地区にあります。
庚申塔 (こうしんとう)もあります。

 「本町地区自治公民館」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島 本町地区にあります。

 「憩梅庵薬師之跡」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島 にあります。

 「追手地区コミュニティーセンター」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島 追手地区にあります。

 「旧 飯田 邸」は宮崎市 佐土原町 上田島 にあります。
 旧 飯田 邸 (てい)は明治7年に飯田洞敬が建設しました。 この旧 武家屋敷解体見学会が行われました。 この家に住んだ飯田洞敬 (はんだとうけい、1847年~1922年 (大正10年に76歳で死亡。))は幕末から明治時代に、佐土原藩の御典医 (大名のお抱 (かか)えの医者。)でした。 佐土原町 上田島に住居と診療所を兼ねた建物を造りました。 飯田洞敬は、貧しい人からは、診療代を受け取らずに農産物、竹籠 (たけかご)をもらったと言われています。 地元住民からも尊敬されていました。 戊辰戦争 (ぼしんせんそう、1868年 (明治元年)~1869年の新政府軍と旧幕府側の戦いです。)のときに新政府軍側の佐土原藩の従軍医として参加し、その功績で俸禄 (ほうろく、職務に対する報酬の米または銭 (ぜに)。)が6石 (こく)から14石になりました。 飯田家は代々佐土原藩の御典医でした。 飯田洞敬は明治7年、28歳のときに佐土原町の旭町で開業しました。 この飯田 邸 (てい)は玄関に投薬口もあり、釘 (くぎ)は用いずに建設されています。


写真A: 「国指定史跡 佐土原城跡 歴史資料館」と書いてあります。 右に公衆電話ボックスがあります。



写真B: セレモニーホール佐土原と書いてあります。



写真C: セレモニーホール佐土原 (斎場)です。 鶴松館のそばにあります。



写真D: 左奥は鶴松館、右はセレモニーホール佐土原です。



写真E: 「追手コミュニティーセンター」と書いてあります。 この道は新道 (しんみち)と呼 (よ)ばれています。



写真F: 「追手地区」、「追手コミュニティーセンター」と書いてあります。 左の山は弁天山、その右に団地があります。 左手でゲートボールが行われているようです。 宮崎市 佐土原町 上田島 追手地区です。



写真G: 左の山は佐土原城跡です。 セレモニーホール佐土原も弁天山の手前に見えます。



写真H: 「追手地区コミュニティーセンター」と建物に書いてあります。 手前に石碑 (せきひ)があります。



写真I: 右は追手地区コミュニティーセンターです。 この車道を先に進むと鶴松館の前の道にぶつかります。



写真J: 「顕彰碑」が追手地区コミュニティーセンターにあります。
 当 追手地区コミュニティーセンター用地 (429 平方メートル)は井上勝次殿の100歳長寿記念として御寄贈いただいたものです。 勝次、トヨ殿御夫婦の御仁徳に対し区民一同深甚の謝意を表するものであります。 私共はこの意に添 (そ)うべく当コミュニティーセンターを恒久的公共の資産として、子供達育成の場、区民触れ合いの館、生涯学習の拠として広く活用することを誓 (ちか)い、ここに顕彰いたします。
平成5年3月吉日
と書いてあります。



写真K: 石碑 (せきひ)の裏です。 掲示板 (けいじばん)もあります。



写真L: 佐土原の名物である「だんじり喧嘩 (けんか)祭り」のダンジリの整備が行われています。 奥の小屋の中に青団のダンジリが見えます。 手前の2本の丸太 (まるた)はだんじりを担 (かつ)ぐ横棒と思われます。 人たちが力を合わせて作業をしています。



写真M: 青団のダンジリの屋根が奥に見えます。 その手前にダンジリの中段や足の部分があります。



写真N: 手前でダンジリの整備が行われています。



写真O: だんじりの丸太 (まるた)が2本見えます。



写真P: ダンジリの倉庫の左は竹林になっています。



写真Q: この車道の先に追手地区コミュニティーセンター、鶴松館の前の道などがあります。



写真R: 石灯籠 (いしどうろう)があります。 奥に愛宕神社 (あたごじんじゃ)の鳥居 (とりい)が見えています。 愛宕神社の参道です。 中央右に白い車が見えます。 そこを右に進むと「憩梅庵薬師之跡」があります。



写真S: 石灯籠 (いしどうろう)は左右に1つずつあります。 右の白い車のところから右に進みます。



写真T: 「憩梅庵薬師之跡、庵寺で薬師様が本尊・・・今も国土様とならびまつられている。」と書いてある標柱があります。



写真U: 「憩梅庵薬師之跡、庵寺で薬師様が本尊・・・今も国土様とならびまつられている。」と書いてある標柱。



写真V: 「憩梅庵薬師之跡、庵寺で薬師様が本尊・・・今も国土様とならびまつられている。」と書いてある標柱です。



写真W: 小高いところにお堂があります。
「憩梅庵薬師之跡」と思われます。



写真X: そばに木があります。 北を見たものです。



写真Y: 参道の坂道です。 舗装 (ほそう)してあります。



写真Z: 御手洗 (みたらい)があります。



写真AA: 憩梅庵薬師之跡にあるお堂です。 鍵 (かぎ)が見えます。
この中に薬師様、国土様が安置されています。



写真AB: お堂の下部です。



写真AC: お堂の中です。 仏像 、牛の像、花立てが見えます。 薬師様、国土様が安置されています。



写真AD: 牛の像、仏像、花立て、ロウソク立てなどがあります。 薬師様、国土様が安置されています。



写真AE: 2つ目の仏像があります。 「奉灯」がいくつかあります。 お堂の中です。 薬師様、国土様が安置されています。



写真AF: 仏像があります。 花を供 (そな)えてあります。 湯飲みなども見えます。 憩梅庵薬師之跡です。



写真AG: 左はお堂です。



写真AH: 竹も見えます。



写真AI: 北から見たお堂です。



写真AJ: お堂の上部です。



写真AK: 右はお堂です。 お堂から見下 (お)ろしたものです。 車道が見えます。



写真AL: 憩梅庵薬師之跡からの景色です。 愛宕神社 (あたごじんじゃ)の鳥居 (とりい)が見えます。 東を見たものです。



写真AM: 憩梅庵薬師之跡から宝塔山が見えます。 車道も少し見えます。 北東を見たものです。



写真AN: 北を見たものです。 遠くに新田原基地がある新田原台地が見えています。 憩梅庵薬師之跡から。



写真AO: 北西を見たものです。 遠くに弁天山 (べんてんやま)、団地が見えます。



写真AP: 宮崎市 佐土原町 上田島にある「憩梅庵薬師之跡」から弁天山 (べんてんやま)と団地が見えます。



写真AQ: お堂のそばです。



写真AR: お堂の西側です。



写真AS: 参道です。 白い車が見えます。



写真AT: 参道に御手洗 (みたらい)があります。



写真AU: まわりの景色です。



写真AV: 見上 (あ)げたときのお堂です。 この車の所から左に登ってお堂に行きます。 そこは憩梅庵薬師之跡です。



写真AW: 右の道は愛宕神社 (あたごじんじゃ)の参道です。 石灯籠 (いしどうろう)が見えます。 「憩梅庵薬師之跡」へは手前の車のところから左に登ります。



写真AX: 左は愛宕神社 (あたごじんじゃ)の鳥居 (とりい)です。 奥に道 (旧道)を進むと野久尾に行きます。 この建物は鯨羊羹 (くじらようかん)を作っている安田の工場です。
鯨羊羹 (くじらようかん)の「安田屋」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島 1424-4 にあります。



写真AY: 愛宕神社 (あたごじんじゃ)の鳥居 (とりい)と参道です。 東を見たものです。



写真AZ: 「鯨 (くじら)ようかん」、「安田精米工場」と書いてあります。
鯨羊羹 (くじらようかん)の「安田屋」は宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島 1424-4 にあります。



写真BA: 「鯨 (くじら)ようかん」と書いてある看板 (かんばん)、「安田精米工場」と書いてある建物があります。



写真BB: 左端の小さな祠(ほこら)の中の石が石敢當(せきかんとう)です。 右奥の建物は、元、佐土原町役場(今は佐土原地区公民館)です。 昔は、ここも金柏寺がありました。 金柏寺は明治4年の廃仏毀釈で廃寺になりました。
「石散燈(石敢當(せきかんとう))」。 T字路の突き当たりに建てる魔よけの石です。 「敢闘するところ敵なし」の意味だそうです。 「いしがんとう」が本来の呼び方ですが、佐土原では「せっかんとう」と呼ばれています。 散は敢の間違いと思われます。



写真BC: 奥に宝塔山が見えます。 東を見たものです。 左に宮崎銀行があります。 この道を進むと取り壊される直前の武家屋敷 (元 病院)があります。 突き当りには松巌寺があります。 昔、佐土原藩が戊辰戦争 (ぼしんせんそう、1868年~1869年)に出発するときにこの道で隊列を整えたそうです。



写真BD: これが明治時代の初期に建設された武家屋敷です。 今回取り壊されることになって、見学会が催 (もよお)されました。



写真BE: 宮崎市 佐土原町 上田島にある武家屋敷の塀 (へい)です。 紫陽花 (あじさい)が植えてあります。



写真BF: 武家屋敷の屋根と塀 (へい)です。



写真BG: 「古材倉庫」の幟 (のぼり)があります。 この武家屋敷を取り壊す業者の幟 (のぼり)です。



写真BH: 武家門が見えます。 「日向古材」と書いてある幟 (のぼり)が見えます。



写真BI: 手前は塀 (へい)の屋根です。



写真BJ: 見学会の「受付」と書いてあります。 手前は武家門です。 武家屋敷 (飯田邸)解体見学会が行われています。
「旧 飯田 邸」は宮崎市 佐土原町 上田島 にあります。
 旧 飯田 邸 (てい)は明治7年に飯田洞敬が建設しました。 この旧 武家屋敷解体見学会が行われました。 この家に住んだ飯田洞敬 (はんだとうけい、1847年~1922年 (大正10年に76歳で死亡。))は幕末から明治時代に、佐土原藩の御典医 (大名のお抱 (かか)えの医者。)でした。 佐土原町 上田島に住居と診療所を兼ねた建物を造りました。 飯田洞敬は、貧しい人からは、診療代を受け取らずに農産物、竹籠 (たけかご)をもらったと言われています。 地元住民からも尊敬されていました。 戊辰戦争 (ぼしんせんそう、1868年 (明治元年)~1869年の新政府軍と旧幕府側の戦いです。)のときに新政府軍側の佐土原藩の従軍医として参加し、その功績で俸禄 (ほうろく、職務に対する報酬の米または銭 (ぜに)。)が6石 (こく)から14石になりました。 飯田家は代々佐土原藩の御典医でした。 飯田洞敬は明治7年、28歳のときに佐土原町の旭町で開業しました。 この飯田 邸 (てい)は玄関に投薬口もあり、釘 (くぎ)は用いずに建設されています。



写真BK: 見学会の受付です。



写真BL: 武家門のそばの塀 (へい)です。



写真BM: 武家屋敷の塀 (へい)です。 左にアジサイを植えてあります。 宮崎市 佐土原町 上田島。



写真BN: 武家屋敷の屋根です。 右に弁天山 (べんてんやま)が見えます。



写真BO: 武家屋敷の木です。



写真BP: 木の上部です。



写真BQ: 武家屋敷のそばから東を見たものです。 宝塔山稲荷神社の近くにある佐土原幼稚園の多くの鯉 (こい)のぼりが見えます。 この道の突き当りは松巌寺です。



写真BR: 佐土原町 上田島にある武家屋敷です。
「旧 飯田 邸」は宮崎市 佐土原町 上田島 にあります。
 旧 飯田 邸 (てい)は明治7年に飯田洞敬が建設しました。 この旧 武家屋敷解体見学会が行われました。 この家に住んだ飯田洞敬 (はんだとうけい、1847年~1922年 (大正10年に76歳で死亡。))は幕末から明治時代に、佐土原藩の御典医 (大名のお抱 (かか)えの医者。)でした。 佐土原町 上田島に住居と診療所を兼ねた建物を造りました。 飯田洞敬は、貧しい人からは、診療代を受け取らずに農産物、竹籠 (たけかご)をもらったと言われています。 地元住民からも尊敬されていました。 戊辰戦争 (ぼしんせんそう、1868年 (明治元年)~1869年の新政府軍と旧幕府側の戦いです。)のときに新政府軍側の佐土原藩の従軍医として参加し、その功績で俸禄 (ほうろく、職務に対する報酬の米または銭 (ぜに)。)が6石 (こく)から14石になりました。 飯田家は代々佐土原藩の御典医でした。 飯田洞敬は明治7年、28歳のときに佐土原町の旭町で開業しました。 この飯田 邸 (てい)は玄関に投薬口もあり、釘 (くぎ)は用いずに建設されています。



写真BS: この車道を先に進むと、昔の佐土原町役場(今は佐土原地区公民館)があります。 弁天山 (べんてんやま)が見えています。



写真BT: 上田島にある武家門と武家屋敷の屋根です。 「古材倉庫 宮崎店 日向古材」の幟 (のぼり)があります。



写真BU: 武家屋敷の玄関です。 元は病院でした。 右の小窓をふさいであります。 この小窓は投薬口と思われます。



写真BV: 室内から玄関の格子戸 (こうしど)を見たものです。 右に小窓があります。



写真BW: 玄関から室内を見たものです。 見学会の参加者が多く来ています。 武家屋敷です。



写真BX: 玄関の登り口です。



写真BY: 玄関です。



写真BZ: 玄関の登り口です。



写真CA: 玄関の側面です。



写真CB: 武家屋敷の2階から見たものです。 細めの黒色の竹があります。



写真CC: 細めの黒色の竹があります。 武家屋敷。



写真CD: 「大正10年12月」と書いてあります。 佐土原藩の御典医 (大名お抱 (かか)えの医者。)だった飯田洞敬が死亡したのも大正10年でした。



写真CE: 武家門の扉 (とびら)です。 鉄製の円形のもの、鉄製の別の形のものも見えます。



写真CF: 武家門の扉 (とびら)の下部です。



写真CG: 見学会の参加者たちです。 武家門のそばです。 宮崎市 佐土原町 上田島。



写真CH: 赤い鳥居 (とりい)があります。 宮崎県 宮崎市 佐土原町 上田島 本町地区にある「稲荷神社 (いなりじんじゃ、稲荷大明神)」です。 その奥の白壁の建物は本町地区自治公民館です。



写真CI: 奥に進むと西都市に行きます。 西を見たものです。



写真CJ: 宮崎市 佐土原町 上田島 本町地区にある「稲荷大明神 (いなりだいみょうじん)」です。 庚申塔 (こうしんとう)、石灯籠 (いしどうろう)、手水舎 (ちょうずや)、社殿、石の柵 (さく)などが見えます。
宮崎市 佐土原町 上田島の「庚申塔 (こうしんとう)」がここに複数あります。



写真CK: 右の白壁 (しろかべ)の建物は本町地区自治公民館です。 奥に携帯電話の基地局アンテナが見えます。



写真CL: 左の本町 稲荷神社 (いなりじんじゃ)と本町地区自治公民館です。



写真CM: 商店街の車道に稲荷神社は面しています。 車道の北側にあります。



写真CN: 境内 (けいだい)に砂利 (じゃり)を敷 (し)いてあります。



写真CO: 手水舎 (ちょうずや)、御手洗 (みたらい)の右に石の仏像 (石仏)があります。 右端に石灯籠 (いしどうろう)、左端に赤い鳥居 (とりい)があります。



写真CP: 赤い帽子 (ぼうし)、エプロンをした石仏、石碑 (せきひ)があります。 その手前に石灯籠 (いしどうろう)があります。 左端は手水舎 (ちょうずや)です。 本町 稲荷神社です。



写真CQ: 北東を見たものです。 石灯籠 (いしどうろう)があります。 隣 (とな)りは駐車場です。



写真CR: 古い丸い石などが境内 (けいだい)にあります。



写真CS: 大、中、小の石仏と庚申塔 (こうしんとう)が本町 稲荷神社 (いなりじんじゃ)にあります。 西を見たものです。



写真CT: 石仏に花、湯飲みを供 (そな)えてあります。



写真CU: 庚申塔 (こうしんとう)や石仏があります。



写真CV: 「庚申塔 (こうしんとう)」と石に書いてあります。 本町 稲荷神社です。
これが宮崎市 佐土原町 上田島の「庚申塔 (こうしんとう)」です。
「庚申塔 (こうしんとう)」は、中国の道教の庚申信仰で造られた石塔です。 庚申講を3年18回続けた記念に建てられました。 庚申の日の夜に眠らないで天帝、猿田彦、青面金剛をまつり勤行したり宴会(えんかい)をします。 最古の庚申塔は埼玉県の庚申板碑で文明3年(1471年)のものです。 沖縄を除く全国各地にあり、多く建てられたのは江戸時代初期からです。 江戸中期から後期は「庚申塔」、「庚申」の文字のみの塔が増えました。 明治政府は庚申信仰を迷信として排除し、撤去しましたが、現在でも道路の交差点、村の入り口などに残っています。



写真CW: 一番手前の低い石にも庚申塔 (こうしんとう)と書いてあります。



写真CX: 石仏のそばから南を見たものです。赤い鳥居 (とりい)、石の柵 (さく)、手水舎 (ちょうずや)、石灯籠 (いしどうろう)があります。 下には砂利 (じゃり)を敷 (し)いてあります。 本町 稲荷神社 (稲荷大明神)です。



写真CY: 石の柵 (さく)に「一二三四町発起建設」と書いてあります。 この柵は大正十年五月吉日に建立 (こんりゅう)されました。 本町 稲荷神社です。



写真CZ: 北を見たものです。 本町 稲荷神社の社殿と石灯籠 (いしどうろう)です。



写真DA: 社殿の下部です。



写真DB: 「正一位 稲荷大明神」と書いてある額 (がく)があります。



写真DC: 本町 稲荷神社の中です。 中に格子 (こうし)があり、ご神体などが入っています。



写真DD: 稲荷神社の中です。



写真DE: 稲荷神社です。



写真DF: 北西を見たものです。



写真DG: 北を見たものです。 社殿のそばにベンチがあります。 奥は本町地区自治公民館です。



写真DH: 西を見たものです。 こちらにも椅子 (いす)が多く並 (なら)んでいます。 左は稲荷神社、右は本町地区自治公民館です。



写真DI: 稲荷神社を見上 (あ)げたものです。



写真DJ: 南西を見たものです。 赤い鳥居 (とりい)の奥に弁天山 (べんてんやま)が見えています。



写真DK: 宮崎市 佐土原町 上田島 本町地区にある「本町地区自治公民館」の玄関 (げんかん)です。



写真DL: 「本町地区自治公民館」と書いてあります。



写真DM: 公民館のそばです。



写真DN: シュロの木があります。



写真DO: 赤い鳥居 (とりい)のそばの石の柵 (さく)に「大正十年五月吉日」と石の柵 (さく)に彫 (ほ)ってあります。



写真DP: 「大正十年五月吉日」と石の柵 (さく)に彫 (ほ)ってあります。



写真DQ: 「算数・数学 英語 国語、宮崎西佐土原教室 KUMON」と看板 (かんばん)に書いてあります。 裏の本町地区自治公民館で行われているのでしょう。



写真DR: 「宮崎市 佐土原町 商工案内図」があります。 佐土原町 上田島の商店、銀行、食堂、医院、コンビニ店、佐土原人形製作所、自動車整備工場などが載 (の)っています。



写真DS: 「佐土原町 上田島の店、工場、お寺」などが載 (の)っています。



by 南陽彰悟 (NANYO Shogo)